第百四十六話「契約!」
夜会当日までもう一週間ほどしかないけど準備は着々と進めている。特に難しいのが材料の確保だ。砂糖やバターのようなある程度保存のきく物ならまだしも生卵、牛乳、生クリームのようなものは長期間の保存が出来ない。さらに前日や当日にいきなり必要な分を全て確保してしまったら他にまわす分が足りなくなる。
例えば夜会当日に卵が五百個必要だったとして毎日の卵の流通量が千個だったとしよう。いつもは千個売っている卵が夜会のために五百個なくなり流通量が五百個になってしまったらあちこちで品不足になり大変な影響が出てしまう。
そこで例えば一日百個余分に避けて九百個を流通させる。翌日には前日繰り越した百個を加える代わりに当日の分を二百個避ける。さらに翌日には前日の二百個を加えて当日の三百個を避ける。という風に徐々に繰り越していって一日当たりの減少量を抑えるというような工夫が必要だ。
供給量には限りがあるし突然爆発的に増やすということも出来ない。工場で生産出来るものならば工場の稼働率や稼動時間で生産量を調整出来るだろうけど卵や牛乳を突然大量生産したり減らしたりというのは無理な話だ。
幸い今回は当日までにまだ時間があるから数日かけて繰り越して余らせていけば流通への影響を最小限にしつつ数が確保出来る。これがもっと直前にいきなり言われたりしていたら材料確保の時点で詰むところだった。
クレープカフェを閉めてその分を夜会に回せば確保出来るだろうけどそれはしたくない。貴族の夜会に出すためにクレープカフェを臨時休業にしてそちらに材料や人手をまわすのかと言われたら大変だ。元々からしてクレープカフェは一般市民向けなわけで貴族様のためにそちらが疎かになるようなことがあってはならない。
現在プリンを作る職人は養成中だ。いくらそれほど難しくないとは言っても当日にいきなり作らせるというような冒険は出来ない。さらに俺が付きっ切りで教えるというわけにもいかないので俺がうちの料理長であるダミアンに教え、ダミアンがカンザ商会の料理人に教えるという二度手間になっている。
まぁダミアンに作り方を説明しながら教えたら俺よりうまく作ってくれたからダミアンの腕は間違いない。俺は現代知識で作り方や新しい料理を教えることは出来るけど所詮料理の腕自体は素人だ。こっちに来てから何かと料理する機会も増えたけど本職の料理人とは比べるべくもない。
プリンは多少日持ちさせることが出来る。プリンの用意は前日くらいから作り始めて俺の氷魔法で冷蔵保存しておくのが良いだろう。当日に全て用意するとなると何かアクシデントがあったら大変だ。それにクレープの方にも人手がいるわけで当日にクレープもプリンもと大人数で狭い厨房で調理するのは無理がある。クレープはさすがに作り置きは出来ないからな。
それにしても気になるのはバイエン公爵家だ。何故バイエン家ほどの大身の貴族家がたったこの程度の経費をケチる必要がある?
俺が把握しているだけでも今回のバイエン家の夜会は大変な規模になっている。王家やクレーフ公爵家、マルガレーテのグライフ家も、とにかく高位貴族のほとんどに招待状が送られている。しかもそのほとんどが出席する予定だ。
アマーリエ第二王妃の夜会があった直後だからアマーリエの夜会に出るために王都に来ていた地方の貴族も大勢王都に滞在している。それらの貴族にも当然招待状が送られているわけで、王都に来ているんだからついでに出るかと出席する地方貴族も多い。バイエン家の夜会のためだけに地方からわざわざ来る者は少ないとしても、すでに王都にいるのなら帰るのを遅らせてついでに出ていくかという貴族も多いのは当然だろう。
アマーリエの夜会には呼ばれない程度の家格の家も派閥の関係上か知らないけどたくさん呼ばれているらしい。単純な規模だけでもすでにアマーリエ主催の夜会を超えることが確定している。さらに出席する高位貴族の数までアマーリエの夜会より多い。場合によっては逆にアマーリエの顔を潰しかねないほどの規模にまで膨らんでいる。
そんな大事な夜会で招待客の接客や料理をカンザ商会に外注しなければならないほど危機的状況なのに、その外注先であるカンザ商会に支払いを渋るだろうか?もしそんなことをして外注先が機嫌を損ねて依頼を断ったりきちんとした対応をしなければバイエン公爵家の評判が地に落ちることになる。たかがこの程度の金額をケチるためにそんなリスクを犯すか?
