Stage.10:『Io sono fuori di una regola(規定外)』
[Fab-28.Tue/15:00]
ニャーオ、と。
広めの路地裏には、黒い子猫が寝そべりながらカナタを見上げていた。
「妙な気配を感じて覗いた路地裏にいたのは猫でした。……何て漫画的な」
ニャーオと。やたらふてぶてしく鳴く子猫。
この猫、人間に慣れているのか、カナタを前に全く逃げようとしない。目は口ほどに語るというが、まさにこの子猫の目は「おい人間、何見てんだよ。見物料として魚肉ソーセージ持って来んかい」と言ってる気がしてならない。
「こんのクソ猫ッ……野生を忘れるな! 可愛くない奴だなチクショウ! 人を驚かせたんだから『ごめんなさい』くらい言ったらどうだ!」
ヒョイとカナタは子猫を抱えながら怒ってみるが、子猫は「知った事かい。餌よこさんのなら触るなよ人間」と言わんばかりにそっぽを向いた。ますます可愛くない、とカナタは立ち上がりながら猫を目の高さまで持ち上げ、視線を上げて、
「貴方、吸血鬼の従者? 匂いがヒドいわよ」
声。
視線を上げた先には、この街の高校の制服だろう白いボレロを着た少女が、悠然と立っていた。パチパチと背後で何かが燃えているが、不思議な事に辺りの建物に燃え移るどころか、煤一つ付こうとはしていない。
その、くすぶる炎の中に。
人型の何かが見える。
「なんッ――!?」
「まさか二人いるなんて。合流ポイントまで逃げて、挟み撃ちしようとしたのかしら? まぁいいわ。――火行、火気。猛よ」
白い制服の少女は気だるげに呟きながら、指で中空に星の形を描き出した。
(魔じゅ、つ師……!?)
カナタには、ありがたくも何ともない生きる上で不要なスキルとして『魔術師を相手に即座に反応する』というものがあるが、まさに勘だけでカナタが動こうとし、魔術師の攻撃が放たれた。
轟! と言葉通り、猛る火球が眼前に迫る。広いとは言え、路地裏だ。横に避けても削られ、後ろに避けても意味がない。かと言って前に突っ込めばそれこそ火に入る夏の何とやら。
なら――下。かろうじて、伏せれば当たらない程度の隙間の空いたその僅かな空間。一瞬すら待たずに判断したカナタは、子猫を胸に抱いた、身体を横に倒して火球をかわした。
「ぐわちゃあ!」
が、いくら火球を避けたところで、炎が生み出す余熱までは防ぎきれない。空気を焼く熱気に当てられながらもカナタは少女の足下まで転がり着く。
「ふん、正解よ、吸血鬼」
少女が呟いた矢先、
パゴォン! 凄まじい爆音と衝撃波が、カナタを背後から襲った。燃え盛る火球が、突如、爆発したのだ。二段構えの攻撃に、カナタの身体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。
「さっきの奴と違って、貴方は結構いい反応をするの……あら?」
自分の身体を飛び越えて背後に飛ばされたカナタに振り向きながら、白い少女は余裕のある笑みを苦笑に変えていた。何か、思惑と違った出来事が発生したと言わんばかりだ。
「やだ。貴方……もしかして、人間?」
そんな言葉が聞こえてきた瞬間、ブチン、とカナタの頭のどこかがブチ切れる音が響く。少女は苦笑を浮かべたまま、一歩後退した。
沸々と湧き上がる怒りに震えながら、カナタは立ち上がる。幸い、ダメージは大した事ない。少しばかり呼吸が苦しいし背中がジクジクと鈍く痛むが、動けない程ではない。そんな瑣末より、今は、沸点を軽く超越した怒りのボルテージの方がどうかしてしまいそうだ。
