第百九十話「ご挨拶!」
カタリーナがヘルムートと共に今日は別行動すると聞いてクリスタは一瞬驚いた。カタリーナが自発的にフロトと離れて行動するなど滅多にあることではない。
しかしその真意はすぐにわかった。カタリーナがじっとクリスタを見ている。それで全てを察したクリスタはカタリーナに頷いてみせた。
「ごめんなさいフロト。私も少し外させてもらうわ」
「クリスタ?」
この機を逃すわけにはいかないと声をかけたクリスタにフロトは驚いた顔をしていた。それは何も別行動することを咎めているわけではない。もしかして長旅を終えてすぐに連日連れ回したために体調を崩したのではないかととても心配されて心苦しくなる。
フロトが心配してくれているようなことはまったくない。いくらクリスタが箱入りのお嬢様とはいっても食事も栄養バランスが考えられたメニューできちんと三食摂り、適度な休憩や快適な睡眠を提供されて体調を崩すほど弱くはない。むしろ程よく運動していて食事もきちんと摂って家に居た頃より調子が良いくらいだ。
クリスタは自分の個人的目的を達成するために別行動すると言ったのだ。それなのにこれほど心配させてしまって心苦しい。しかしやめるつもりはない。この機を逃すわけにはいかないのだ。
出掛けて行ったフロト達から少々遅れてカタリーナ達もカーザース邸を出ることになった。カタリーナやヘルムートは後片付けなどもしなければならないのだからすぐに出られるはずもない。気を落ち着けようとお茶を飲んでいたクリスタにカタリーナが近づいてきた。
「クリスティアーネ様、それではロイス子爵家へご案内いたします」
「ありがとう。……こうして直接打ち合わせをするのは初めてね。私はどうすれば良いのかしら?」
確かに二人は目と目でわかりあっていた。しかし実際に口で話して打ち合わせするのはこれが最初で、そして恐らく最後になるだろう。この後ロイス家へと行ってしまえばもうあとはクリスタが自力で頑張るしかない。カタリーナと打ち合わせ出来るのはこれが最後だ。
「難しいことは何もする必要はありません。いつも通りのクリスティアーネ様を両親に見せれば良いのです。最初に無理をしても長続きしません。ありのままのクリスティアーネ様で臨まれるべきです」
「なるほど……」
変に畏まったり、いつもと違うようにすればそれは無理をしているということで、無理をしていればどこかに歪みが出来てやがて崩壊するだろう。
自分を良く見せたい、良く思われたいというのは誰にでもある。それもどうでも良い相手ではなく意中の人のご両親にご挨拶に伺うのだ。ご両親の心証を良くしようと背伸びをして振る舞おうとする者は多いだろう。
しかしそんな無理をして嘘の自分を見せて高評価を得ても意味はない。そんな無理や嘘はやがて化けの皮が剥がれる。無理や嘘を通そうとすれば自分が疲れてやがてそれを続けることが苦痛になるだろう。そして疲れたからと途中でやめてしまえば折角最初に好印象を抱かれても、いや、最初がよかったからこそ途中で態度が変われば余計に悪い印象に変わってしまう。
それならば最初から無理をせずありのままの自分でいく。カタリーナの言葉でクリスタは勇気付けられた。
フロトは本当に人に恵まれている。カタリーナはとても気が利くし頭も良い。そしてカタリーナだけではなくフロトの周りに集う少女達は皆とても良い子達ばかりだ。イザベラという老メイドはクリスタの家に仕える誰よりも確かな腕と経験を持っている。そしてヘルムートも……。
何でも出来て全てを持っているフロトを羨む気持ちがないと言えば嘘になる。しかしフロトはフロト、自分は自分だと考えるクリスタはフロトに嫉妬するよりもお互いを認め合ってより良い関係でいたいと願う。だから今日はカタリーナが言うように自分らしく自分のままでご両親に挨拶しようと覚悟を決めたのだった。
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カタリーナに言われるがままヘルムートは馬車に乗せられた。意味がわからない。何の意味がわからないかと言うと自分が御者席に座るわけでもなくクリスティアーネが乗っている馬車の中に何故か座らさせられていることだ。しかも行き先も教えられてはいない。
ただ無理やりカタリーナに馬車に押し込まれてみれば中にはすでにクリスティアーネが座っていて驚いた。どうすれば良いのかわからないまま馬車は走り出しどこかへ向かっている。
