第百五十七話「心の傷!」
学園の昼食時にフローラからの言伝を聞いたヘルムートはラインゲン侯爵家の屋敷に向かっていた。その際にフローラからいくつか注意を受けているので失敗がないように細心の注意を払う。
まず大原則としてカーザース家の使いであることは知られないようにと念を押されている。クリスタとフロトは個人的に打ち解けてはいるがバイエン公爵家はカーザース辺境伯家を目の敵にしている。当然バイエン派閥であるラインゲン侯爵家もカーザース辺境伯家に良い感情は持っていないだろう。
仮にラインゲン家がカーザース家に含むところがなかったとしても派閥の長であるバイエン家が目の敵にしている相手を受け入れてくれるとは思えない。
クリスタが駆けずり回っていたにも関わらず一切手も貸さなかった実家であるラインゲン家はかなり保身的であろうとフローラは判断していた。
クリスタは良くも悪くも『空気を読まずにヘレーネの夜会のために奔走していた』。そのクリスタに手を貸さなかった他の者達の考えは想像がつく。例えそのままでは夜会が失敗に終わるとわかっていたとしてもバイエン家に手を貸せと言われたわけでもないのに余計な手を出して失敗すれば何を言われるかわかったものではない。
成功しても勝手なことをしたとお叱りを受ける可能性があり、さらに手を貸した上で失敗すれば失敗の責任まで追及されるかもしれない。それならバイエン家に命令されているわけでもないのに勝手に動くだけ損だ。手を貸すように命令されて仕方なくならともかく自発的に勝手に手を貸して余計にお叱りを受けるなど馬鹿らしい。だから誰もクリスタに手を貸していないのだろうと判断出来る。
そんな打算と保身で動くラインゲン家がバイエン家の敵とされているカーザース家の使いを快く受け入れるはずがない。そのためフローラはヘルムートにカーザース家の使いであると悟られないようにと注意しておいたのだ。
「すみません。私はロイス子爵家のヘルムート・フォン・ロイスと申します。本日はクリスティアーネお嬢様のお見舞いに参上致しました。お取次ぎ願えないでしょうか?」
「……少々お待ちください」
ラインゲン家に到着したヘルムートは家人に取次ぎを頼んだ。家人はヘルムートを訝しみながらも確認のために取次ぎに行く。
「どうぞ……、こちらへ」
少しして戻ってきた先ほどの家人がヘルムートを先導して歩く。案内された応接室には高位貴族の身なりをした男女が待っていた。二人の風体から事前に聞いていたカール・フォン・ラインゲン侯爵とその妻マリアンネ・フォン・ラインゲンであろうと当たりをつける。
「お目通りいただきありがとうございます。私はロイス子爵家のヘルムート・フォン・ロイスと申します。カール侯爵閣下におかれましては……」
ヘルムートはわざと貴族らしい言い回しを使いつつカールとマリアンネのことを知っている風に語る。相手が名乗る前に相手の名前を言い先に語るということは相手のことを知っていると相手に示すことになる。
元々の顔見知り同士であればわかるがカールもマリアンネもヘルムートなどという者のことは知らない。いや、それどころかロイス子爵家という家すら聞いたことがない。カールとマリアンネはお互いに顔を見合わせた。
「ふむ……。それでロイス卿、本日は娘のお見舞いに来てくれたと聞いているが?」
相手が自分達のことを知っていると知らせてきているのだから名乗る必要はない。高位貴族ともなれば有象無象の低位貴族達ともしょっちゅう会っているから覚えていないことも多々ある話だ。家臣からすれば王は一人でも王からすれば仕える家臣は何百、何千、何万といる。王がいちいち全ての家臣を把握していないように何千、何万と人と付き合いがある高位貴族がいちいち全てを覚えていなくとも責めることは出来ない。
だからカールはヘルムートのことも深く追及しなかった。直接話したことはなくともどこかで誰かと一緒にいる時に顔を会わせたことくらいはあるかもしれない。