あまりに不可解なため俺はヘルムートとイザベラにバイエン公爵家の周辺を調べるように指示しておいた。だけどまだ一日二日では情報が集まってきていない。何よりバイエン公爵はよほど用心深いようだ。
ナッサム公は本人の資質や気質の問題なのかどうやら脇が甘い所があった。派閥が大所帯だからというのもあるだろうけど情報の重要性も理解していなかったのかすぐに裏切りそうな下っ端にでも簡単に情報が流れていた。だからそういう者から情報収集するのも比較的容易だったようだ。
それに比べてバイエン公、アルト・フォン・バイエンは重要な情報は最側近としか共有していないらしい。ヘルムートやイザベラという優秀な者達でもそう簡単に情報を集められないようだ。
バイエン公の教育方針なのだろうけどヘレーネの側近達を見てもよくわかるだろう。現在は四人になったとはいえヘレーネには元々幼い時から五人組という最側近があてがわれ育てられていた。これはうちの父が上の兄フリードリヒにヘルムートをあてがい共に育てさせていたのと似ている。
幼少の頃から上下関係を築かせ最側近として育てる。そういう者達ならば大人になってもそう簡単に裏切らないだろう。何より途中で駄目だと思えば切り捨てられるように五人もつけている。途中で信頼関係が壊れたり無能者だと感じたりしたら切り捨てても他に換えが利くようにだろう。
娘であるヘレーネにそうして教育しているようにバイエン公自身も似たようなことをしている。重要な情報を教えたり話し合いの場に呼ぶのは信頼している最側近だけで他の者には決定した命令を下すだけだ。これなら周りから情報を集めようと思っても中々その尻尾を掴めない。
ナッサム公は本人の性格に加えて巨大すぎる組織のために情報管理が疎かだった。それを補佐してある程度情報統制していたのがアンドレであり、前回の事件でアンドレが捕まったことがナッサム派閥にとってどれほどの痛手だったかがわかるだろう。
逆にバイエン公は用心深く他人を信用していないと思われる。ほとんどの情報は自分か最側近までに留め余計な所には極力情報を流さない。意思決定も話し合いも最側近とだけで済ませてしまう。
自分に賛同するイエスマンの最側近ばかりの内輪で話し合いや方針の決定をしていれば思わぬ落とし穴に嵌ることも多いだろう。自由な意見や反対や批判がしにくい環境だと想像出来る。だけどそのお陰で情報統制という意味ではかなりコントロール出来る。バイエン派閥の情報が入ってこないのは中々厄介だ。
まぁまだ焦ることはない。夜会まではまだ日数がある。ヘルムートとイザベラが良い情報を持ってきてくれるのを待とう。最悪何の情報もなかったとしても別にそれほど困らない。今回はアマーリエの時とは違ってこちらの何かがかかっているというわけでもないからな。
本当ならそのヘレーネの最側近であるクリスタが何か教えてくれたら一番手っ取り早いんだけど……、クリスタは何を聞いても教えてくれない。クリスタが何も言わないのか、何も言えないのか、それはわからないけどクリスタが助けてくれと言ってこないのにこちらから勝手に助けに入ることは出来ない。
あとはクリスタがいつかその重い口を開いてくれるのを待つより他に俺達に出来ることはない……。
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さらに数日が経ちヘレーネの夜会まであと三日に迫っている。カンザ商会の準備は順調に進んでいるけどヘルムートやイザベラの調査は難航している。特に新しい情報があるわけでもなくバイエン公爵家の動きは誰にでもわかる表面的な動き以外は掴めていない。
一応入ってきている情報としてはバイエン公爵家は慌しく夜会の準備に奔走しているということだけだ。それは夜会が差し迫っている家ならどこでも当たり前のことだし、バイエン家の準備が何らかのアクシデントで危機的状況だったからこそカンザ商会に依頼してくることになったんだろう。
その程度の情報はわかっていたことだし新しい情報とも言えない。商会や商人、物流関係からどこからどのようなものをどの程度集めているかはわかる。最近ではカンザ商会と付き合いのある相手も多いからあれほど大きく動いていればカンザ商会の取引先からも情報が入ってくる。
そうして手に入れた情報からするとやっぱりバイエン公爵家は今大慌てで各地の食料品を買い集めているのがわかっている。あちこちの有力な料理人にも声をかけているようだ。
普通なら夜会を開こうと思ったら招待状を出す前にある程度は準備の目処を立てているはずだ。それなのに今更、それこそあと三日で夜会だというのに今頃このようなことをしているということは相当大変なアクシデントがあったとみるべきか……。カンザ商会への支払いを渋っているような節があるのもそのためかな?
「フローラ様、そろそろお出かけのお時間です」
「はい、それでは参りましょうか」
俺が少し考え事をしているとカタリーナがノックをして声をかけてきた。準備は終わっているのですぐに部屋を出る。向かう先はカンザ商会の事務所だ。今日はヘレーネの夜会に関する正式な契約を結ぶことになっている。
相手の情報もないまま契約を結ぶのは少々警戒してしまうけど今回はクリスタのためだと思ってクリスタを優先する。最悪一銭もお金が入らなかったとしても良いだろう。出費自体はそれほど大した額じゃない。貴族に支払いを踏み倒されたという事実が残るのは面倒だけど赤字額自体は知れたものだ。
……いや、俺の感覚もかなり馬鹿になっているな。確かにカンザ商会やカーン騎士爵家の財政からすれば微々たるものだけど金額は決して安くないぞ……。赤字を垂れ流しても良いや、なんて考えていたらすぐに家や商会が傾いてしまう。
今回はクリスタのために仕方がないとしても『この程度の赤字なんて大したことがないしいいや』なんて考えは持っては駄目だ。もう一度しっかり気を引き締めなおしておく必要がある。あくまで今回は特例で例外だ。こんなことが度々あってはならない。
よし!気持ちも整理したぞ!
