第百七十二話「懐かしき我が家?」
遠くに見えてきた懐かしい城壁にガブリエラとアレクサンドラはうっすら涙ぐんでいた。
「まさかもう一度カーザーンに戻ってこれるとは思っていなかったわ」
「そうですわねお母様……。これもフロトの……、フローラのお陰ですわ……」
二人は馬車の窓から見えるカーザーンの城壁を感慨深げに見詰めている。そして同じようにその景色を懐かしんでいる者がもう一人いた。
「うわぁ……、懐かしいなぁ……。私ももうここへは帰ってこられないかと思っていたよ……」
ルイーザも幼い頃に過ごしたその町を眺めて胸に去来する様々な想いを噛み締めていた。
「ふ~ん。あれがフローラの育った町ね。まぁまぁ立派な町じゃない」
「そうだね。僕もカーザーンに来たのは初めてだけどあれほど立派な町はそうそうないよ」
ミコトの言葉にクラウディアも同意する。確かに田舎の地方都市というにはカーザーンは随分立派だった。遠目にもその規模や繁栄ぶりがよくわかる。
しかし魔族の国の王女であるミコトや、王都生まれ王都育ちで仕事の関係上多少は他の大規模都市も見たことがあるクラウディアにとっては特別凄いというほどではなかった。侮れないが一番というほどでもない。それが二人の率直な感想だ。
馬車での旅の間フローラと同じ馬車になる機会が均等になるようにと五人の取り決めがなされていた。カタリーナだけはやむを得ないが他のメンバーは交代でフローラと同じ馬車に乗っていた。今は向こうの馬車にはフローラと両親にカタリーナとクリスタが乗っている。他のメンバーはこちらの馬車に集合していた。
「え?……あれ?通り抜けちゃった?」
クラウディアが言う通り城門を潜って町へと入った馬車はそのまま北上を続け町を抜けて森へと入って行く。他のメンバーも意味がわからずお互いに顔を見合わせていた。
「うわぁ!まだここの農場と牧場もやってたんだね」
「本当ですわね」
ルイーザとアレクサンドラだけがカーザーンの城壁の北の外にある農場を見て懐かしむ。ルイーザはここで働いていたしアレクサンドラは森の中にあったフロトの小屋に行く時に何度もここを通った。そんな見慣れた光景であるはずだがまったく見慣れない物も増えている。
「それにしても綺麗な街道ね。さっきから馬車がまったく揺れないわ」
「そういえば……」
ミコトの指摘でようやくそのことに思い至った。カーザーンの町中を走っている時は振動があった馬車が森の中の街道に入るとまったく揺れなくなっている。普通に考えれば領都の町中の道の方が良い道のはずだ。それなのにここは森の中だというのに領都の町中よりも良い道が整備されている。
何故こんな森の中にこれほど良い道が整備されているのか。皆不思議に思いながらも走り続ける馬車の外を見ていると急に森が開けて町が姿を現した。
「すごーい!」
「いつの間にこれほどの……」
今度はその町を見てルイーザとアレクサンドラが驚きの声を漏らす。事情を知らない者が見ればただの森の中の町だと思うだけだろう。しかしほんの数年前まではここがただの森だったと知っている者からすれば、たった数年でこんな森の中にこれほどの町を作っているというだけでも驚きなのだ。そのことを皆に説明しても最初は中々信じてもらえなかったくらいだった。
「これが……、そんな数年で出来た町だっていうの?」
「確かにそう考えると凄いね。数年で町を開くだけでも大したものだよ」
窓の外を流れる森の中の町を見ながらそれぞれが色々な思いを抱く。
「って、ちょっと待って!この町物凄く広くない?」
「それに見たこともないようなものがあちこちにありますわね」
確かに町には巨大建造物は少ない。階数が高い建物もあまりなく木を多用した建物も多い。煉瓦の高層建築物が立ち並ぶ重厚な町並と比べれば田舎の町という感じだ。しかしこの町は整然と整備されており見たこともない設備が溢れている。また町の活気も良く王都以上に活気に満ちているとすら思えた。
「すごい……。すごい町ですね!」
「ふふっ、ありがとうクリスタ。さぁ……、皆様カーンブルクへようこそおいでくださいました」
町の奥まで辿り着き大きな屋敷の前でフローラが全員を歓迎する。
