3話 事故とは言え、説明は大事です
彼――――ここで言う、田中史郎が目を覚ますと、既に12時を越えて日を跨いでいた。その上夜も明けて、朝となっていた。朝を迎えると、そこにはこちらをどこか不安そうな顔で見つめる、女性の姿があった。
その女性は黒いワンピースドレスを着た、長い黒髪の乙女。深窓の令嬢とでも言うべきその少女は、窓に手をかけて外の朝日を眩しそうに見ていたが、彼が起きるのを気配で察するとこちらへと顔を向ける。その顔は喜びに、嬉しさに満ちていた。
「あっ! 目が覚めたようなの」
と、彼女はそう言うと急いで立ち上がると、彼の顔に高さを合わせるために中腰になっていた。その際に中腰になったため、服の隙間から白く、そして柔らかいおっぱいが見えて、彼は途端に目線を下へと逸らすとそこにはまた別のおっぱい。
――――えっ? おっぱい?
パッと視線を再び、元の視線へと戻す。すると、今度は少し申し訳なさそうな顔をした女性の顔があった。
「あはは……」
再び視線を下へと向けると、やはりおっぱい。
顔を上へと上げて、下へと再び向ける。
乳房。
顔を上へと上げて、下へと再び向ける。
バスト。
顔を上へと上げて、下へと再び向ける。
胸部。
顔を上へと上げて、下へと再び向ける。
お胸。
幻想というか、夢幻というか、そうであって欲しいと思っていたのだが何度見ても結果は変わらなかった。
「な、なに、これ……」
「おっぱいです」
「おっぱい?」
「乳房とか、バストとか、カップとか、胸部、お胸。そんな風に呼ぶべきでしょうが、概ねとしてそれはおっぱいです。やはり女のおっぱいでしかないのですから」
「だれの?」
「あなたの、ですかね」
「やっぱり?」
「えぇ、そうですね。その視線の先にある立派な、女らしい乳房はまさしくあなたの物ですよ」
……そっかぁ。俺のかぁ。
そっか、そっかぁ。
そういう事かぁ……。
「……って、どういう意味だ! このおっぱいが、俺のってどういう意味だよ!」
ベッドから跳ね起いて、俺は彼女の首元を掴んでいた。途中、服がずれ落ちたが気にする事はあるまい。今一番大事なのは、自分が何故、女の姿になってしまっているのか重要なのだから。
必死の形相で聞く俺に対し、彼女はふふんと、どこか誇らしげな顔を向けていた。
「あなたは、吸血鬼になったのです」
「きゅう、けつ、き……?」
それって、あの血を吸ったり、色々なものに変身出来たりとかする、あの?
「君がどんな吸血鬼を想像しているかは分からないけれども、君がなったのは吸血鬼。私が血を吸う事で、あなたは吸血鬼です。
――――闇夜を舞い、そして血を吸い、他のモノに化ける事が出来る。人の血を吸ったりする、最近噂のバケモノです」
「バケ、モノ……。いや、ちょっと待て。それでなんで、俺の姿が女になるんだ!?」
「いや、そりゃあなるでしょ。あなたは吸血鬼になったんだから。
常識外れの存在になるなら多少の常識は捨てないと。老人が若者になったり、人間が芋虫になったりと、この世では常識外れなんてあってしかるべきですよ。少年が少女になったり、とね。まぁ、分からない事に疑問を持つ事は良いですが、あくまでもほどほどにすべきですよ」
――――だって、悩んでも答えは出ないのだから。
彼女はそう笑っていた。
「……これは戻らない、のか?」
「戻る、と言うのが"人間に戻る事"でしたらその答えは"ノー"ですかね。人間が吸血鬼になる事は意外と多々あるんですけれども、吸血鬼が人間に戻った事は見た事ないですね。
まぁ、一度現実と言う枠組みを外れてしまった者が、もう一度現実の枠に入るにはかなりの事をしなければならない。とまぁ、そういう事なのですよ」
はぁ、とそう返すしかない史郎。
まだ納得していない部分は多々ある。人間、異常事態を「はい、そうですか」と納得出来るほど物分かりが良い者ばかりではなく、故に彼も納得しきってはいなかった。
だが多くの人間がそうであるように、人間なにかしらの妥協は見つけるものである。
元の状態へと戻らない以上は、ある程度妥協をしなければならないのは事実である。
故に諦めて、史郎はその女へと向き合う。
女は自分の事をニーチェと名乗っていた。明らかに本名ではなかったが、史郎は別に気にしなかった。もう何が起きても可笑しくはない、それだけの気持ちだった。
「本来であれば、私は君を吸血鬼にするつもりはなかったんだけどね。緊急事態でお腹が減っていたから、ついつい君にかぷっといっちゃったんだ。ごめんね」
「……緊急事態?」
それってどういう事、と聞く前に「どんっ!」と大きな爆発音が鳴り響く。そしてニーチェと名乗った彼女は「あちゃ~」と罰が悪そうな顔をしていた。
「どうやらその、緊急事態とやらが追って来ていたみたいだね。全く、ちゃんとした説明もまだだと言うのに、無粋な殺人鬼だよ」
「殺人……鬼?」
殺人鬼。
人を殺す者のことであり、テレビのワイドショーを時折騒ぎ立てているが、勿論殺人鬼も十分すぎるくらいに恐ろしいが、史郎としては吸血鬼の方が恐ろしかった。
「そう、吸血鬼がなぜ吸血鬼と呼ばれるか。それは吸血を行う鬼であるからだ。
なら、殺人鬼とはなんなのか? 答えは――――。
――――人を殺す鬼、つまり吸血鬼と同じく鬼なのさ」