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貝合わせ異聞  作者: 柚木
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ふみ迷われる少将

 皆が少将の部屋から去ったが、すぐに妙案が浮かぶ筈もなく、少将は何の気なしに、届いていた松虫の君の文を開いた。

「来ぬ人を 待つかいもなく 立ち出でて 舟をこがるる みずの冷たさ」

 少将は首を傾げた。『貝』と『甲斐』、『水』と『見ず』の掛け言葉に留まらず、『焦がるる身』まで詠み込んでいる。恋の炎に燃え上がった身と、冷たい海の対比も鮮烈な力強い歌風は、なるほど兄である三位の中将に引けを取らない――歌の詠みぶりは何ら申し分ない、が、少将の紅葉を詠み込んだ歌に対する返歌としては全く意味が通らないのである。

「松虫の君は、私を誰かと間違えておられるのだろうか」

 松虫の君自身か、あるいは、松虫の君付きの女房の手違いか。だとしたら主人の顔に泥を塗る大失態である。

 少将は筆を取り、考え込む。あまりきつい調子にならずに、さりげなく文の宛先違いをほのめかさなければならない。

「住み慣れた 山ふみ迷い 帰らない 人をまつほの うらむかいなし」

 大納言家の姫君とのやり取りのおかげで、貝や海の情景を歌に織り込むのは慣れたものである。

 自分自身が姫君と切れていないのだから、当然、松虫の君を責める気持ちには全くならなかった。松虫の君が「来ぬ人」と幸せになってくれればいい。かと言って、自分が姫君と幸せになりたいとは思わない。彼女には色の変わらぬことのはが在る。

「人をまつほのうらむかいなし、か――」

 恨む、という感情そのものが、少将にはよくわからない。それ程まで人に恋い焦がれ、裏切られたことがないからなのかもしれないが、例えそうなったとしても、己が恨みという感情に支配されるところが想像しがたいのであった。

 そうだ。自分は姫君にも常葉殿にも恨みは持てないのだ。では、兄と恋人を引き裂いたかもしれない父上には?

 もやもやした気持ちのまま、少将は女房を呼び、文を託した。

「まあ、災難ですこと……左大臣家がとんだ粗相をする女房をお使いなのかしら、それとも姫さまの勘違いなのかしら。あまりにも初心な姫さまならともかく、基本は女房とて文の内容にまで立ち入りはしませんからね」

 若い女房は、どうにも腹黒く思える意味深長な笑みを浮かべて、少将の文を受け取った。

「天下の左大臣家でも、末の姫さまにまで有能な女房を回せぬのですねえ」

「我らにはそなたのような賢い女房がいて助かるな」

 苦笑交じりの声に、少将ははっと顔を上げる。

「ち、父上」

 父右大臣が自室の入口を塞ぐように仁王立ちしていた。

「左大臣の末の姫にはいいように弄ばれたようだな。そなたという男はほんに、運も間も悪いのう」

「大きなお世話ですっ」

 呆れた調子で言われると、かちんとはくるが、恨めしいという気持ちにはならない。

「そなた、内心ほくそえんでおるだろう」

「は」

「顔に書いてあるぞ。やはり大納言の姫を諦めておらぬと見える」

 図星である。

「なぜそのように自ら破滅に向かう?」

 父右大臣の目はもう笑っていない。この人は確かに父ながら怖い、やり手で時に冷酷で――しかし、そこにはきっと父なりの正義がある。それならば、こちらも思っていることをぶつけるしかない。

「破滅するかどうかなんて、やってみなきゃわからないじゃないですか」

「何を馬鹿なことを……破滅以外の道はない」

「ないとは限りません!」

 父は軽く目を瞠った。

「今まではなかったとしても、それだけのことでございます」

「……そなたには、他の者にできなかったことができると申すか。大した自信家になったものだ」

「思い上がって申し上げていると取られてもかまいません。私はただ……」

 そうか。少将は今、自身の心持ちの変化を、少しの驚きをもって受け入れた。

「ただ、やりもせずに逃げるのはいやなのです」

 以前の自分が聞いたら、少しどころじゃなく驚いているだろうな、と、冷静な自身の一部が苦笑する。

「……そなたの口からそのような言葉が聴けるのは、感慨深いがな……引くべきところと押すべきところの判断を見誤っているとは思わんか。命と引き換えになっても、そなたは後悔せぬと申すか」

 少将が口を開くより先に、父は自分で答えを言った。

「例え息子らが本望だと申しても、親は後悔するのだ。それをよく覚えておけ」

それだけ言うと、父右大臣は嵐のように去っていく。

「ふふ……思いがけず珍しいお顔を拝見できましたわ。わたくし、ちょっと嬉しゅうございます」

 見れば若い女房は頬を紅潮させている。少将にとってはこちらの方が珍しい。

「そなたは父上を……その、」

「好いておりましてよ、心から」

と、北の方の子に対し臆面もなく言い放つ。

「とは申せ、身の程はわきまえておりますわ。わたくし、賢い女房ですもの」

などと、何やら誇らしげにしている。あの父が娘くらいの年の女房に熱を上げられる理由は、少将にはとんと理解ができない。けれどもそんなことを口にすれば、物の怪憑きの姫君にこだわる男の方がおかしいと言い返されるのがオチだろう。

 少将の心の内を見透かしたように女房は微笑んだ。

「少将さまは大納言家の姫さまを好いておられるのでしょう?」

「私は……よく、わからぬ」

 少将は言い淀む。

「無理矢理あの方を抱きしめたいなどとは思わない。むしろあの方の心に私はおらぬのに、好きでいてよいものだろうかと思うことさえある」

 これは本当に恋だろうか?

「少将さまでなければ、綺麗事を申されますなと鼻で笑って差し上げるところでございますわね」

 相変わらず主家の男たちにも手厳しい女人である。

「けれどあなた様ならば、さもありなん、でございますわ」

「……あまりきつく言わないでくれ……女々しい男だという自覚はある」

 少将は力なく言う。

「他の殿方になら、気晴らしにわたくしでよければお相手つかまつりますわ、と囁くところですわよ?」

「……あまり茶化さないでくれ。心が折れる」

「本気で悩んでおいでなのはわかっております」

 女房は、真面目なことを申し上げるのは苦手ですけれど、と前置きして一気に述べた。

「少将さまのように一途な方に慕われる女人は幸せですわよ。北の方の他に通う所のない殿方を馬鹿にする方は、自分がそのようになれないから恨んでいるだけなのです。他人に何を言われようと気にしてはなりませぬ。けれど、右大臣さまの親心だけは汲んで差し上げてくださいまし。少将さまの行く末を案じられてのことなのですから……」

 思わず目を伏せた少将に、女房はやさしく告げた。

「それでも心が止まらぬのであれば、恋でなくて何なのでしょう」

参考歌


道知らぬものならなくにあしひきの山ふみまよう人もありけり(後撰和歌集 大輔)

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