ちなみにリンガーブルク邸はカーザーンにあるので本来ならばガブリエラやアレクサンドラはリンガーブルク邸に帰るのが普通だろう。しかしカーザース家が管理していたとはいえ長年誰も住んでいなかったのでリンガーブルク邸は今すぐに住めるような状況にはない。そこでリンガーブルク邸の準備が整うまではガブリエラ達もカーン邸やカーザース邸で暮らすことになっている。
ナッサム家やカスパルの件が片付いてからハンナは再びリンガーブルク家に仕えることになり、王都のカーザース邸でガブリエラに仕えていた。今回の帰郷でも共に戻ってきているがここにはいない。ハンナはその足でリンガーブルク邸に向かい屋敷の片付けをしているはずだ。
もちろん広すぎるリンガーブルク邸をハンナ一人で掃除していては住めるようになるまでに長い時間がかかってしまう。カーザース家やカーン家からも人手が出されているがリンガーブルク邸のことに関してはハンナが指揮を執っている。
そんなこんなでやってきたカーン邸は全員にとって驚きの連続だった。
「ちょっと!このお手洗いどうなってるの!」
ある程度は王都のカーザース邸にもフローラ発の設備が設置されているが建築段階から設備を取り入れているカーン邸はその質が違う。カーンブルクの、いや、カーン領の町全てが上下水完備というだけでも意味がわからなかった。
そもそもここで暮らしている者以外にとっては下水という概念自体がわからない。町の路地の真ん中を流れる排水溝を通って川に下水を流すのはどこでもある設備だ。しかしこの町には下水が流れている排水溝がない。
町に出てみれば側溝があることはすぐにわかる。しかし側溝には下水など流れておらず雨が降った場合に雨水が流れるだけだと言われた。意味がわからない。ならばあちこちから出るはずの下水はどこを通っているのか。
その秘密が地下の下水だと言われても納得出来ないのだ。地下に排水路を埋めようと思ったらどれだけのお金と手間と材料が必要になることか。それを町の到る所に張り巡らし下水処理場なる場所まで引っ張って行っているというのだ。この町が綺麗な理由がそれだけの手間とお金をかけているということに驚きを隠せない。
足した用も全てその下水を流れて処理場まで運ばれ、極力無害になるように処理されてから川へと排水されている。このシステムの先進性とコストを考えればこの町が森の中の小さな町だと言えるはずがない。
小さなこと、目に見えないことにまで注意が払われ先進的な技術が取り入れられている。カーンブルクという町がとんでもない町だということを全員が改めて思い知らされたのだった。
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「ふふっ、ありがとうクリスタ。さぁ……、皆様カーンブルクへようこそおいでくださいました」
あるぇ?俺の家ってこんなのだっけ?
馬車を降りた皆を歓迎しながら……、俺は笑顔を崩さないように注意しながら自分の家を眺める。この建物は確かにカーン邸で合っているはずだ。だけどその姿は俺が知るカーン邸とはまるで違う。
学園に通うためにカーン領を離れている間に勝手に誰かが増改築をしたようだ。そんな報告は受けていなかったので俺だって自分の家を見て驚いてしまった。皆の手前平静を装ったけど俺しかいなかったら絶対に叫び声を上げていたはずだ。
皆を家に通して家人達に案内させている間に俺は自分の執務室に入った。ほんの半年振りくらいのはずなのに随分懐かしい気がする。それはともかく何故こんなにカーン邸が様変わりしているのか。それを知る人物、というか犯人を探そう。
「この家の様子はどういうことですか?ジークムント?イグナーツ?」
俺は久しぶりに俺の前で畏まっている二人に事情を聞いてみた。ジークムントは歴史と内政の家庭教師だったけど俺の家庭教師が終わってからはカーン領の顧問として雇っている。イグナーツは警備隊長だから色々と知っているはずだろう。
ちなみにジークムント以外の家庭教師達も家庭教師が終わって以来俺が雇い直してカーン領のために働いてもらっている。皆のことはまた後で機会があれば詳しく見ていくとしてここにいるジークムントは事情を知っているはずだ。
