手蹟
差し込む朝の光で目が覚めた。火取り香炉の火はいつしか消えていたようだ。少将は慌てて香を焚きしめた薄様に歌を書きつけ、紅葉の折枝を添えて文使いに持たせる。後朝の文――と呼んでいいのかわからないが――はできるだけ早く贈るのが良いとされている。
渡殿で気を失い、歌作りに知恵を絞った上に変な姿勢で眠り続けたせいで、少将の頭は痛かった。
そう言えば夢うつつで女房の姿を見たような気がするが、あれも寝ぼけていただけだったのだろうか。確か、文箱のところにいたはずだ。
少将は文箱を開けてみた。
「な……これは」
見覚えのある紙が入っていた。あの悪い夢のような呪符であった。少将は躊躇いながらも触れ、取り出してみる。
「存えて 引き裂く風を 吹かすなら 青き下葉の 露と消えゆけ」
改めて読むとあの絶望感が蘇って来る。が、少将はふと、文箱の中に残った別の文に目を留めた。
「忘れじの 心は如何に 打ち寄せる 波をたよりに 舟は出だせず――あてにならない御心では、寄る辺ない私には頼りなく思えます」
二つを見比べると、明らかに手蹟は異なっている。呪符の方は誰かの代筆ということだろうか。
「清らかな渚には何がある」
これも手蹟が違う。よく見ると少し幼い感じがする字は、あの女の童のものだろうか。初めてのやり取りで代筆をさせるのはよくあることである。
「忘れじの」の歌は、巧いというよりも即興で少将の歌に応えたように感じられた。姫君の自筆であるとするならこの手蹟だろう。
では、呪符は姫君の仕業であるのを誤魔化すために、誰かが代筆したのだろうか。女の童以外の誰かが……。三種類の手蹟を前に、少将は考え込む。
「しかし、呪詛だぞ。本人が書かないと効果がないように思えるが……ならば呪詛は姫君の仕業ではない、のか?」
少将は呟いた。この期に及んで自分は、姫君に憎まれていないと思いたいのか。自分に呆れてしまう。けれども、姫君に話を聞かないままに、全てを終わらせてしまっていいのだろうか。本当にその選択を後悔しないのか。
少将は文の束を握りしめ、部屋を飛び出した。
邸の前まで車で来て、そう言えばここは築地の崩れ一つない邸だった、と思い出す。今まではいつも女の童が手引きをしてくれたが、主人が少将を憎んでいるとなれば、もう手引きは期待できない。少将は供の童に門番との交渉を頼んだ。こちらの若君とお話がしたい、という要求は意外にもあっさりと受け入れられ、少将はすぐに弟君の部屋に通された。
姫君に会いたい、では絶対に入れてもらえないだろうと判断して弟君と言ったものの、弟君とは呪詛の一件以来話ができていない。案の定、対面した弟君は、俯いたきり顔も上げない。
「……あの」
少将が声を出すと、弟君の肩が少し震えた。
「私は、呪詛の真相が知りたいんだ。君でも君の姉上でもない可能性があるとしたら――」
「えっ」
弟君が顔を上げる。
「姉上ではないのですか?」
「わからない。君も呪符の手蹟をよく検めてくれないか」
少将が懐から呪符を取り出して渡そうとすると、弟君は思い切り後ずさった。
「じゅ、呪符をそのように無造作に……呪われてしまいますよ!」
「怯える程のことはない。そもそもこれはただの歌だと私は思う」
確証はなかった。しかし今のところ懐に仕舞っていても具合が悪くなる様子はない。呪符らしく見せることで、詳細な検分を避けようとしているようにも思えてくる。
「……」
少将の言葉に納得したようには見えなかったが、弟君はそっと呪符に手を伸ばした。
「この手蹟は、大納言家のどなたかのものだろうか」




