我が身一つの
舞の後の酒は格別に美味い。
濡れ縁で月を仰ぎ見ながら杯を煽った時、心に過ったのは女のことであった。
「秋来たりて只一人の為に長し」
唐の詩を囁くような声で吟ずると、それに応えるように、ふわりと秋風が吹いた。思わず笑みが零れる。
と、彼の感傷を知ってか知らずか、誰かが近づいてくる衣擦れの音がした。ああ、この音は――
「兄上か?」
「……よくわかったな」
美男ともてはやされる貴公子は、気に食わないとでも言いたげな、むすりとした表情で現れた。
「あなたの足の運び方くらいわかりますよ。何年もお側で舞の相手をしてきたのだから」
「そうだな」
「今宵も、佳き舞でした。兄上も一杯どうです?」
「いや、遠慮する」
「ほう、珍しいこともあるものですね」
「五月蠅い」
兄が呑もうとしないのを尻目に、彼はまた酒杯を煽った。
「まるでお前だけの秋のような顔をする」
図々しい奴だ、と兄は続けた。
「いいえ」
「ふん」
兄は忌々しそうに彼の横顔を見つめる。愁いを含んだ、それでいてどこか満たされた表情が、気に入らなかった。
「時にお前、大納言の妹姫をどう思う」
「……」
彼は一瞬兄を凝視し、ふっと口許を緩めた。
「兄上。あなたはおやさしい方だ」
「は、何を言い出すかと思えば」
「諦めよとおっしゃったそうですね」
彼は静かな声で言ったが、それがかえって責められているように聞こえ、兄はさらに苛立った。
「……お前が、咎めるというのか? あのような……魔に魅入られた姫と縁を繋ぐことが、どれだけ辛いことか、お前ほどわかっている者もおらぬはずだ!」
「辛いだけではありませんでした」
ささやかな幸せを愛おしむように、弟は微笑んでみせる。その無欲さは、兄には眩しく、そして哀しかった。
「俺は、まだあの女を許してはおらんぞ。いや、許す日は来るまいな。死してなお、俺の弟にそのような顔をさせるのだから」
「はは、私は幸せ者だ。兄上にそこまで言っていただけるとは」
「はぐらかすな。このままでは、末弟がお前の二の舞になるのだぞ」
強い口調で畳み掛けるも、彼は笑みを浮かべたままで軽くいなしてしまう。
「そうでしょうか」
「何」
「あれは、私とは違う。とても素直な子です」
「それが何だと言うのだ。物の怪の類を前に、そんなものが何になる?」
「わかりませぬ。しかし兄上、あの子には闇は似合わない」
兄が黙っていると、彼はまた酒に手を伸ばしながら、くつくつと笑った。
「それに、姫君の方も。なぞなぞを送り付けてくる姫など、初めて見ましたよ。物の怪に屈するようなひとではないとみえる」
「それはわからんだろう。強い者は、同時に脆い」
「けれども私は、あの二人を信じてみたいのです」
「暢気なことを……」
「おや、こちらにおいででしたか」
陽気な声が割って入った。
「三位の中将ではないか」
「いらっしゃい」
兄は不快そうに、弟は朗らかに応じる。
三位の中将は、酒が入っているらしく、上機嫌で言った。
「毎度のことながら、息の合った舞ぶりでしたよ。見事なものです」
日頃から兄弟の「好敵手」と目されている公達は、本気で褒めているのか、ただの嫌味なのかはっきりしない顔でのたまった。
「何だ、気持ちの悪い」
「大きな声を出されていましたね。はっきりとは聞こえませんでしたが、秋萩の姫のお話をされていたのでは?」
秋萩の姫――右大臣家においては、誰が決めたわけでもないが、無闇に口にすることは避けている――その女性の名を聞いても、弟は顔色を変えない。むしろ兄の顔の方がはっきりと歪んだ。
「だったら、何だと言うのだ」
「図星ですか」
中将は薄笑いを浮かべる。
「お前、何のつもりだ!」
激昂する兄を一瞥し、中将はつまらなそうに言った。
「兄上は本当に、弟君思いでいらっしゃる」
当の弟は中将の台詞に煽られる様子もなく、泰然としている。
「本当に、惜しい方を亡くしましたね。秋萩の姫ほどの音曲の才人には、もはや出会えぬでしょうな」
「人の身に過ぎた才は、身を滅ぼすだけだ……もっともお前の笛やら歌やらでは、とてもその域には至るまい。案ずることはないだろうよ」
「ええ」
中将はやけに素直な返事をした。
「私など、とてもとても。私が案じているのは、彼の姫君のことですよ」
「お前……っ」
弟は兄の言葉を制して聞く。
「中将殿の想い人は、姉姫ではなかったのか?」
中将は噴き出した。
「姉姫と母御はその気のようですが……たやすく靡かぬものの方が、魅力的でしょう? もっともあなたもあの姫にしてやられたとか」
中将は言いながら、兄の方をちらと見る。
「なっ」
「あなたほどの御方がねえ……と言ってもあの姫は、当代一どころではおさまらぬ人です。きらびやかなものを振りかざしたところで振り向かぬでしょうなあ。しかし、歌のやり取りを重ねれば、姫の御心もほどけるのではないかな」
「大した自信だ」
小ばかにする兄の横で、弟は鷹揚に微笑みを浮かべた。
「確かに中将殿の歌は情熱的な魅力に溢れていて、そう……激流のようです。ですが」
あの姫君は、流されはするまい。
「ほう、わかった風なことをおっしゃる。それとも何ですか、お二人ともあの姫を? 今を時めく右大臣家の御兄弟が? 面白い。絶対に姫君を陥落させてみせましょう」
中将は鼻息荒く宣言すると、そそくさと立ち去った。早速姫君に文でも贈るのだろうか。
残された兄弟は、そっと顔を見合わせる。
「流されはしない、か。流れることができた方が、楽であろうな」
「ええ。どんな激流であろうと、あのように何かに縛り付けられた心を、動かすことはできないでしょう」
微風が二人の頬を撫でた。兄はため息をつく。あの女と心を通わせたことが、短くとも、弟にとって確かな幸せであった――そう頭ではわかっている。わかってはいるが、こうして月を見上げる弟を見ると、やり場のない感情がせり上がってくるのだ。憐れみなのか、哀しみなのか、切なさなのか、自分にもわからぬ想いを抱えながら、兄は月を見上げた。同じ場所にいるはずの弟は、どこか遠かった。
月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身一つの秋にはあらねど 大江千里