ヘルムートが貴族に近寄ってくる詐欺師という線は薄い。貴族には詐欺師程度に簡単に真似されないだけのものがある。ヘルムートは見るからに明らかに貴族の教育を受けたとわかるだけのものがある。それも相当に仕込まれているものだ。これほどの立ち居振る舞いは一朝一夕で身に付くものではない。
さらに普通の詐欺師なら知らないような貴族の決まりや作法もきちんとこなしている。ただの詐欺師なら本物の貴族は一目見ればほぼ見抜けるだろう。少なくともヘルムートは間違いなくどこかの貴族の家の育ちであることは確実だ。
もちろん世の中には貴族の生まれでそれらを身に付けた詐欺師もいるかもしれない。だからいきなり全面的に信用しているわけではないが、それなら目的がわからない。今のラインゲン家に近づいてきて何が目的だというのか。それがわからないのならば相手に直接用件を聞けば良い。そう思ってカールはヘルムートを通すように言ったのだ。
当然ヘルムートは詐欺師ではない。しかしすでに一つ騙している。ヘルムートはロイス子爵ではないので『ロイス卿』ではないのだ。ヘルムート自身がそう名乗ったわけではないがカールがそう言ったにも関わらず訂正しなかったのは身分を偽ったと言われてもやむを得ない脱法と違法ギリギリの所である。
「はい。『お嬢様』にクリスティアーネお嬢様の『怪我』の具合をみてくるように仰せつかりました」
「――ッ!そっ、そうですか……。それでは娘の部屋にご案内しましょう」
ヘルムートの一言でカールは態度を変えた。これもフローラによるアドバイスによるものだ。ヘルムートはフローラ『お嬢様』と言ったつもりだがカールはヘレーネ『お嬢様』と受け取った。だからヘレーネからの使いと思って態度を変えたのだ。
ただお見舞いに来ただけだと言えば今日学園を休んでいるからというだけのことかもしれない。しかしヘルムートは『怪我の見舞い』と言った。クリスティアーネが怪我をしているということを知っているということは怪我をさせた者、つまりヘレーネ達の関係者であろうと判断したのだ。
バイエン派閥ほど大きな派閥になれば同じ派閥でも顔を合わせたことがない者もいる。またこうして裏の仕事を任せるためにあえて人前に出ていない者もいるのだ。『事情を知っているお嬢様の使い』となればヘレーネの使いであろうとカールが誤解するのもやむを得ない。そしてこれもフローラがヘルムートに伝えておいたことだ。
何も知らなくとも全て知っているかのような顔でそう言い切れば良いと伝えられていた。もしフローラの予想が間違っていればその時点でヘルムートは怪しいとして追い返されていただろう。しかし不幸にも、そう、当たっていない方がよかった予想が当たってしまっていた。クリスティアーネは暴行を受けて怪我を負っている。フローラのその予想が当たってしまったことにヘルムートもカール達に見えないように拳を握り締めた。
「ここが娘の部屋です。……クリスティアーネ、入るぞ?」
ヘルムートを案内したカールは扉をノックしてから返事も待たずに扉を開けた。ヘルムートはそのことに多少驚いたが顔には出さない。
「ご覧の通り先日と様子は変わりません。お嬢様にはそうお伝えいただければおわかりいただけるでしょう」
先日ヘレーネはゾフィー達を連れてここを訪れている。ヘレーネに報告するには先日のまま変わりないと伝えれば一言で全てが伝わるだろう。カールはそう考えてヘルムートに説明した。
「……少し、クリスティアーネお嬢様とお話させていただいてもよろしいですか?」
「娘は誰が何を話しかけても何の反応もしません。ただ人に触れられると恐慌状態に陥り暴れ出します。……触れないように頼みます」
そう言うとカールはマリアンネと共に部屋を出て行った。部屋に残されたのはヘルムートとクリスティアーネだけだ。
カールもはじめはヘルムートを娘と接触させるつもりはなかった。扉を開けて中の様子を見せて『先日のまま変わりない』と伝えさせれば良いと考えていた。
しかし……、先ほどのクリスティアーネを見た時のヘルムートの鬼気迫る顔を見て気が変わった。どこの誰ともわからない者を結婚前の娘と寝室で二人っきりにするなど正気とは思えない。それもクリスティアーネがあのような状態でだ。普通ならますますあり得ないだろう。
