第百九十二話「主家にお伺い!」
ヘルムートには目の前で起こっていることが現実であると理解出来なかった。妹の申し出で今日急に一日休みを貰うことになり、妹と一緒に実家に帰ることになった。すると何故か帰りの馬車の中にはラインゲン侯爵家のクリスティアーネお嬢様が座っており、実家に帰るとそのクリスティアーネお嬢様と自分の婚約の話が着々と進んでいる。
意味がわからない。クリスティアーネが自分のことをそれなりに好意的に見てくれていることは理解していた。しかし侯爵家のご令嬢と子爵家の三男坊が結婚することなどあり得ないと思っていた。この国では娘にはいくらでも使い道がある。
家の跡継ぎはほとんどが長男となるだろう。プロイス王国では長子相続や長男相続という決まりがあるわけではない。しかし長男がよほど問題のある人物であるか途中で亡くならない限りは大抵の家は長男に継がせる。次男の家系は長男の家系が途絶えた時のために予備扱いされることはあるだろうが、最終的には三男以下の息子達は家から出されることが多い。
それに比べて娘は長女であろうが次女であろうが三女であろうが嫁に出して他家と縁戚関係を結ぶという利用方法がある。むしろ娘は多い方が良いという者すらいるくらいだ。長女だから良い、三女だから悪いということはなく政略結婚の道具として娘は非常に重宝されている。
子爵家ですら継ぐ可能性が低くいずれ家から出されることになるであろう三男であるヘルムートと、貰い手などいくらでもいる侯爵家の娘であるクリスティアーネが結婚するなど誰も思わない。それなのに自分の知らない所で話はあれよあれよと言う間に進み、もう決定であるかのように家族達にさえ受け入れられていた。
いや、一人受け入れていない人物がいる。父ハインリヒ三世や母クレメンティーネは受け入れてクリスティアーネと親しくしているというのに、兄ハインリヒ四世は言葉でこそ言わないものの納得していない様子だった。
何故こんなことになったのかわからない。まるで誰かが裏で事を操っていて自分は嵌められているかのような錯覚すらしてしまうほどに全てが簡単に進んでいる。これほど重大なことがこんなに簡単に進んで良いものか。そうは思うが最早ヘルムートには止めることも出来ない。
流されるままに両親とクリスティアーネは親しくなっていき打ち解けている。今日はクリスティアーネはロイス邸に泊まることになり、次男ハインリヒ五世を除く家族とクリスティアーネで一緒に夕食を摂ることになったのだった。
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夕食後ヘルムートは裏庭のテラスに出ていた。表は家と道路の距離が近く馬車ごと敷地に入って玄関口で乗り降りするということは出来ない。この辺りは下位の貴族の家が並ぶ一画で道路に馬車を停めて降りるとすぐ家という作りの家が並んでいる。それに比べて建物の裏には小さいながらも裏庭がありテラスがある。そのテラスで夜空を見上げながら考える。
どうしてこうなったのだろうか。自分はただフローラお嬢様に身も心も捧げて仕えたかっただけだった。それなのに何故か気がついたら侯爵家のご令嬢と婚約するかしないかの瀬戸際まで来てしまっている。
別にクリスティアーネが嫌いということはない。むしろ素晴らしいご令嬢だと思っている。自分などとは釣り合わないほどの相手でありこんな所に嫁いで来て良いような人物ではないとすら思っている。それなのに何故……。
「ヘルムート様……」
「クリスティアーネお嬢様……」
後ろから声をかけられてヘルムートは腰掛けていたベンチから立ち上がって振り返った。そこには不安そうな顔をしたクリスティアーネが立っている。
「ヘルムート様……、ヘルムート様にご相談もせずこのようなことをした私のことを嫌いになりましたか?」
「えっ?いえ……、それは……」
そこでふと考えてみる。自分はクリスティアーネを恨んでいるだろうか?嫌いだろうか?
