少将の仮説 二
長兄は懐からそっと、古びた薄様を取り出した。少将は皆によく見えるよう、一同の中心に薄様を差し出した。皆、膝を突き合わせて覗き込む。
「これは……っ」
次兄が悲鳴のような声を上げた。弟君はきょとんとしている。
「この手蹟に見覚えがあるのですね、兄上」
少将はついに、次兄に顔を向けた。
「……ああ、とても」
次兄の声は少し震えていた。
「とてもよく知っている……懐かしい字だ」
次兄は右手で眉間を押さえ、押し黙った。皆、次兄が話し出すのをしばらく待ったが、痺れを切らした長兄が声を上げた。
「俺は彼の人の手蹟を知らんが、書かれた歌を見て直感した。弟が彼女の恨みを晴らそうとこれを仕掛けたのだと」
「違う」
次兄ははっきりと否定した。
「ではどういうことだ? 誰が仕掛けた? それに、二枚目と三枚目を入れ替えた者もいるのだろう? それは誰なんだ」
矢継ぎ早に問い詰める長兄を軽く制し、少将は続ける。
「そもそも一枚目は呪符ではなかったのです。兄上はこの手蹟を知っているかもしれませんが、この歌自体には見覚えがないのではありませんか?」
「そうだ」
次兄は不審そうに、そして少し淋しげに言った。
「この文を受け取った覚えはない……彼女に、他にこのような歌を贈る相手がいたというのか?」
少将は慌てて否定する。
「いいえ。この文は、」
わたくしたちは、二の君さまにひどいことをしてしまいました。
亡くなった女房の言葉から少将が推測した答えはこうだった。
「かつて秋萩の姫が兄上に宛てて書かれ――兄上に届く前に父上が奪い、床下に埋めたものでしょう」
「父上が文を奪った?」
次兄の顔がこわばった。
「何の権利があってそんなことを!」
「……非難がましく言うが、彼の姫がどのような状態だったかを考えれば、父上は悪くない」
「悪くないだと……兄上に何がわかる!」
掴み合いが始まってしまい、少将と大納言家の弟君は必死で二人を押しとどめた。
「放せ!」
「放しませんよ! お二人が喧嘩したって意味がありません! 父上を問い質すしか――」
「あの狸親父をか? しらばっくれるに決まっているだろう」
「しらばっくれさせないように! 私が策を練りますから! どうか兄上たちが争うのはやめてください!」
次兄はまだ不満そうな顔のまま、長兄の直衣を掴んでいたが、長兄が身を捩って離れると、もう一度掴み掛かろうとはしなかった。
「お前の策を当てにしてよいのだな?」
次兄は鋭く、そしてどこか切なげな眼差しを少将に向けた。
「……はい」
「ではお前に任せよう――少し外に出てくる」
ゆらりと亡者のような足取りで部屋を出ていく次兄の後ろ姿を、少将は不安な気持ちで見送った。
「……羨ましい男よ」
長兄の唐突な言葉に、少将は
「はあ」
と間抜けな声を上げる。
「ここまで想われて……彼女を忘れろと言い続けるのは酷というものなのだろうな。わかってはいるが……」
それまで黙っていた弟君が口を開いた。
「この想いが残っているうちに消えたいなんて、おいたわしいほどのお気持ちだと思います。もしも姉上がこのようなことになったらと思うと胸が潰れます……」
などと呟き、よもやそんなことにはなりませんよね、とでも言いたげにじっと顔を見てくるので、少将はぎょっとしてしまう。
「さすがに父上も、大納言家の姫君に家格が合わぬとは言うまい」
とはいえ松虫の君――左大臣家の末の姫との仲を期待しているふうだったのは確かだが、とても言い出せる空気ではない。
古びた文を見つめていた弟君は言った。
「でも、なぜ右大臣さまはこの文を隠したのでしょう」
「それはたまたまかもしれぬ。この文が最後の文だったのか、父上が他にも文を隠しておられるのかはわからんだろう」
「他にも文を……」
有り得ることだ、と少将は思った。
しかし父上とあの女房が文を隠していたとして、それが彼女の死期を早めたとでも言うのか? 結局同じことだったのではないのか――。彼女は既に魔に冒されていた。誰にも助けることは叶わなかっただろう。
「父上に全てを話していただけたら、兄上はいくらか救われるのでしょうか?」
長兄はかぶりを振った。
「わからぬ。余計に苦しまぬとも限らない」
しかし長兄は、にやりと笑ってみせた。
「けれども、お前が思うようにやってみたらいい」
「え」
「お前が俺たちに比べてそれ程愚鈍でないことはわかった。次はあの古狸に一杯食わせてやればいいのだ」
「は、はあ」
「間抜けな顔をするな。それでどうなろうが、後はあの二人の問題だ。お前が気を揉む必要はない」
自信たっぷりに言う長兄に、少将は曖昧に頷いたのだった。