そんなことを考えている間にカンザ商会の事務所に到着していた。事務所で待っているとほどなくクリスタがやってきた。
こちらはオーナーである俺に、王都支部の総責任者のフーゴ、会計のカイル、商品開発部長のレオノール、二号店店長のビアンカだ。
向こうはヘレーネ辺りが来るかと思っていたのに来たのはクリスタただ一人。馬車も付き人もラインゲン家のものだ。バイエン家の関係者が誰もいない……。これはまさか……。
「ごめんなさいフロト……。前払いはこれだけしか用意出来なかったわ。残りのお金は後で必ず払うからこれで契約してもらえないかしら?」
クリスタが出したお金を確認する。前回フーゴが示した額の半分以下だ。クリスタはとても申し訳なさそうな顔をしているけどこれは……。別に前払いしてもらわなくてもカンザ商会やカーン家の財政ならこれくらいの出費はどうということはない。ないけど……。
「クリスタ……、別に前払いの金額については良いのよ。だけどもしかして……、貴女、この契約はバイエン家でもラインゲン家でもなくクリスタ個人がするつもり?」
「それは……」
俺の言葉にクリスタは視線を逸らして口篭る。あぁ、ようやくわかった。今回カンザ商会に依頼してきたのはバイエン家でもバイエン家に命令されたラインゲン家でもないんだ。これはあくまでクリスティアーネ・フォン・ラインゲンという個人がカンザ商会に頼んだ依頼なんだ。
道理でお金の支払いに困っているわけだな。いくらラインゲン家のご令嬢であるとはいってもクリスティアーネ個人が使えるお金なんて微々たるものだろう。ラインゲン家がカンザ商会への依頼をしているのならラインゲン家のお金で賄える。だけどバイエン家どころかラインゲン家ですら後押ししていないこの契約ではクリスタ個人がお金を工面しなければならない。
そこまでしてヘレーネのことを……。
この子はどこまでお人好しなんだ?長年仕えてくれたエンマへのいじめからもヘレーネの人となりがわかるだろう。ヘレーネはどれだけ自分のために仕えて尽くしてくれた相手でも平気で捨てる。クリスタのことも何か気に入らなくなれば簡単に今のエンマのような扱いを受けることになるだろう。
それなのに……、それでも自分個人のお金を何とか工面してまでヘレーネの夜会のためにここまでするのか……。
俺は今ヘレーネのことをあまり良いとは思っていない。俺をいじめていた頃くらいならそれほど気にしていなかった。憧れの王子様の非公式とはいえ婚約者にあの程度の当たりをするのはある意味正常な年頃の女の子の反応だと思えたからだ。
だけどその後からのヘレーネの態度ややることは徐々に許せなくなってきている。特にエンマへの扱いだ。あれだけエンマを利用して嫌な役をやらせていたというのに、少し気に入らなくなったからとあそこまで露骨にいじめのターゲットにする。あれはいくらなんでも酷すぎる。
そんなヘレーネに尽くしてもクリスタもまたいつか酷い目に遭わされるかもしれない。それでもクリスタは幼馴染達のためにここまでしている。
ヘレーネ達のことはあまり気に入らないけどクリスタは別だ。俺はクリスタのために今回の夜会を成功させてあげたい。そう、ヘレーネではなくクリスタを……。
「それは好都合だわ。それではこの契約はクリスティアーネ・フォン・ラインゲン個人とカンザ商会の契約としましょう。それならばクリスタの実家であるラインゲン家にも、ましてや赤の他人であるバイエン家にも何も言われることはないわ」
「……え?」
バイエン家もラインゲン家も無関係で何の後ろ盾もないから契約を断られると思っていたらしいクリスタはポカンとした顔をしている。だけど逆だ。俺にとってはその方が都合が良い。
もし今回バイエン家と外注契約していれば何かと面倒なことになっていただろう。だけどこの契約にはバイエン家もラインゲン家も関わっていない。ただ一人の少女とカンザ商会が交わした個人的な契約だ。
これならバイエン家にもラインゲン家にもとやかく言われる筋合いはないし、今後カンザ商会に外注を頼もうとしてくる相手も跳ね除けることが出来る。契約直前で思わぬ展開になったものだけど俺にとっては良い方に転がった。
「さっ、新しい契約書を作って契約しましょう」
「え?え?」
まだ状況が飲み込めていないクリスタを置いて俺はこれからするべきことを考えつつ新しい契約書を用意させたのだった。