そして到着したのは出発からほんの僅かな時間の後だった。到着した場所を見てヘルムートはますます意味がわからなくなった。そこは自分も良く知っている場所、カーザース邸からそれほど離れていない貴族街の中にあるロイス子爵家の家の前だった。
カタリーナと自分がロイス家に帰ってくることはまだわかる。元々今回の帰郷で久しぶりに実家に挨拶に行こうと言っていたのはむしろヘルムートの方だった。フローラに仕えるようになってから家に帰っていないカタリーナにたまには家に帰るように言っていたのはヘルムートの方だ。
そのカタリーナが実家に帰るというのならそれは本来ヘルムートも歓迎すべきことのはずなのに素直に喜べない。この状況がまったく理解出来ずどうしていいのかわからない。いつものヘルムートらしくなく判断に迷っていた。
「クリスティアーネお嬢様が降りるために昇降台を用意して手を取ってください。……はやく!」
「――ッ!」
カタリーナに言われてようやく動き出す。いつもなら言われるまでもなく完璧に行動出来ているはずのヘルムートもこの状況ではどうして良いか考えが纏まらなかった。ただ言われるがままに馬車から降りて昇降台を用意しクリスティアーネの手を取って馬車から降ろす。
「ありがとうございますヘルムート様」
「はっ……」
「さぁクリスティアーネお嬢様、こちらです」
どう対応して良いのかわからないヘルムートを他所にカタリーナがクリスティアーネを先導してロイス子爵邸へと入って行く。玄関の外でも出迎えの者がいたが玄関を入ってもロイス家の家人が勢揃いしているのかと思うほどに大勢の人間が待ち受けていた。
ヘルムートからすれば仕えているお嬢様をエスコートするのと同じようにクリスティアーネをエスコートしただけだった。しかしそれを見ていたロイス家の面々にはどう映っただろうか。
主家のフローラを連れて来て昇降台を用意し、手を取ってエスコートしたのならば何とも思わないだろう。ここにいる家人達も全てそういうことはしてきている。ロイス家のご令嬢であるカタリーナをエスコートする際には自分達も同じようにするのだからそこに特別な何かがあるとは思わない。あくまで家人としての仕事の一環と受け取る。
しかし相手が『ある目的のために訪れた』と聞かされているご令嬢だったならばどうだろうか。そろそろ良い年であるはずのヘルムートが、『ある目的』のために家族も家人も全てを集めて全員の前でお披露目したご令嬢。そのご令嬢の手を取って馬車からエスコートしている姿を見てどう思うのか。これは全てカタリーナの計略だった。
家人は普段は色々な所に出向いていたりして常に家に全員がいるはずがない。両親付きやヘルムートの兄達に付いている家人はそれぞれの主に付いて行動しているだろう。それ以外にもロイス邸を管理する者もいれば、ロイス家の領地を管理している者もいる。あちこちに散っているはずの者達が何故今日に限って勢揃いしているというのか。
さらにわからないのが両親や兄だ。こんな日のこんな時間に家にいるはずのない両親と兄がヘルムート達を出迎えたのだ。ヘルムートは今日カタリーナと一緒に実家に帰るなどと伝えてはいなかった。むしろ今日のつい先ほどまではまさか今日実家に帰ることになるとも思ってもいなかったのだ。両親と長男がいることでもしかして何か大変なことでもあったのかと思ってしまったくらいだった。
「ようこそ参られた。私がこの家の主、ロイス子爵ハインリヒ三世だ」
「本日はお忙しい中お時間を取っていただきありがとうございます。お初にお目にかかります。私はクリスティアーネ・フォン・ラインゲンと申します。本日はヘルムート様と正式に婚約するためにご挨拶に伺いました」
「――!?!?」
クリスティアーネの言葉にヘルムートは驚きを隠せない。ヘルムートは鈍感系主人公でもないし非常にモテるので好意を寄せられることにも慣れている。クリスティアーネが自分に対してそれなりに好意的であることは自覚していた。しかし……、そう、しかしまさかである。
まさかいきなり婚約の話が出てくるなど夢にも思っていなかった。そもそもラインゲン侯爵家とロイス子爵家では家格が違いすぎる。普通に考えて侯爵家が子爵家に嫁ぐことを許すはずがない。それに受け入れるロイス子爵家の方も大変だ。侯爵家のご令嬢に不自由させないような生活をさせるなど並大抵の負担ではない。
