狸親父
右大臣が向かったのは少将の部屋であった。部屋に着くなり、父はどかりと座り込み、脇息にもたれ掛かる。座る場所を奪われた少将は、自室であるのに隅の方で小さくなるしかなかった。
父は深く息を吐き出した後、少将の顔を見もせずに尋ねた。
「そなた、呪符をしげしげと見ていたが、何か気づいたのか?」
ぼそぼそと小声で発された問いを、いいえ、特には、と流すこともできた。しかし少将には、彼の問いかけには慎重に答えなければならないという意識が刷り込まれていた。この人の何気ないふうを装った策士ぶりは、身内ながら恐ろしいものがあるのだ。
「気づいたという程ではありませぬが……気になることがありまして」
「気になる? 何がだ」
少将は少し身を乗り出した。
「呪符というと、大体梵字が書いてあるものだと聞きますが、あれは……」
「歌、だったな」
やはり、父も気づいていたらしい。ややあって、右大臣は口を開いた。
「強い想いがあれば、梵字だろうが三十一文字だろうが、呪えるのではないか?」
「強い想い……」
そうだ。想いをよすがに、この世に留まり続けることだってできるのだから。
「けれどもあれは、本当に呪詛なのでしょうか」
「何?」
少将の言葉に、右大臣は眉を上げ、やっと少将と目を合わせた。少将はその視線をしっかりと受け止めて主張する。
「はっきりと覚えてはおりませんが、あの歌は、呪いというよりも、哀傷歌のように見えました。露がどうとか、そういう言葉が……」
「ではそなたは、呪符ではないと考えたが故に、恐れずに近づいたのか」
右大臣は少将の意見に是とも否とも言わずに、顎に手をやった。
父の言葉に妙な引っ掛かりを覚え、少将は眉を寄せる。父は、呪符であると考えて尚、恐れずに近づいたと思っていたのだろうか。それはつまり、私が――。
「父上は、ご存じだったのですね」
「何のことだ」
「私が、見鬼であると」
かわされるかもしれないと、思った。しかし父は事も無げに言う。
「ああ。それ故この部屋に参ったのだが?」
「は」
「ここはそなたのように力のある者が起居しているのだ、物の怪も寄り付かぬ。他の者の部屋より安全だ」
「ひ、人を魔除けみたいにっ」
思わず抗議するが、人を食ったような笑みで返される。
「まあ、そのようなものかな」
少将にしてみれば、父の方がよほど魔除けになるような気がするのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
そして父は不意に真剣な表情に戻り、少将に問いかけた。
「あの三人のうちの誰かが呪符を……呪符かどうかはわからぬが、あれを仕掛けた、と私は考えている」
「恨みを買っている心当たりが?」
「ありすぎてわからぬ」
真面目な顔でそう言われると、怖すぎるのですが、父上。
「は、はあ……兄上たちに恨まれるのは、百歩譲ってわからなくもないのですが、大納言殿のご子息とは、何の関わりもないのでは」
怪訝な表情を浮かべる少将に、父は問う。
「そなた、承香殿の御方が入内なされた経緯を知っておるか」
父の表情は明らかに曇っていた。