「人間か、だと……? 当ったり前の事聞いてんじゃねぇよテメェ! 魔術師ってのはみんなそんなんか! どいつもこいつも人の話を聞きもしねぇでバカスカ撃ってきやがって! 死ぬぞ!? なぁ! 普通の人間なら今の死んでますよ聞こえてますかぁ、ァアン!?」
「ご、ごめんごめん。ついうっかり……」
「『ついうっかり』じゃねぇよ! 死ぬところだったっつってんだろうが! ついうっかりで人を殺す気か! 大体、猫に当たったらどうするつもりだよ!」
「は? ……猫?」
怒りに任せて捲くし立てるカナタの腕には、黒い子猫の姿。ポカンと固まっている。今の状況をどう受け止めようか考えているのか、ふと我に返り、思い出した様に「ふぎゃ! ふしゃあああ!」とかなり本気の悲鳴をあげ、カナタの腕をすり抜けて着地し、猛ダッシュで逃げていった。身を挺して守ったカナタに対する恩はまるでないらしい。
「バカ猫ォォォおおオ!」
「まぁ、何と言うか……どんまい」
もう姿も見えない子猫に非難の叫びを浴びせるカナタの肩を、少女はポンと叩いて首を振った。まさに『目も当てられない』という言葉を辞書からそっくりそのまま切り抜いて服を着せた様なカナタに、流石の少女(殺人未遂)も同情するしかない様である。
「まぁ……アレよ。悪かったわね。ちょっとピリピリしてて殺しかけちゃったけど……貴方、本当に一般人? 魔術師を相手に即座に対応してたけど、実は魔術師なの? 特殊な隠匿法でも使ってる?」
「あ? いや、僕は魔術師じゃないけど、魔術師となら何度か戦った事あるし」
謝られては怒るに怒れない、とカナタは少女に向き直りながら語る。当の少女はカナタの言葉に目を丸くし、次に驚愕した。
「は? ……ハァ!? ちょ、正気!? 一般人相手に喧嘩しかけた魔術師がいるっての!? そいつ、どこのバカよ! っていうかよく生きてるわね貴方!」
「ま、まぁな。どうして生きてるかは僕も不思議だが、殺人未遂にだけは言われたくない。あと、喧嘩を売られたというか、自分から首を突っ込んだというか……」
「……あのさ。意外と確信を持って聞いてみるけど、貴方、時津カナタ?」
「な、何で僕の名前を知ってんだよお前!」
「ちょっと小耳に挟んだだけよ。ローマ十字教を相手に啖呵切った奴がいるって」
少女は呆れきったため息混じりに、ついでに色々と切り出してきた。
ローマ十字教の部隊がこの街にやって来て、ほぼ壊滅した事。その上司が後始末に駆けつけた事。彼女はそちらの同行を気にしつつ、別の人物を追っているのだという。
「で、僕がそいつの手下なんじゃないかと勘違いして、『ついうっかり』殺しかけちゃった、と」
「うっ……トゲのある言い方ね。まぁ概ねそんな感じよ。その吸血鬼を追ってて、さっきようやく、足取り、を……――ッ」
被害者のジト目を受けながらも得意げに話していた少女は、ふと息を呑んで硬直した。血色のよい顔が、見る間に青ざめていくのが分かる。何か、遠足当日に準備万全で出かけようとした矢先に捨て犬を見つけ、上機嫌なまま後先考えずに自分の弁当をあげてそのまま学校に行き、遠足でいざお昼だと言う時に弁当を犬にあげた事を思い出した様な青ざめ方だ。比喩が長いな。
吸血鬼。真祖。雨月。追跡。従者。撃破。カナタ。説明。ランダムに単語が浮上し、パズルを組み立てる様な軽快さで、少女の頭が整理されていく。
即ち、
「やッバ……忘れてた……!!」
口に手を当てて青ざめた、かと思いきや、少女は勢いよく駆け出した。男性アスリートもビックリな初速を一気に最高速まで引き上げて、空中を滑空するタービンエンジン搭載の紙飛行機みたいな速度で。
カナタの手を引いて。
「ってぎゃあああ! タンマ! お願い待って! 普通の人はそんなスピードで走れない! ってか何で僕も一緒に連れて行かれているのか問うのも今は吝かでなし!」