だが何故かカールは少しだけ娘をヘルムートに任せてみようという気になった。何故、とかそういう合理的な理由や根拠はない。ただの直感、あるいは淡い期待……。カールもあまり良い親ではない自覚はあるがそれでもクリスティアーネは大事な娘だ。もし今のクリスティアーネの症状が少しでも良くなるのならば……、そう思って何かに縋って期待してしまうこともあるだろう。
「貴方……」
「大丈夫だ。むしろ今のクリスティアーネを襲う方が難しいだろう。私達ですら触れたら狂ったように暴れ出すのだからな」
心配そうに見上げてくるマリアンネの肩に手を置きながらカールは自分に言い聞かせるようにそう言ったのだった。
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クリスティアーネの精神は今、一人で暗い海の底に沈んでいるかのようだった。
別に賞賛されたかったわけじゃない。褒められたかったわけでも認められたかったわけでもない。ただ幼馴染達が大変な時に少しでも何か役に立てれば……、そう思って自分に出来ることをしようと思っただけだった。しかし返ってきたのは悪意だった。
感謝も何もいらない。ただ皆でまた静かに過ごしたかっただけなのに……。最悪の形で返された悪意にクリスティアーネの心は全てを拒絶して閉じこもってしまった。その瞳には何も映らずその耳には何も聞こえない。ただ人と触れるのは恐ろしく、またあのような目に遭わされるのではないかと全てを拒絶していた。
「クリスティアーネお嬢様!」
「…………」
ただ……、何も聞こえないはずだった耳にかすかに届く声があった。何も見えないはずだった瞳に僅かに映るものがあった。
「申し訳ありませんクリスティアーネお嬢様……。クリスティアーネお嬢様を守ることが私の役目だと言っておきながらこのような目に……。申し訳ありません!」
それほど大きな傷はない。しかし……、それでも全身あちこちに、それこそ見えるだけでも手足や顔にまで痣が出来ている。年頃の若い女の子が明らかに顔にまで傷をつけられている。
ヘルムートには何の責任もない。ヘルムートがクリスティアーネを守る責任があったのは夜会の会場でのことだ。ヘルムートはクリスティアーネの執事ではないし直接的な関係者でもない。夜会が終わって仕事を終えて別れればその後のことにまで干渉のしようもないだろう。事実クリスティアーネが暴行を受けたのはヘレーネの私室でありヘルムートには干渉のしようもなかった。
しかし……、だからといってヘルムートが何も感じないかと言えば当然そんなことはない。その暴行が行なわれる少し前まで一緒にいて、そして守ると言っていた少女が、自分と別れて間もなくこんな目に遭わされてしまったのだ。自分の不甲斐無さと無力さに打ちひしがれるのも当然だった。
「そして私はクリスティアーネお嬢様をこんな目に遭わせておきながらさらに酷いことをしようとしています……。クリスティアーネお嬢様……、このままでは恐らくフロト様も面倒事に巻き込まれるでしょう……。フロト様は大丈夫だとおっしゃられていますが世の中には絶対はありません。このような目に遭って傷ついているクリスティアーネお嬢様にこのようなことを頼むのは間違いでしょう。ですがどうかフロト様を助けるために力を貸してください!」
「……ヘル……ムートさ……ま……?フロ……ト……?」
「――クリスティアーネお嬢様っ!?」
それまで何の反応もなかったクリスティアーネがポツリと言葉を溢した。ヘルムートは慌ててクリスティアーネの顔を覗きこむ。
「私がわかりますか?クリスティアーネお嬢様?」
「……ヘルムー……ト……様……?」
クリスティアーネの焦点が次第に間近にあるヘルムートに合ってくる。そして……。
「ヘルムート様……」
「クリスティアーネお嬢様!」
ついにはっきりとその瞳がヘルムートを捉える。
