きみをおもふ
少将は絶句する。
「このままじゃ姫さまは、お美しい盛りを無駄にしてしまう……姫さまの歌も、殿方の心を虜に出来る素晴らしいもののはずなのに、物の怪の餌になるだけなの」
「餌だって?」
少女は涙を零しながら、頷いた。
「あなたは、この歌を知っていて?」
「え?」
秋が来て 木の葉の色が 変わるけど――
「――思う言の葉 色は変わらず」
姫君は舌で転がすようにその歌を詠じた。それでなくとも古歌には、歌に共鳴した後の時代の者たちの想いも積み重ねられていくように思えるのに。ましてこの歌は、私の想いは色褪せぬ、と言い切っている。
何故そんなにも力強く言い切れるのだろう。
無責任な男の台詞だ、と思った。思っていた――例えば父のような男の、一時の熱情を切り取った歌だと。
その歌は古今の草子に採られた歌だが、詞書には提出された歌合の名だけがそっけなく記され、詠み人は不明とされている。
そう。
男の名を知る者は、この世に唯一人――
「常葉の――殿」
「……」
灯りにぼうっと浮かび上がったのは、いかにも洗練された貴公子の姿。切れ長の目が、涼しげというよりもむしろ不機嫌に見えるほどに鋭い。
貴公子は物問いたげな視線をよこしたが、姫君はそれに応える様子もなく、箏のことを引き寄せた。
姫君は、歌詠みの才に較べれば劣るとは言え、箏も冴え冴えとした調子で弾きこなす。今様の華やいだ弾きぶりではなく、愁いが垣間見える儚い爪音が、月に照らされた夜に満ちていく。
曲が終わっても爪音の余韻が、立ち込めた夜霧のように二人を包んでいた。
不意に貴公子――常葉殿が口を開く。
「君を懐うは秋夜に属し、散歩して涼天に詠ず」
心地良い低音が姫君の耳朶を打つ。
「……君、ですか」
姫君は嘆息した。
「それは私ではないのでしょうね」
「尋ねるまでもないだろう」
常葉殿は、にべもなく言い捨てる。
「尋ねてはいませんけど」
不貞腐れたように言い返すと、彼は物わかりの悪い少女を諭すように言った。
「ならば思わせぶりな曲を弾くものではない」
姫君が弾いたのは、想夫恋という曲だった。本来は相府蓮と書き、異国の蓮の曲であったのが、この国では夫を想う恋の曲という意味が加えられたのだった。
「こんなことで動くような御心ではないのに? 何せ、常葉殿ですものね」
「からかうな。私とてこうも縛られることになるなど、思いもしなかったのだ」
「望んでこうなったのではないと仰るのですか」
「……わからん」
「せめてあなただけは、望んでいてくださらなければ」
「甲斐がない、と?」
「貝など必要ないのです、私には」
姫君はつんと肩をそびやかす。
「……忘れ貝を贈られる男の気持ちは、そなたにはわからんだろうな」
「ええ、わかりませぬ」
「子供だな」
「そんな子供に寄り掛かって――いるのですよ」
思わず、寄り掛かって生きている、と言いそうになり、慌てた。本当に、このひとの何処が、生きた人間でないというのだろう。確かに作り物めいた容貌はしている。けれども、そうであるならば、このひとの唇から溢れ出る数多の言の葉は一体何だ。血の通わぬ幻であるはずのこのひとの歌は、姫君にとっては真実だった。
「仰る通りだ」
「それでも私には見向きもしない」
「いや」
そんなことはない、と常葉殿は首を振る。
「私はそなたに惚れ込んでいるさ」
「私ではなく、私の歌でございましょう」
「そなたの歌はそなたであろう?」
「詭弁ですね」
「……私は化け物だ。そなたを幸せにすることは――っ」
不意に、常葉殿の端正な顔が苦しそうに歪んだ。
心なしか輪郭も薄くなってきている気がする。
姫君は常葉殿に近づき、少しの躊躇いもなく抱きしめた。触れた、と実感できるほどの確かな感触はない。姫君は耳元で囁いた。
「私は幸せなど望んでいません」
その歌を詠んだ男は、失脚したといいます。だから歌合の記録にも名前が残らなかったの。けれども、歌に込めた想いだけが凝り固まって、物の怪になってしまったのです。私には姿が見えないけれど、きっと恐ろしい姿をしているに違いないわ。
「あなたには、私が必要なのです」
姫君は、なすすべなくもたれかかってくる男、否、人ならぬものを受け止める。
「ひ、めっ」
常葉殿は耐えかねたように声を上げた。
姫君がちろりと赤い舌を出す。
その物の怪は、歌を喰らうのです。
姫さまの、歌を喰らって存えているのよ。
「君を懐うは秋夜に属し、散歩して涼天に詠ず」
秋夜寄丘二十二員外 韋応物
懐君属秋夜 散歩詠涼天
山空松子落 幽人応未眠
古今和歌集 詠み人知らず
「思うてふ 言の葉のみや 秋をへて 色もかはらぬ ものにはあるらむ」




