もぐら
物語の書き手は如何にして文字をひねり出しているのか。僕もこれを生業として数年だが、時にスランプに陥ることがある。
単語の一つ一つを嫌悪してしまうほど、言葉を発することさえも躊躇うほどにその時期は憂鬱になる。
まるで瓦礫に沈んだ防空壕のように、救いのない穴の中にいるような気分になる。
何度もそんなスランプを経験してきた僕だが、今回もやはりそのようだった。阿吽の言葉も、何の罪もない原稿用紙ですら嫌悪している。
何をきっかけにして前回のスランプを乗り換えたのか。忘れるはずもない、あれは丁度二年前の話だった。
僕には恋人がいた。病気がちで外に出られず、雪のような肌を持つ彼女は僕の仕事を誉めてくれた。
「自分の考えた話を面白いと言って読んでもらえるのは素晴らしいことなんだ」といつも元気づけてくれていた。
スランプに陥った僕はそんな言葉も遮り、風も枯れ葉も通さぬ自室にただただ閉じ籠っていた。時々呼ぶ声があったことは覚えているが、それも長く続かなかった。
ノックの音が止んだ頃、僕は部屋を出た。何故音が止んだのかはすぐに分かった。彼女は元々血の気のなかった肌を更に真っ白にして横たわっていたのだ。
気がつくのが遅すぎた。既に病巣は彼女の命を奪い、持ち去っていた。身体の芯から凍りついていくような感覚をその時の僕は味わった。
ボロボロに泣いて、後悔した。何故気づいてあげられなかったのかと。そして恨んだ。何の生産性もなく、縛り付けた文字と文学を。
彼女の両親とは面識があった。僕の仕事も把握していた。しかし彼女が死んだことはやはり納得のいかないようだった。病に伏せていたとは言え、何故すぐに気がついてやれなかったのだと責められた。当然だ。
そして僕自身も僕を責めた。彼女を失ったのはお前のせいだと徹底的に貶めた。生きていることさえ否定した。ただその中でも僕はひとつのことは許した。
彼女が認めてくれた小説家という仕事だ。
散々に思い悩み、挙げ句彼女を殺したのがこの仕事だとしても辞めるわけにはいかない。彼女が好きだと言ってくれたこれを辞めてしまえば僕の中の彼女もいなくなってしまう。申し訳ないという気持ちで続けるのではなく、次も認めてもらうために書き記すと決めた。もう戻らない彼女のために。
それからというもの、僕はさまざまな小説を残し評価を得た。名声は自然についてきた。何を思って小説を書くのか訪ねられたこともあった。もちろんこんな話を公開するつもりも無かったから他愛もないことを喋った。
彼女がもし生きていたとしたら、今の僕も認めてくれるのだろうか。何度も想像した彼女の姿はまだ真っ白のままだった。
そして今回のスランプもやはり予感がある。死の予感だ。死を動力とした僕の文章は新たな死を求め止まった。
思い返せばその前も、もっと昔も、飼い猫から最愛の人まで失って得た言葉を紡いできた。しかし同じ経験は二度とごめんだと親密な付き合いを切り捨て続けた僕に、ひとつを除いて新たな死は存在しないはずだった。
ふと気が付くと一つの作品を書き終えていた。直後に酷い眠気に襲われたから最後の作品を読み返す時間はなかった。僕は机に突っ伏してそのまま眠った。
「突然死んだようには見えないな、これは遺書ではないようだが」
最後の作品を作り上げたのは彼自身の死だった。
誰もが認めた作品は、彼の中にいた彼女も目を通すことが出来ないまま世界に発信され続けていくのだった。