女房 二
「私が?」
そんな筈はない。少将の記憶では、あの古参女房が嬉々として持ってきたのだった。次兄も彼女と話をしていたではないか――いや、果たしてそうだっただろうか? 彼女の二の君への挨拶はおざなりで、一方的だったのではないか。考え始めると、自分の記憶に自信がなくなってくる。
不意に、常葉殿の意味深長な言葉が脳裏に閃く。
「そなたが生きた人だと思っている者の幾人かは鬼やもしれぬ」
彼女が、生きた人ではない――? 彼女の姿は、兄上の目には映っていなかったのか――。あまりのことに頭がくらくらする。
「顔色が悪いな。昨夜は遅くまで宴だったのだろう? 今はゆるりと休め」
兄の言葉に甘えたい気持ちはあったが、秋萩の姫のことを聞き出さなければならない。
「兄上」
「何だ、改まって」
真っ直ぐに見つめられ、少将は緊張した。
「父上は……秋萩の姫と兄上の仲を疎んじておいでだったのでしょうか」
次兄は首を捻った。
「北の方とするには、家格が合わぬと言われはしたが……私自身は、姫があのようなことにならなければ、北の方として遇するつもりでいた」
「父上にあからさまに邪魔立てされたということはなかったのですか」
「ないと思うが……お前は何を疑っているのだ?」
次兄は再び怪訝な表情を浮かべる。
「い、いえ。疑っているわけでは……」
「やはり少しは休んだ方がいいぞ」
休んだら、左大臣の姫の文に返事をしてやらねばな、と付け加え、次兄は去っていく。
少将は、全く眠る気になれなかったのだが、横たわってみるとたちまち途轍もない眠気に襲われてしまった。
気が付くと、また文箱の前にあの女房が座っていた。こちらに背を向けているので顔は見えない。声を掛けたくても、声が出てくれない。昨晩と全く同じだ。
少将ははっとした。彼女が人ではなく霊魂ならば、声を出さずとも語れるのではないかと。
少将は心の中で語り掛けた。
そこで何をしているのだ、と。
女房は振り返った。般若のような顔になってでもいてくれたら、ああ、本当に人ではないのだと諦めもつこう。しかし女の顔は少将が幼い頃から見知った顔のままである――それが、おかしいのだった。そうだ。彼女は年を取っていない。
女の唇が動いた。
三の君さま。わたくしは――わたくしたちは、二の君さまにひどいことをしてしまいました。
女の姿は消えかけている。
少将は辛うじて彼女の唇の動きを読み取った。
「存えて 君恋う色が うつるなら 青き下葉の 露と消えたい」




