第百五十三話「特許庁!」
アルト・フォン・バイエン公爵は王城の中を歩いていた。目指す先は滅多に人が訪れることがないほとんど機能していない庁舎だ。
「入るぞ」
「あ……?こっ、これはバイエン閣下!このような所に一体何のご用でしょうか?」
無礼にもノックもせずに入って来た者を見た職員は慌てて立ち上がって敬礼した。
「私とお前の仲だ。そう畏まることはないぞエルリッツ子爵」
「はっ!ありがとうございます!」
アルトが訪れたのはプロイス王国の特許庁であり目の前の職員はヘルマン・エルリッツ子爵という男だった。
地球において特許制度が出来たのは十五世紀の話である。特許制度が出来てからすぐにほぼ現在の形と大差ないまでに法と制度が整備されている。その目的は新技術などの発明者の権利を保護すると同時に広くその技術を公開することで、それによって後の技術発展に大いに役立った。
プロイス王国にも似たような制度が存在する。ただし地球の特許制度と違ってこちらの特許制度には致命的な欠陥がいくつもある。
まず一つ目に、これは地球でも同じことではあるが開発者と権利者が同じとは限らないということだ。例えば自分が何かを開発しても、それに一切関わっていなかったまったく別人が勝手にそれを登録してしまったら登録した人の権利が保障されてしまう。これは地球でもよく揉める問題でもある。
特許でも商標でも実用新案でも何でも良いがこれらは先に登録した者勝ちであり、一切研究に貢献していなかろうが、そもそも何の関係もなかろうが一番最初に登録した者が勝ちとなる。とくに経済が多国間に渡っている現代地球においては自国では先に登録していても他国で無関係の者が勝手に先に登録してしまえば権利すら奪われかねない状況となっている。
これらは制度そのものに問題点があるわけだがそれを誰も正そうとはしない。とくに多国間に関わることもあるので勝手に相手国で自分の特許を別人に登録されてしまったら自分が特許使用料を払わなければならなくなる。にも関わらず他国との交渉が苦手な日本人は黙って泣き寝入りし権利を奪われているケースが多い。
プロイス王国でも同じようなものでありそれを誰が最初に発明したか、本当にその人が研究なり発明なりをしたのかは関係ない。とにかく最初に登録した者勝ちである。
そして二つ目の問題がそれを決めるのが人間だということだ。受理して審議するのも人間であり実際に本当は誰が先に登録を申し込んで来たとか、誰が開発したとか、そういったことは一切関係なく審議する権限を持つ者が好き勝手に決めてしまえる。
例えば明らかに他国の研究者が開発して先に世界各国で特許権を登録していようとも、特定の国ではその国の審議機関が『自国の者からの申し込みの方が早かったからこちらの権利が認められて貴方の権利は認められません』などと簡単に言えてしまうのだ。
さらに言えばこの貴族社会であるプロイス王国では上位の貴族が勝手に自分の発明だとして役人達に圧力をかけて自分の権利として登録出来てしまうのである。
もちろんプロイス王国では地球のように縁も所縁もない者が勝手に申し込んでも全て登録されてしまうようなことはない。料理のりの字も知らない者が料理の発明を登録しようとしても『お前は料理もしたことがないだろ』というくらいには突っ込みは入れられてしまう。
しかし、例えば大勢の証人がいる前で自分が先にそれをお披露目してしまえば別だ。証人達が『確かに世間に発表されるよりも前に一番最初にあの人が発表した』と証言すれば権利として認められるだろう。
そして地球の特許制度とプロイス王国の特許制度では大きな違いがある。地球の特許制度は内容が公表されて一定期間はその登録者の権利が保障されるがその内容自体は誰でも利用して良い。技術を広めるための制度でもあり登録者の権利を害しない限りは誰でも閲覧も利用も出来る。ただし利用する場合は特許料を払わなければならなかったり等、登録者の権利が守られているというわけである。
それに比べてプロイス王国の特許制度は内容が公表されない。その内容を利用したければ登録者にお金を払う等で交渉して契約しなければならない。そうして契約した者だけがその内容を利用出来る。
