蓼食う松虫の君
「んがっ」
雅を愛する平安貴族にあるまじき声を上げて、少将は後ろに倒れる。ぶつかった女君の方は、扇が弾き飛ばされてしまったらしく、袖で必死に顔を覆っているようだ。ようだ、としか言えないのは、正直暗すぎてよく見えないからである。
「す、すみません、大丈夫ですか――」
「大丈夫なわけないでしょおっ!」
もうっ、あたくしの顔に傷でも付けたら承知しないんだからねっ! と続けて、女君はぐいと肩をそびやかしてみせる――恐らく。
「ご、ごめんなさい」
「ほら、早く扇を取って来てよ」
「あ、はいっ!」
高圧的な女君の言葉に従って辺りを手で探ってみたが、何も触れない。困り果てた少将は、格子を跳ね上げて月の光を屋内に入れた。さやかな月明かりに照らされ、少将の姿がはっきりと浮かび上がる。
「あ、ありました!」
扇を拾い上げ、はい、と女君に手渡そうとすると、彼女は息を飲んで固まっていた。顔を隠すのも忘れ、腕をだらんと下げている。今や、女君の顔も月光の下に晒されていた。顔つきを見る限り、大納言家の姫君たちよりは幾分年上であろうか、もしかすると少将よりも落ち着いた年頃の姫なのかもしれない。その姫が、何とも言えない呆けた表情を浮かべているのだ。
「えっと、あの」
「――かわ、いい」
「は」
今、何と?
「案外……かわいらしい顔をされてるのねって」
さっきまでの居丈高な態度はどこへやら、頬をほんのりと染め、消え入りそうな声でとんでもないことを言う。
「かわ、かわい……え?」
そこでふと父右大臣の言葉に思い至る。
左大臣家の末の姫は、そなたに興味があるそうだぞ――。まさか、このひとが?
「あなたが、左大臣さまの末の姫君でいらっしゃる……?」
恐る恐る尋ねてみると、姫は
「え……ご存じなの?」
と目を丸くした。
「いやその、父からあなたのことをちらりと聞かされていたもので」
「お父上から? あなたは一体」
「申し遅れました。私は右大臣が三男、蔵人を兼ねる近衛少将にございます」
「――あなたが?」
左大臣の姫は一瞬呆気にとられたように口を開けたが、すぐにはにかんだ笑みを浮かべ顔を逸らした。
「そう……。あたくしの兄もあなたの御兄弟も素敵な方々よね……けれどあたくしは、ああいう華やかな方は少し苦手なの。強引だし、自分が魅力的であることをよく知っているもの。父上は地味で凡庸なあたくしを心配して、あなたのお父上にお話しになったの。そうしたら、うちにも凡庸なのがおりましてな、兄たちに比べれば華はないが、よく見れば素朴で愛らしい顔をしているのですよ、などと仰って」
あの狸親父。少将は頭を抱えたくなる。地味で凡庸と言うが、さっき
「大丈夫なわけないでしょおっ!」
と叫んだ激しさはなるほど三位の中将の妹であるし、何ならあなたもまあまあ強引ですよ、と言いたくなる。おまけに横顔の整い方も凡庸とは程遠い。
「でも、とんでもないことだわ」
向き直った姫の目は蕩けていた。
「あたくしには、あなたの御兄弟より、あなたの方が魅力的よ」
「……私が?」
「ええ」
近い。そう認識した時には、少将は意識を手放していた。