「詳しい話はあと! 今は雨月優先!」
「知らねぇよそっちの事情なんざ! ――ウソですごめんなさいヤバいヤバいヤバい転ぶ! この速度で盛大に転べば怪我じゃ済まない気がしてもうホントスイマセン助けて!」
「ああもううっとうしい! いいから今は走る! アンタのせいで時間かかっちゃったんだから、男なら責任取りなさい!」
「もう意味分かんねぇよ! 大体、それを言うなら先に殺されかかった僕の責任取れよ! ああもうヤバイって死ぬゥゥゥううウ!!」
かくして、公道を二人三脚の様な体勢で走る少年少女。騒ぎが聞こえたと思えば疾風の如き速度で過ぎ去る高速の弾丸は、歩道を疾駆する。後に、ドップラー効果満載の二人はこの街の新たな都市伝説に『快速死霊恋人』として名を連ねる事になるのだが、それは二人の知るべき処ではない。
[Fab-28.Tue/15:10]
一〇分間。一〇分間である。短距離走専門の男性アスリートも舌を巻いて夜逃げしかねない速度で疾走する事、一〇分間である。どう考えてもおかしい。あり得ない。『あり得ない』とはつまり現実の否定、〇と同義である筈なのに、現実にこうして起こり得ている不思議とはこれ如何に?
不況の煽りか何かしらのトラブルか、建設途中のまま打ち捨てられた廃墟は昼下がりであっても薄暗く、何より埃っぽい。ステンレスパイプで補強された箇所やキャットウォークも設置したまま放置してある。カナタはそれらに手を突いて身体を支えながら、フラフラと歩く。
「オイ……あの速度で走り続ければ、人は死ぬぞ……」
「そう簡単に死んだりしないわよ。現に生きてるじゃない」
肉離れとかしたらどうしよう、と自身を心配するカナタは、目の前を歩く少女に非難がましい視線を送るが、何かと傍若無人な振る舞いの少女は気にした素振りをこれ見よがしに見せ付けている。このパターンは、どこか、友人に近しいものがある。
少女は、自らを賀茂瑞穂と名乗った。賀茂、という苗字は流石のカナタも聞いた事がある。陰陽師だか何だが、そんな家系の名前だった気がする。いや、ゲームやマンガが元の見栄だけど。
「で……ここに、その吸血鬼ってのがいるのか、賀茂」
「そうよ。そう……その筈だったんだけど、どうも気配がしないのよね。あ、それと、私の事は名前で呼んでいいわよ、カナタ君」
「了解、ミズホ。僕も『君』はいらねぇ」
「了解、カナタ」
二人は廃墟に足音を響かせながら歩く。その間、ミズホは周囲を念入りに監察したり、時折柱や壁に触れて立ち止まったりしていた。その度に「おかしいな」や「どういう事かしら」なんて、一般人には分からない事を口にしている。試しにカナタも同じ様に周囲を監察してみたが、何がおかしいのかやっぱり分からない。
「どうなんだ、吸血鬼――えっと、雨月だっけ――は、移動したのか?」
「そうらしいんだけど、どうも、ここで戦闘を行ったみたいね。相手が誰かは知らないけど、少なくとも私の知り合いじゃないわね。アイツなら、こんな芸当、出来ないわ」
「芸当?」
「ええ。大気の乱れた魔力は雨月の仕業。わざわざ虚構革鞭を持っていったのは護身だったみたいね。……だけど、もう一つ、別の魔力の乱れがある。いえ、これは『乱れ』なんて生易しいものじゃないわね。どんな理屈かは知らないけど、辺り一帯の魔力が『分解』されてる」
ミズホの言葉に、カナタはギクリと肩を震わせた。彼女の追っている吸血鬼の名は『雨月』。この国に生まれた吸血鬼の真祖。つまり、カナタの知り合いと同じ最強種であるという。その吸血鬼は知り合いと違って魔術道具を持っているらしい。ただでさえ戦力的には他の追随を許さない怪物じみた存在であるというのに、更に魔具まで持っていて厄介だ、という話をミズホから聞いた。