つまりプロイス王国の制度では一定の条件さえ揃っていればまったく無関係の貴族が勝手に自分の権利だとして他人の発明等を登録し、それを販売したり利用したりしている相手に権利料を払えと言える制度なのだ。ただし現在も特許庁がガラガラで利用者がいないのを見てわかる通りそう簡単にはいかない。
まず取り締まりが非常に難しい。特許登録者が本当に権利を侵害されていようとも、勝手に他人のものを登録した者であろうとも、実際にそれが侵害されているという情報がまず入ってこないのだ。
王都ベルンで誰かがすごい特許を登録していたとして、まったく無関係の遥か遠くの地方都市でそれと同じ物が売られていたとしてもその情報が伝わってくる可能性は極めて低い。よほど珍しい物で国中に噂が流れてくるようなことでもない限りはまず見つかることはないだろう。
そして仮に誰かが自分の権利を侵害しているとわかった所で捕まえることも権利料を払わせることも難しい。売り上げに対して権利料を払わせようと思っても実際にどれほど売られてどれほどの利益が出たかわからないのだ。だからこそ最初に情報を開示する時に話し合って契約するのだ。
一定の金額を払えばあとは自由に利用して良いのか。売り上げに対して一定の割合で権利料を払うのか。仮に売り上げの割合で払うのならばその売り上げや利益はどうやって確認するのか。それらを話し合って契約せよということだ。
だからそれらが確定出来ないこの世界において侵害されていることがわかったからといってどうやって損害賠償をさせるのかというわけである。
もちろん売り上げや利益に関係なく一定の金額を賠償金として払わせれば良いのだがどの世界でも無い袖は振れない。無茶な金額を吹っ掛けたところで相手が払えなければそれまでのことであり多額の賠償金を背負わせたからといって結局払って貰えなければ何の意味もない。
ただしこれでもこの制度に何の意味も利用価値もないというわけではない。使いようによっては金の卵を産む鶏に化けることもあるのだ。
今回はそれが全て揃っている。まったく無関係の遠く地方都市の商会が勝手に販売していれば見つけ出すことも難しかったであろうが今回は相手も王都にいる上にそれなりに売り上げている商会だ。今更店を捨てて逃げることもないだろうし利益の一部を献上するだけで商売が続けられるのならほとんどの商会はそうする。
無駄に貴族と争って面倒事になるよりは利益の一部を支払ってでも穏便に済ませる方が商会にとっては利益がある。何よりそうやって利益関係が出来上がるということはその貴族の後ろ盾を得られるという意味でもあるのだ。何かあって商会の売り上げに響けば利益を掠め取っている貴族もうま味が減る。だから掠め取っているお金と手間を考えてお金の方が大きければ手助けしてくれるのだ。
もちろんかかる手間や相手を見て後ろ盾の貴族が手を引く場合もある。それは結局の所金の付き合いであって得られる物より失う物の方が大きいと判断すればそうなるのは当然のことだ。
プリンはヘレーネの夜会にて大勢の貴族達に知れ渡った。だからバイエン公爵家がプリンの権利を主張してもほとんどの貴族は同意してくれる。またクレープカフェを経営している商会は王都でかなりの売り上げを出しているであろうことは想像がつく。今更王都を捨てて出て行くよりもバイエン公爵家にみかじめ料を払った方が得策であることは間違いない。
また先日早速プリンの販売を開始しているという情報も入ってきている。となればすぐにでも特許庁に権利を登録しておき件の商会に権利料を払わせる必要がある。
この特許庁はほとんど機能していない。特許を申請する者もほとんどおらず、仮に申請して登録されてもほとんどまともに保護されない。だから誰も利用しないという悪循環に陥り、今ではほとんど利用する者のいない有名無実の庁となっている。そんな特許庁に配属されているのはヘルマン・エルリッツ子爵と数名の部下のみである。
ヘルマン子爵はバイエン公爵派閥には入れてもらえていないが何とか派閥に入れてもらえないかと今までもバイエン公爵家に協力してきた経緯を持つ。そんなヘルマンがアルトからの頼み事を断れるはずがなかった。
