第百九十四話「不安!」
ヘルムートをフローラの直臣にすると聞いてハインリヒ三世は驚きのあまり固まった。これから侯爵家のクリスティアーネを養っていかなければならないというのに、いつか結婚して出て行くフローラ付きというだけでも不安でしかない。それなのにさらにカーン『騎士爵』家に仕えるなどお先真っ暗にしか思えなかった。
「ちょっ、ちょっとお待ちください。カーン騎士爵家の直臣になるということは給金の支払いはカーン騎士爵家からということですか?カーザース家ではなくカーン家がヘルムートや……、クリスティアーネを養えると?」
アルベルトもいる場でその娘であるフローラにこのようなことを言うのは失礼だろう。しかし言わずにはいられない。
フローラのようなただの箱入りのお嬢様や騎士爵家などというのは所詮カーザース辺境伯家の後ろ盾あっての存在だろう。それなのにカーザース家と切り離されて騎士爵家直臣になどなったら今よりさらに悪くなるようにしか思えない。
「現時点でもカーン家からヘルムートの手当ては支払われています。クリスタと二人で暮らすくらいの額はあると思いますが?」
「いえ……、その……、人間二人が暮らせるだけのお給金があれば良いというものではなく……、その……、侯爵家のご令嬢の生活が……」
キョトンとした顔でそう言うフローラにハインリヒ三世は少々眩暈を覚えた。箱入り娘のお嬢様というのはどこでもこういうものかと思わずにはいられない。
クリスティアーネはラインゲン侯爵家の育ちだ。それはもう相当恵まれた環境で生きてきただろう。それこそフローラと同格並みかそれ以上の生活だ。そんなお嬢様を同水準の生活をさせようと思えば一体どれほどのお金と労力がかかるのかわかっていない。
今ならフローラは欲しい物があれば『あれが欲しい』『これが欲しい』と言えば出てくる生活を送っているのだろう。しかしそれらは普通の者には一生かかっても手に入らないような金額のものなのだ。カーザース辺境伯家がそれらの費用を払ってくれているからそのような生活が出来るのであって普通の者どころか伯爵家ですらカーザース家と同等の生活など出来はしない。
箱入り娘のお嬢様はお金の価値や労働の大変さというものがわかっていない。人に命令すれば何でも出てくる生活を送っているであろうフローラやクリスティアーネはそのお金を稼ぐということの大変さなど知らないのだ。
「わかりました。それではカーンブルクにヘルムートの家を用意しましょう」
しかもまるで良いことでも思いついたとばかりにポンと手を打ってそんなことを言い出した。家などそんな簡単に用意出来るものではない。普通の農民並の家を建てるか中古で手に入れるだけでも相当大変なことだ。奉公に出ているだけのヘルムートの給金から考えれば中古の農民の家でも手に入れるまで何年もかかるだろう。
もちろんヘルムートがクリスティアーネと結婚して一緒に生活するというのならば家は必要だ。いつまでも実家であるロイス子爵家の屋敷に住んでいるわけにもいかない。それも長男や家に残る次男の嫁だというのならともかく家を出される可能性が濃厚な三男の嫁ともなればいつまでもロイス子爵家の屋敷で同居しているわけにもいかない。
執事の間は住み込みで衣食住が保障される。それに比べて家族を持てば主人の屋敷に家族まで住まわせるわけにはいかず家が必要なのは確かだ。確かだが……、このお嬢様は家を持つということの大変さがまるで理解出来ていないのだ。
「家があってもですね……。もうはっきりお伺いしましょう。ヘルムートのお給金は一体いかほどなのですか?」
そして仮に運良く農民の中古の家が手に入ったとしてそんな家での生活にクリスティアーネが耐えられるはずがない。クリスティアーネの生活水準を維持しようと思えば莫大なお金がかかるだろう。それを騎士爵家の給金で賄えるはずなどないのだ。
「カーン家からの名目では二十万ポーロです……」
少し自信なさげにフローラが答える。そのお金の価値がどの程度であるのか多少なりとも理解しているのかもしれない。そう考えてハインリヒ三世はフローラへの評価を少しだけ上げた。『年収』二十万ポーロ程度ではクリスティアーネの生活は賄えないことくらいは理解しているのだろう。
「二十万……、それはさすがに……」
この国では月収一万ポーロ、年収十二万ポーロもあれば相当高収入だと言える。食料を自給している農家ならば現金収入はこの半分でも十分生活出来るくらいだ。食と住が自前で確保されている農家ならばそれほど現金を必要としない。