が、魔力の『分解』というのは聞き捨てならない。つい先程、アキラから聞かされた言葉だからだ。どういう経緯かは知らないが、ここで吸血鬼の真祖と戦闘を行ったというのは間違いなく、
「……アントニオ=ゲルリンツォーニ」
ボソリとカナタは呟く。一人の女性を攫って行った騎士崩れの魔術師。カナタの呟きは、今度はミズホが聞き捨てならない。
「……待ちなさい。今、貴方、なんて言った?」
「え? あ、アントニオ、って。いや、僕らもソイツを追ってこの街に来たんだ。多分、ここで吸血鬼と戦ったのは、アントニオだ。あいつの持つ霊装・封殺法剣は、そういう類の物だって聞いた。何でも、『大気に漂う魔力を悉く分解する』んだと」
カナタの言葉に息を詰まらせながら、ミズホは深刻な表情を浮かべて歩く。程なくして目的の一角に差し掛かった時、そこは戦場跡地だった。
「ちょっ……」
「うっわ……」
戦場跡地。まさにその言葉通り、コンクリートの至る箇所に凄まじい破損や夥しい血痕が窺える。鉄球でも叩きつけられた様に抉られた壁、刻まれた床や柱、所々に飛び散る赤い飛沫。隅の方に吐瀉物も見える。
これがアントニオと雨月の戦いの痕跡と言うのなら、アントニオはアキラと戦った時より確実に強くなっている。そもそもアントニオは頭が切れる、頭脳派だというのがカナタの見解だ。アキラとの戦いはどこか、精神的に不安定だった気がする。
これがアントニオの実力なのだろう、とカナタは思う。今は動けない、疲労しているとアキラは言っていたが、とんでもない。仮にそうだとしても、その状況でこれだけの惨事を巻き起こすと言うのなら、例え優勢に戦っていたアキラでさえも勝てるかどうか。封殺法剣の事もある。
「うそっ、何これ……ちょっと、カナタ、こっち来て!」
思案に耽っていたカナタを現実に呼び戻したのは、ミズホの声だった。我に返りながら、カナタはミズホに近付く。
「な、何だ、これ……」
そして、本日何度目だろう、驚愕を露わにした。どう考えても普通じゃない光景が、そこにはあった。
何か。とてつもない強力な万力……いや、ミキサーにでもかけた様に捻じ切られたパイプがそこにはあった。太さ直径三〇センチはあろう複合素材のパイプだ。水道でも通すつもりだったのだろうそれが、捻じ切れている。どんな建築機器を使ったのかと疑いたくなる程だ。
「さっき言ってたアントニオって奴の仕業なの?」
「いや……確証はないが、違う、と思う。アイツの主力は剣技だ。こんな力があるとは思えない。魔術を使えるとしても、こんな力があれば、僕の知り合いとの喧嘩で使ってただろうし。そっちの言ってた吸血鬼の仕業なんじゃないのか?」
「いえ、それもあり得ないわ。夜の支配域の吸血鬼ならともかく、今はまだ陽がある。吸血鬼としての能力はかなり制限されてるでしょうから、こんな腕力はない筈よ。雨月の虚構革鞭だとしても、あの鞭にはこんな力はない」
謎は深まるばかり。むぅ、と唸ったミズホは、気持ちを切り替える為か、手を叩きながら立ち上がった。
「……いいわ。逃がしちゃったものは仕方ないし、こんな埃っぽい場所じゃロクに考えれないわ。頭を整理しましょ。情報も欲しいしね。そっちの事件とこっちの事件がリンクしてるって言うのなら、尚更よ。一度、どこかで落ち着いて話を合わせましょ」
そう、ミズホは笑顔で提案してきた。上品でありながら可愛くも思える笑顔に、カナタは思わず動悸する。
……この笑顔は、何か企んでいる顔だ。相変わらず生きる上で役に立たない直感だけは働くのだった。