「実は当家が新開発した料理を登録してもらいたくてね」
「そうですか!それでは書類をお作りいたしましょう。それで料理名と製法は?」
アルトの言葉にヘルマンは営業スマイルで応える。ここでアルトが普通の登録手順を踏んでくれれば何の問題もなかった。ただ本来自分がすべき仕事をするに過ぎない。しかし……。
「料理名はプリンだ。しかし生憎と製法はわからない」
「……は?えっと……、それでは……?」
アルトの言葉にヘルマンは『またか』と思いながらも営業スマイルを崩すことなく書こうとしていた書類から顔を上げた。
「それから私が登録にやってきた日は一週間前だ。わかるね?」
「……はい」
言われなくともわかっている。この特許庁を利用するのはほとんどが貴族だ。商人達はほとんど特許庁を利用することがない。何故ならば余計な手続きをしたり製法を登録しなければならないのにほとんど得る物がないからだ。それならば製法を秘匿して自分の所でだけ製造販売し利益を上げる方が良い。
しかし貴族は違う。他人の発明や研究を奪って勝手に登録し、その開発者や販売者に向かって『自分の権利を侵害しているから権利料を払え』と要求するのだ。そのためにはいくつかクリアしなければならない条件がある。その中でも重要なのが自分が製法を登録することと、相手よりも先に自分が登録していることである。
当然ながら相手の方が先に登録してしまっていては意味がない。だから相手が登録や客観的証拠である販売をする前に登録を済ませておく必要がある。今回の場合はヘレーネの夜会の前にバイエン家が登録し、夜会でお披露目したという体でいくと決めている。なので登録日は夜会より前である必要があった。
さらに本来であれば製法を登録しなければならないがその製法は契約した相手にしか公表されない。ならば実は製法が一切登録されていなくとも誰にも確認のしようがないのだ。後で製法がわかってから勝手に書き加えれば良い。
登録日も、製法も、全ては職員、つまりへルマンの匙加減一つでありどうとでも出来る。だからヘルマンの下には時々他人の権利を奪おうとこうして登録にやってくる貴族がいるのだ。そしてそれらの貴族に対してヘルマンは逆らうことが出来ない。
本来ならば王国が職員の権利を保障しているが実際にはそんなものは何の意味もなさない。表向きは一切手出しが出来ないとしても裏で脅すなり、金品を渡すなり、逆らえば貴族社会から放り出されどことも付き合いが出来なくされるかもしれない。従っておけばお金がもらえる。ならばそれらの職員がとる道は一つしかない。
「あの……、それでバイエン閣下……、これで私は……」
「ああ、君は優秀だ。派閥入りを考えておこう」
「あっ……、そっ、そうですか……。よろしくお願いいたします……」
一瞬期待しかけたヘルマンは肩を落とす。今の受け答えだけでアルトが自分を派閥に入れてくれるつもりがないことがわかったからだ。ヘルマンはどこの派閥にも入れてもらえていない。このような閑職に任命されていることからもわかる通りへルマンはまったく優秀ではない。そして面倒な役職でもある。
確かに特許庁と特許制度を悪用したいと考える貴族は多い。だからヘルマンを味方につけておけば便利であることは確かだ。
しかし現実にはそんなことは滅多にあることではない。アルトも特許庁でこの手の誤魔化しをしたことなど数えるほどしかないのだ。そんな偶にあるかどうかということのためにヘルマンを抱え込むリスクは割に合わない。
もしヘルマンを自らの派閥に入れてしまえば他の派閥から『特許庁の特権を悪用している』と言われかねない。貴族ならば大抵の者は特許庁と結託して権利料をせしめる詐欺を知っている。だから露骨にヘルマンを派閥に入れたら当然そのことを疑われるのだ。だから誰もヘルマンを派閥に入れたがらない。
今回も派閥に入れてもらえそうにないなと肩を落とすヘルマンを他所にアルトは上機嫌で特許庁を出て行く。これで仕掛けは全て整った。あとは件の商会を呼び出し断罪するだけだと舌なめずりしながら今後のことについて考えを巡らせていたのだった。