元法服貴族で内政に関わっていたジークムントはカーン領の内政顧問に雇っている。当然それならカーン邸がこんなことになっている理由も知っているはずだろう。
「はい。町の建設も落ち着きカーン家の財政も安定してきておりましたのでカーン邸もそれに見合うように今のうちに拡張するということになりました」
なりました、じゃないだろ!何で俺に一言の相談もないんだよ……。別に増改築をするなと言ってるわけじゃない。必要があれば増築するのは当然だろう。あるいは立て直したり別の場所に増やしたりもするだろう。問題なのは何故それを俺に一切一言も相談しなかったのかということだ。
「何故私に一言の相談もなくこのようなことを行なったのですか?」
「はて?内政担当官の権限において必要な公舎を建てても良いと許可を頂いておったはずですが?」
確かにそれは間違いない。俺がここを離れるのにこちらで公的な建設を行なうためにいちいち王都にいる俺にお伺いをたてていては工事が進まない。そこで決められた予算や権限の範囲内において必要ならば自由にそういうものを建てても良いとは規定してある。だけど……。
「確かに必要な建物は建てても良いと規定しています。ですがここはカーン邸ですよ……?私の家です」
「そうですね。ですがここはカーン騎士爵領を総括する庁舎でもあります。人員や業務の拡大に対応するために庁舎を拡げる必要があったのです」
うぐっ……。そう言われると反論出来ない。どこまでを俺の家としてどこまでを庁舎と考えるか次第だ。それを曖昧にしたままだった俺も悪いのかもしれない。
だけどなぁ……、知らない間に自宅が勝手に増改築されてたら誰でも驚くだろう……。せめて連絡くらいはして欲しかった。
それに何か庁舎としてというよりはただ豪邸として拡げたという感じが拭えない。確かに役人の仕事場も増えているんだろうけどむしろただ建物をより豪華で広くしただけのような気がする。
「領主は屋敷に客人を招くことも仕事です。その時にみすぼらしい家で質素なおもてなしを行なえば業務にも支障をきたしましょう。力ある者は相応の家に住み、相応の生活を行い、相応に振る舞う必要があります」
「うっ……、それもわかりますが……」
ジークムントの言うことはいちいち正しい。俺が望むと望まぬとに関わらずそういうことが求められるのが今の俺の立場だ。王様だって訪ねてくることがあるのに質素な馬小屋に住んでいるというわけにはいかない。
それはわかるけど……、わかりたくないというか……、わからないでもないというか……。
まぁいい。過ぎたことを言っても仕方がない。もう家が増改築されていることは変わらないんだ。それならそれはもうよしとして次に行こう。
「はぁ……、それで休みの間の予定は出来ていますか?」
「はい。こちらをご覧下さい」
俺の質問を予想していたんだろう。ジークムントが一枚の書類を出してくれた。ざっとそれに目を通す。
「これを全てですか……」
これは俺のスケジュール表だ。滅茶苦茶ぎっしり書いてある。二ヶ月の休暇、そのうち前後十日ずつは移動にかかるとしてさらに予備日を三日ずつ取る。凡そ三十四日ほどが自由に使える時間だった。その三十四日を全て使っても本当に全部こなせるのかと思うほどの密度だ。
「王都へお戻りになるのに念のため十三日前に出発されることを見込んでおりましたが、今回の日程から十日で十分だとわかりました。つきましては予定より早く着かれた時間と出発を遅らせられる時間を利用して予定を増やしたいと思います」
「えぇ……、さらにですか……」
確かに移動の日程は十日を見込んでいた。それが七日で到着出来たんだからすでに三日空いている。それに予備に三日時間を取るとしたら十日に予備三日を加えれば十三日になるけど、七日で移動可能なら予備三日を加えても十日あれば事足りる。その空いた前後六日分にさらに予定を入れるつもりらしい。ジークムントは俺を休ませるつもりはないようだ。
とはいえ前々から決まっていた視察もあるし俺自身見に行きたい場所や見たいものもある。予定より空いた時間で俺の希望する視察も加えてもらえるようにジークムントと話を詰めたのだった。