「それでは私と結婚するのはお嫌ですか?」
「そんなことはありません」
次の質問には即答する。本来クリスティアーネほどのご令嬢ならば結婚相手など引く手数多で結婚相手など選び放題だろう。子爵家の三男坊でしかない自分などは一生そういう関係にならない高嶺の花だとしか思っていなかった。
ただ意識していなかっただけでいざクリスティアーネを結婚相手と考えた場合に嫌だと思う気持ちはこれっぽっちもない。
見た目はとても美しい、(フローラには敵わないが……)。性格もとても良い、(フローラには敵わないが……)。生まれも育ちも良い、(フローラと同格級で……)。
どこにも問題はない。表立った欠点もない。高位貴族のご令嬢にありがちな傲慢さや思いあがりもなくとても思いやりのあるクリスティアーネのことを嫌いになる男はまずいないだろう。
しかし……。そう、しかし……、である……。
「ですが私は……」
「フロトへの気持ちは忘れられない……、ですか?」
「ぅ……」
そこまで言うつもりはなかった。主家の娘ではない。今となっては自らが仕える主君ともなっている相手に子爵家の三男程度の自分が懸想しているなど表に出してはならない感情だ。それを真っ直ぐ指摘されてヘルムートは言葉に詰まる。
「私もヘルムート様のお気持ちがわかります。もし私がヘルムート様に恋していなければフロトのことを好きになっていたでしょう。いえ……、今でも……、同性同士でおかしいと思われるかもしれませんが私もフロトのことが好きです。お友達としてという感情ではなく愛という感情で……」
「それは……」
クリスティアーネの言葉にヘルムートは何も言えなくなった。同性同士の恋愛などプロイス王国の国教や倫理観的に許されることではない。それを正直に告げるクリスティアーネに驚きを隠せなかった。
「ですが私はとてもあの輪の中には入っていけません。確かに淡い恋心のようにフロトに惹かれているのは確かですが私は他の方々のようにはっきりと、世間の倫理観や禁忌に逆らってまでフロトについて行こうという覚悟はありません」
「…………」
ヘルムートは黙って耳を傾ける。茶化したり途中で口を挟むのが憚られるほどにクリスティアーネは真剣だからこそヘルムートも黙って聞くことしか出来ない。
「ですがそれ以上に私はあの時私を守ってくださったヘルムート様のことをお慕い申し上げております。それは決してフロトへの思いの代わりでもなければ逃げでもありません。フロトへの思いが淡い初恋のようなものだとすればヘルムート様への思いは確かな愛なのです」
クリスティアーネの言わんとしていることもわかる。二人も三人もと付き合うというのはどうなのかと思われるだろう。しかしその前段階としてあの子も気になる、この子も好きだ、ということは有り得るだろう。複数人同時に気になることだってある。その中から一人を選ぶことは決して不義理でも不貞でも逃げでもない。
「すぐに私と結婚というのは難しいかもしれません。ですがまずは婚約者として私のことを知ってください。その後で私のことが好きになれないのであれば婚約破棄していただいても構いません。どうか……、どうか私に一度だけでも機会をください」
ここまで言われて、女の子にここまで言わせて、いつまでもうろたえているわけにはいかない。それにヘルムートもクリスティアーネのことを憎からず思っている。この先がどう転ぶかはわからない。しかし世間体も家名も捨ててでも自分と結ばれたいと真っ直ぐに好意を向けてくるクリスティアーネを跳ね除ける理由はもうなかった。
「クリスティアーネお嬢様……」
「クリスタと……、クリスタとお呼びください」
クリスティアーネに近づきその肩に手を乗せると潤んだ瞳で見上げてそう言われた。少し間を置いて呼吸を整えてから再び口を開く。
「クリスタ……、私の気持ちはまだ固まったとは言えない。何より今でも戸惑いの方が大きい。でもこれだけは断言出来る。私もクリスタのことが好きだ。それはまだフローラお嬢様への思いには及ばなくとも先のことはわからない。これから少しだけ私にクリスタの時間を譲って欲しい。その間に二人でお互いを知り合い確かめよう」
「はい!不束者ですがよろしくお願いいたします」
ヘルムートはまだ結婚や婚約を了承したわけではない。ただこれからお互いの気持ちを確かめ合おうと言っただけだ。クリスタはまるでもう二人の結婚が決まったかのようにはしゃいでいるがそれを無理に止めようという気はヘルムートには起きなかった。
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翌日、朝からカーザース家に使いを出すと同時にハインリヒ三世は出かける準備に取り掛かった。使いが帰って来てカーザース家から面会の約束を取り付けたと報告を受けるとすぐに出かける。