『年収』二十万ポーロならば家を出されて奉公に出ている低位貴族の三男以下にしてはとても良い待遇だと言える。奉公に出ている執事やメイドは衣食住全てが保障されているので手取りの給金としてはそれほど多くない場合が多い。
そもそも騎士爵家のような低位の貴族家ならば騎士爵本家の収入自体が僅かしかないのだ。そこから家人達に給金を分配すればほとんどお金は残らない。年商一千万円の企業が十人もの従業員を雇って養えないのと同じことだ。騎士爵家は収入が少ないから家人もほとんどおらず家族でやり繰りしていることが大半である。
そんな中からヘルムートに対して『年収』二十万ポーロも出しているのはむしろ騎士爵家としては大したものではあるがそれでも足りない。ヘルムートが普通に農民の娘や商人の娘を娶るというのなら十分すぎる生活が出来るだろう。しかしラインゲン侯爵家のご令嬢を養うにはまったく足りない。やはりこのお嬢様はお金の価値や苦労がわかっていないのだ。
「ですがヘルムートには商会でも働いてもらっています。というよりもカーン家の仕事と当家の商会の仕事は不可分なので働いてもらっている分、商会から別途お給金が支払われています」
「ほう?それはいかほどで?」
商会などという言葉を持ち出してきたことでハインリヒ三世はピクリと眉を上げた。昨今では商売の才能もない貴族が商売に手を出して借金を膨らませる例が後を絶たない。社会の厳しさも知らない箱入りお嬢様が安易に考えて経営している商会など儲かるはずがない。
「商会からも二十万ポーロです……」
再び自信なさげにそういうフローラを見ながらハインリヒ三世は考える。
「う~む……。四十万ポーロ……、それならば何とか……」
『年収』四十万ポーロ……。それならば十分高給取りではある。侯爵家とまったく同じ生活で何の苦労もかけないということは不可能であろうが、少なくとも生活に困るようなことはない。クリスティアーネの世話をする家人を雇う余裕もあるだろう。
「今度……、ハインリヒ子爵も一緒にヘルムートに与える家を見にいきましょう」
「はぁ……、わかりました……」
再びパァッと笑顔を咲かせてそう言うフローラにハインリヒ三世は曖昧に頷いた。カーザーンの北に出来ているというカーンブルクという町。最近開拓されたにしては賑わっているという噂は聞いているが直接訪れたことはない。
カーン騎士爵領は領主がカーザース家の娘とは言っても他領である。だからカーザース辺境伯家内では無闇にカーン騎士爵領へは行ってはいけないという暗黙の了解があった。用があって出かけている者もいるかもしれないがハインリヒ三世はカーン領に用があったことなどなく直接出向いたことはない。
いくらカーザーンに近く、カーザース辺境伯家の支援と後ろ盾があるとは言っても、ほんの数年前に拓かれたばかりの騎士爵領の町など小さなものだろう。いや、町ですらなく村と呼べるかどうかも怪しいものかもしれない。そんな所に農民用程度の家を与えられてもクリスティアーネは暮らしていけないだろう。
家から出すしかないと思っていた三男のヘルムートが仕官出来て『年収』四十万ポーロももらっているとなれば大出世だ。その上、主君の住む地に家を与えられるなど名誉なことだろう。例えそれが小さな農民の家であっても……。
しかし結婚相手が侯爵家のご令嬢ということでハインリヒ三世はこれからヘルムートには色々支援をしていかなければならないだろうということに頭を悩ませていたのだった。
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「はぁ~~~っ…………」
家に帰ってからもハインリヒ三世は盛大に溜息を吐いて頭を抱える。
「あなた……、どうかなさったのですか?」
妻のクレメンティーネが心配そうに声をかけてくるので今日の出来事を話して聞かせた。
ハインリヒ三世はラインゲン侯爵家が一体何の目的があってロイス子爵家などに縁談を持ち込んできたのかアルベルトに相談に行ったのだ。そしてもしこのまま結婚するということになるようならばカーザース辺境伯家にクリスティアーネを養うことを支援してもらおうと思っていた。
それなのに結局そんな話は何一つ進まず、それどころかヘルムートが完全にカーザース家から切り離されてカーン騎士爵家などという『騎士爵』家の直臣になることまで決まってしまった。ロイス子爵家でもクリスティアーネを養うことは厳しいのに騎士爵家などの給金でクリスティアーネを養えるはずがない。どうしたものかと頭を抱える。