子爵家に嫁いだのだから子爵家らしい慎ましい生活をしろなどと言えるはずもないだろう。そんなことになって実家である侯爵家に不満の一つでも言われようものならば家が吹き飛びかねない大惨事になりかねない。だからこそ子爵家側とて身の丈に合わない結婚など望まないのだ。
このような身分違いの結婚で高位の貴族家と繋がりが出来たと無邪気に喜ぶような間抜けな低位貴族は存在しない。そんなことになれば嫁いできたご令嬢に失礼のないように毎日が大変な負担になってしまう。だからヘルムートは自分とクリスティアーネが結婚するなど考えたこともなかった。
それなのに……、誰も驚いてもいない。ただ普通にその言葉を受け止めているだけだ。驚いているのが自分だけだということにも気付かないほどヘルムートは驚いてるというのに周囲は落ち着いたものだった。それは全てカタリーナが事前に今日ヘルムートの婚約者を連れてくると知らせていたからである。
「こんな所で立ち話も何でしょう。さぁさ、座ってお話しましょう」
ヘルムートの母、クレメンティーネが促したことで全員が応接室へと移動したのだった。
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まずは全員が挨拶をしていく。ロイス家は代々ハインリヒという名前を受け継いでいる。そこに序数がつけられるのでヘルムートやカタリーナの父はハインリヒ三世、ここに同席している長男はハインリヒ四世である。さらにここにはおらず領地経営を行っている次男はハインリヒ五世となっている。
何故ヘルムートだけハインリヒの名を継いでいないかというと最初から跡継ぎとして考えられていなかったからだ。長男、次男は跡継ぎと、言い方は悪いが何かあった時のための交代要員として考えられていた。しかし三男ともなればもう跡継ぎの可能性は低いだろうとヘルムートと名付けられたのだ。
ただし万が一にも長男、次男の家系が全て断絶していればハインリヒ六世と名を改めて当主になっていたかもしれない。今の所は長男、次男の家にはすでに跡継ぎがいるのでヘルムートがハインリヒの名とロイス家を継ぐ可能性はほぼない。
ヘルムート達の母は先ほども応接室へと促した女性でクレメンティーネ・フォン・ロイスという。ロイス家はヘルムートとカタリーナを加えて三男一女である。
ちなみに父ハインリヒ三世が三世だからと三代しか続いていないわけではない。元々カーザース家に仕えておらずカーザース領にはいなかったロイス家がカーザース家に仕えてカーザース領に来てから三代目なので三世だ。カーザース家に仕えた時に一世に名乗り直したからであり実際には家系はもっと古くから続いている。
「それで……、申し訳ないのだが私はラインゲン家という家のことを知らないのだが……、どのような家か教えていただいてもかまわないかな?」
ハインリヒ三世、ヘルムートパパはお茶を飲んで一息ついてからクリスティアーネに尋ねた。どちらにしろもうほぼ家を継ぐことがないであろうヘルムートの結婚相手ならば一般市民でも何でも構わないと思っている。ヘルムートが望む相手と結婚出来ればそれが一番良いと妻クレメンティーネとも話し合っていた。
しかしいざ結婚するとなれば犬や猫を貰うように決めるわけにはいかない。中央政界とは距離を置いているカーザース家に仕える家々も少々中央政界……、どころか他所の貴族家に疎い家が多い。ヘルムートパパも冗談や探りではなく本当にラインゲン家という家を知らなかった。
ただ姓があり物腰や身に付けている物、話し方や作法から何から考えるまでもなくクリスティアーネが良い所の育ちであることは一目でわかっている。今日ヘルムートと婚約者を連れて帰るから全員集まっておけとカタリーナに言われていたがどんな相手が来るのかまでは知らされていない。
今日初めて見るヘルムートの婚約者候補を悪く言えば品定めするかのように見詰めていた。
「はいお義父様、ラインゲン家はプロイス王国建国時より仕える歴史ある家です。戦功により侯爵家に叙されて以来今日までラインゲン侯爵家としてプロイス王国に仕えております」
「こっ、侯爵……?」
「「…………」」
クリスティアーネの言葉でその場が凍りついた。ヘルムートパパとクレメンティーネ、ハインリヒ四世=ヘルムート兄は三人揃って『ギギギッ』と油が切れたブリキのように硬い動きでヘルムートを睨みつけたのだった。