「私は……、――ッ!?あっ!あぁっ!私は!?」
「大丈夫です。もう大丈夫ですから!」
正気に戻ったクリスティアーネは自分の体を抱き締めるように両腕でギュッとそれぞれ逆の腕を掴み体を丸める。自分が受けた暴行を思い出してガクガクと震える体を上からギュッと抱き締められた。
「…………」
突然のことに最初は驚いた顔をして自分を抱き締めるヘルムートを見つめていたクリスティアーネはやがて大人しくなってその身をヘルムートに委ねた。
「…………」
「……」
二人でただ静かにお互いの温もりを感じる。暫くそうして抱き締められて落ち着いたクリスティアーネはそっとヘルムートの腕を解いた。自分で解いておきながら離れることに寂しさを覚えながらも真っ直ぐヘルムートを見詰める。
「もう大丈夫です……。ありがとうございますヘルムート様」
「いえ、あのようなことをして申し訳ありませんでした」
お互いに少しギクシャクしながら離れて向かい合う。先に口を開いたのはクリスティアーネだった。
「夜会に手を貸してくれたために……、フロトも巻き込まれるということですね?」
「はい。このような状況のクリスティアーネお嬢様に頼むのは間違いかもしれません。そしてこれはフロト様に言われたことではなく私の独断です。ですがきっとこの先フロト様にはクリスティアーネお嬢様の助力が必要になる時が来るはずです。どうかフロト様のために力を貸してはいただけませんか?」
真っ直ぐにそう頭を下げるヘルムートに頭を上げさせてクリスティアーネが答える。
「それは逆です。私がフロトをこのようなことに巻き込んでしまったのです。ですから私が責任を取らなければなりません。もし私で力になれることがあるのでしたらいつでも力になります」
「ありがとうございますクリスティアーネお嬢様」
二人はお互いに真っ直ぐ見詰めあい頷き合う。二人の思いは同じだ。二人とも自分の命を賭けてでもフロトを守りたいと思っている。そのためならばどのような労力も犠牲も厭わない。ただ……。
「私は……、ヘルムート様のことをお慕い申し上げております。ですから私が協力するのはフロトのためだけではなく私の勝手な想いのためでもあるのです」
「それは……」
ヘルムートも鈍感な馬鹿というわけではない。クリスタとフロトの密会の時に初めて会った時からクリスティアーネがヘルムートに憧れのような感情を持っていたことは感じていた。そして夜会のためにお互いに連絡し合い、協力し合い、クリスティアーネの年上の男性への憧れが淡い恋心に変わっていっていたことも薄々は感じていた。しかし……。
「クリスティアーネお嬢様のお気持ちはうれしく思います。ですが私は……」
「それ以上はおっしゃらないでください……。フロト……、いえ、フローラ様のため……、ということはわかっています。ですからこれはただの私の一方的な想いなのです。ヘルムート様がそれに応えてくださると期待しているわけではありません。ただ愛しい方のために私も役に立ちたいというだけのことなのです」
目に涙を溜めながらもそう言うクリスティアーネにヘルムートはそれ以上何も言えなかった。ただ二人の気持ちは同じだ。確かにクリスティアーネはヘルムートに恋心を抱いている。そしてヘルムートの気持ちはフローラに向いていることもわかっている。
しかしそれだけではなく二人ともフローラの幸せを願いどうにかしたいと思っている。だからクリスティアーネは本心から同志フロトのためにも力を貸したいと思っているのだ。
「後で怒られるかもしれませんがフロトに内緒でフロトのために動けるように準備しておきましょう」
「そうですね」
二人は頷き合う。覚悟は決まっている。
「怒られる時は一緒にお願いしますね?」
「ははっ、フローラお嬢様は滅多にお怒りになられることはありませんが一度怒られたらそれはもう恐ろしいですよ」
「まぁ!ヘルムート様がそのようなことを言っていたと後で伝えなければなりませんね」
「えっ!それは勘弁してください」
最後に笑い合ってから二人は今後について真剣に話し合ったのだった。