「クリスティアーネはとても良い子だ。それはうちに来たことでわかった。だがな……、ヘルムートではクリスティアーネは養えない。カーザース家はヘルムートを切り離すことで暗に援助を断ってきた。ヘルムートが仕えるカーン騎士爵家などという家で養えるはずはない……。結局ロイス子爵家がクリスティアーネを養わねばならんのだ……」
もしクリスティアーネが満足のいく生活を送れずにラインゲン侯爵家に出戻りするようなことがあってはロイス子爵家は大変な立場に立たされることになるだろう。娘に苦労をかけさせたとか、疵物にして送り返してきたなどと言われてはロイス子爵家の立場が悪くなってしまう。
「このままでは……、結婚は考え直した方が良いかもしれんな……」
今はまだ婚約も正式決定されていない。今ならば縁談を断ってもロイス子爵家が公に批難される謂れはない。ラインゲン侯爵家との関係は悪くなるだろうが結婚させてから離婚ということになるよりはずっとマシだ。
「ヘルムートの収入はそれほど少ないのですか?」
クレメンティーネは不安げな顔でハインリヒ三世に問いかけた。夫がこれほど頭を抱えているのだ。もしかしたらヘルムートはタダ同然で働かさせられているのだろうかと不安になってしまうのもやむを得ない。
「『年収』四十万ポーロらしい」
「まぁ!四十万ポーロも?それは大変重用していただいているということではないですか。長男や次男には秘密にしておかなければなりませんね」
年収四十万ポーロならば長男ハインリヒ四世や次男ハインリヒ五世の収入よりも遥かに多い。ハインリヒ三世が個人的に使える金額に近いほどの額だ。
ロイス子爵家の収入全体でいえばもっと多いがそれはあくまで領主としての収入でしかない。さらに固定の支出や公費が必要であるために収入全てが自由になるわけでもない。そして収支計算した上での残りですら全て使えるわけではないのだ。
税収などの収入から主家や国に納める税金などの固定支出を差し引き、残った収入でロイス子爵家の予算を組み収支が計算される。その中から領主としてのロイス子爵家としてではなくハインリヒ三世個人の収入としていくらかお金が入ってくる。
封建制度においてはこの辺りのお金は曖昧になっており領地経営のための収入やお金なのか、領主個人のお金なのかという線引きはないことも多い。ロイス子爵家だけではなくプロイス王国内においてもそれは非常に曖昧ではあるが、収支を超過しないようにロイス子爵家では残った予算からハインリヒへの給金として支払われている形になっている。
そのハインリヒ三世の個人的収入、つまり領主としての働きに対する給料とでもいうべきお金の金額はその年の税収にもよるがヘルムートが貰っているという額とそう大差はない。ただし……。
「ヘルムートが貰っているのはカーン騎士爵家から二十万、カーン騎士爵家が経営している商会から二十万だそうだ。騎士爵家は王国から領地を賜っているのだからある程度安泰だろうが商会はな……」
ハインリヒの不安はそこだった。騎士爵とはいえ貴族は王国に領地と身分を保証されている。よほどのことがない限り潰れることもないだろうし領民がいる限り収入が途絶えることはない。しかし商会はそうではない。仮に今うまくいっていても何かの弾みで商会が潰れたらそれで終わりだ。それどころか経営に深く関わっていたら商会が潰れた際に出来た借金まで背負わさせられるかもしれない。
領主から四十万貰っている、あるいはそれに相当するほどの領地を与えられているというのならまだ安心出来る。しかし収入の半分がいつ潰れるかもわからない商会からの収入というのが不安だった。
「とりあえず新居はカーン騎士爵家がカーンブルクという新しい町に用意してくれるらしい。今度それを見てくることになった」
「領主様が直々に家まで与えてくださるなんて素晴らしいことではないですか」
クレメンティーネは素直に喜んでいるがハインリヒ三世は喜べない。ヘルムートが独り身ならば田舎に農民の家を貰っても喜べただろう。しかしクリスティアーネが住むとあっては馬小屋のような場所など貰っても困るだけだ。
「その用意してただける家の視察というのは私も同行出来ますか?」
「ふむ……。聞いておこう……」
妻にも見せておく方が良いかもしれない。小さな馬小屋のようなものを貰ってもクリスティアーネを住まわせるわけにはいかない。その時に妻が与えられた家を理解しているかどうかで、実家であるこの屋敷にクリスティアーネを住まわせるのに同意を得やすいだろうと思ってハインリヒ三世は妻の同行を聞いてみることにしたのだった。