ヘルムートとクリスティアーネの婚約について相談したい。そのための面会の希望を出していたのだ。面会の約束が取り付けられたのでハインリヒ三世とヘルムート、そしてカタリーナとクリスティアーネが馬車に乗ってカーザース邸へと向かう。
カタリーナだけ席を外して残りの三人がアルベルト辺境伯の執務室に入ると二人の人物が待っていた。一人はもちろん部屋の主アルベルト辺境伯。もう一人は暫く見ていない間にまたさらに美しさに磨きがかかっているが見間違えるはずもないフローラ・シャルロッテ・フォン・カーザースだった。
何故応接室ではなく執務室なのか。そして何故フローラお嬢様も同席しているのか。ハインリヒ三世にはわからなかったが口を挟むべきことではないと黙ってアルベルト辺境伯に従う。
「本日はお忙しい中お時間をいただきありがとうございます。早速ですが……」
簡単な挨拶の後に早速本題を切り出す。アルベルトは無駄に長い挨拶や口上を好まない。端的に用件を述べる方が良いと知っているハインリヒ三世は冗長にならないように考えてきていたことを端的に述べた。
「ふむ……。つまりロイス家とラインゲン家の婚約、結婚について相談したいということだな?」
「はい」
この場にはクリスティアーネもいることからはっきりとは言っていないがそこには『ラインゲン家は何か狙っているのでは?』というニュアンスも含まれている。これほど家格の見合わない結婚を許可しているということは何か政略的な意味があるのではないかと判断を仰ごうというのだ。
「フローラはどう思う?」
そこでアルベルトは娘フローラに話を振った。ハインリヒ三世には事情が理解出来なかったが黙って耳を傾ける。
「はい。この婚約、結婚にはラインゲン家は陰謀も政略もありません。ラインゲン家はあくまでクリスタの希望に沿うように許可を出しただけでロイス家やカーザース家臣団に何かしようという意図はないと断言します」
クリスティアーネもいるというのにやけにはっきり言うものだとハインリヒ三世は思った。それに何故そこまではっきり断言出来るというのか、それもハインリヒ三世にはわからない。
「仮にそうであったとしても当家では侯爵家のご令嬢を養うのは困難です……」
例えばこれが長男の結婚相手であったならば精一杯頑張って侯爵家の嫁を養っただろう。しかし領地を与える余裕もない三男の嫁にそこまで出来るものではない。それどころかもう少ししたら家を出すかもしれないのだ。長男、次男の家が安定すれば三男の役割はなくなり独自に生計を立ててもらわなければならないかもしれない。
「それなのですが今回のことをきっかけにヘルムートの現在の扱いをはっきりさせましょう」
フローラの言葉にハインリヒ三世は首を傾げる。ハインリヒ三世にとってはヘルムートの立場ははっきりしている。長男はすでにロイス子爵家の跡継ぎとしてアルベルトにも紹介しロイス家の経営に携わっている。そして次男ももしもの時のために領地経営を学んでいる。それに比べてヘルムートはカーザース家に奉公に出てフローラ付きの執事となっているはずだ。そこに何の問題もない。
しかしフローラの話を聞いてハインリヒ三世はヘルムートが思ったよりもややこしい立場であることを理解した。ヘルムートの立場は現在非常に曖昧だ。
カーザース家から見れば確かにヘルムートはロイス家から奉公に来ている執事でフローラ付きとなっている。しかし同時にフロト・フォン・カーン騎士爵に仕える執事でもある。カーン家のことはカーザース家内においても扱いが難しく正確に理解している者は少ない。その曖昧なままここまで来てしまっているがそれを整理する良い機会だとも言える。
「私としてはヘルムートをロイス子爵家から独立させ、カーン家の直臣にしたいと思っています」
「なっ!」
ハインリヒ三世は驚きを隠せなかった。カーン騎士爵家というのがどれほどのものかは知らないが、騎士爵家程度が三男とはいえ子爵家の息子を養うだけでも難しいだろう。それなのにその子爵家の息子の嫁が侯爵家ともなれば騎士爵家が養えるはずがない。それはロイス子爵家で面倒を見るよりもさらに無理な話だ。
「ふむ……、そうだな……。ではイザベラとヘルムートには暇を出そう。これで正式にカーン騎士爵家の直臣となるということで良いな?」
「はい」
それなのにアルベルトはあっさりと許可を出しヘルムートは悩むこともなく引き受けた。クリスティアーネ嬢も喜んでいるだけで何の反対もしない。この状況についていけないハインリヒ三世だけが困惑していたのだった。