9.
十二月。大晦日である。
「 ああもう。大晦日ぐらい仕事なんか忘れたいのに 」
松が明けたらじきにやってくる締切の仕事を抱え、小夜子は不機嫌だった。その小夜子に、弦也は呆れ顔で言葉を返す。
「 そう思うならもっと前々から計画的に書けばいいんですよ。今日進めておかないともう日がないでしょう。明日は母屋の方で一日過ごすことになるでしょうし 」
毎年の盆と正月、他にも弦也の家族の節目の行事などがあれば弦也は父母の家に帰っており、その際ほとんど小夜子も同席していた。親戚一同が本家である弦也の実家に集まるため、小夜子も義姉である弦也の母を手伝って一日台所と居間で立働くことになる。戦時中のため例年よりはかなり質素になり集まる人数も減るだろうが、それでも当然執筆などできはしない。
「 計画的にできたら苦労しないわよ。閃きと気分がなきゃ書けないの。あんたも作家志望ならわかるでしょう?で、今は仕事をする気分じゃないの 」
弦也と小夜子は、朝から二人で大掃除をしていた。しかし弦也は、明日は小夜子共々ほぼ一日自分の実家で拘束されることを考えると今日のうちに少しは書かせないと間に合わないと考え、小夜子にあとは自分がやるから大掃除は切り上げて執筆に戻るようにと言ったのだ。しかし小夜子は執筆も気が乗らないと言う。
「 でしたら僕と一緒に大掃除の続き、なさいます? 」
弦也が笑いながらそう言うと、小夜子は途端に顔をしかめて
「 冗談。これ以上肉体労働なんかやったら肩こりが洒落にならなくなるわ 」
と言ってそそくさと書斎に引き揚げていった。弦也はその背中を見送ってから
(さて、あとは二階だ)
と気合を入れなおす。小夜子と共に、一階の方は済ませたところだ。雑巾やはたき、バケツをまとめて二階に上がる。ほぼ物置のようになっている二階で、弦也は雑多な品々をあちらへ運びこちらへ重ねと動き、場所が空いたところを掃除して、戻すときには次回使う際に取り出しやすいよう配置も工夫して、と手際よく働き続けた。今後使うことは無いと思うものもどんどん引っ張り出し、小夜子に確認を取ってから捨ててしまおうと入り口のところにまとめる。二時間ほど経って作業を終える頃には、冬だというのにびっしょりと汗をかいていた。
( あとは先生に捨てるものを見てもらうだけだ )
すっかり片付いた周囲を見渡して、弦也は満足の吐息をつく。あとは書斎の様子を見て、小夜子が執筆を中断できそうなら呼んでこようと階段を降りようとしたときだった。
( なんだこれ )
まとめておいた捨てる物候補の側に、弦也の筆箱と同じくらいの大きさの紙箱を見つける。拾い上げると、その箱には「家庭用御灸一式」と書かれていた。
( まだ使えるのか? )
裏返して使用期限のようなものが書いてあるかどうかを探したが、特に見当たらない。ただし箱は多少埃を被ってはいるものの、それほど古いものというわけではなさそうだった。弦也は箱を開けて匂いも嗅いでみたが黴臭さもない。しばらく箱を見つめて何事かを思った後、弦也はそれを持って階段を降り、普段使う救急箱の側に置いた。
その日の夜、二人で年越し蕎麦を食べた後で弦也が後片付けを終えて自室へ引き揚げていると、小夜子が呼ぶ声が聞こえた。
「 どうなさったんです? 」
弦也が書斎に現れると、小夜子は
「 ちょっと背中を揉んでほしいの。もうだるくてだるくて 」
「 わかりました。では、失礼します 」
そう言うと弦也は寝そべる小夜子に指圧を始める。
「 もっと強く 」
始めてすぐに小夜子はそう要求した。
「 いつもより随分重症のようですね 」
揉む力を強めながら弦也がそう問うと、小夜子は満足そうに目を閉じたまま
「 慣れない重労働をしたからよ 」
などとすましている。
「 重労働って。大掃除はほとんど僕がやったようなものじゃないですか。先生もやはりお年を召され …… 」
そう言いかけると、小夜子は片目を開けて
「 あら、随分生意気な口を利くのね?明日が何の日か忘れたのかしら? 」
などとわかりきったことを尋ねてくる。てっきり睨まれると思った弦也は訝しがりながら
「 お正月でしょう?それが何か 」
と聞き返す。すると
「 私からのお年玉はいらないのかしら? 」
弦也は思わずぽかんとした。
「 下さるんですか? 」
「 あら失礼ね。人を吝嗇家みたいに。去年もあげたでしょう? 」
「 ええ。でももう僕も来年で十九になりますし、もういただけないかと 」
「 いらないなら無理にとは言わないわ 」
「 いえ、ぜひ頂戴いたしたく思います 」
「 ふふ、素直ね。ほら、揉む力が弱まってる。もっと強く 」
それから何度ももっと強く強くと要求され、弦也は三十分ほども指圧をさせられた。そろそろ音を上げそうになってきた頃、ようやく小夜子が
「 ありがとう、もう大丈夫 」
と言った。しかしその後ですぐ
「 次は肩をお願い 」
と言葉を続ける。そして寝そべっていた姿勢から身を起こし、今度は畳に座って弦也の指を待った。
「 先生。僕、もう指が限界なんですが 」
弦也が音をあげると、小夜子はここぞとばかりに
「 あら困ったわねえ。肩凝りを放っておくと頭痛になっちゃうのよね。御正月明けるまで按摩さんも呼べないし 」
と、言葉とは裏腹の楽しそうな顔で言う。弦也には、小夜子の言葉に含まれている意図が容易に察せられた。小夜子はすぐに頭痛を起す。酷くなると吐き気も併発するのか水しか飲めなくなる。そうなれば当然、原稿は書けなくなる。さあ、どうしてくれるのかしらというわけだ。
「 ……それなら、僕、大掃除のときにいいものを見つけたんです。少しお待ちいただけますか 」
そう言うと、二階の物置から見つけた 「 家庭用御灸一式 」を取って戻ってきた。
「 ちょっと、いいものってそのお灸のことなの? 」
弦也の手元を見て、小夜子が眉を顰める。
「 そうですよ。中途半端に揉むよりよほど効果があるかと思いますけど 」
「 お灸は嫌 」
「 どうしてです 」
「 どうしてもよ 」
そう言うと小夜子は弦也から顔を背ける。弦也はそんな小夜子の様子を見てから
( しょっちゅう肩が凝ったって言ってたのに、どうしてこれは未開封のまましまいこんでたんだろう )
と考える。そしてすぐにその答えを導き出した。
「 もしかして、お灸を買ったはいいもののいざやろうとしたら怖くなりました? 」
弦也がそう言うと、小夜子はキッと睨んでくる。
「 馬鹿なこと言わないで。自分でやるのが大変そうだから諦めただけよ 」
「 じゃあ今回は僕がして差し上げますから、問題ないですよね? 」
「 …… 熱くなったら、すぐやめてちょうだいよ 」
「 ちょっとは我慢しないと意味ないでしょう。さて …… 」
弦也は箱から説明書を取り出し、広げた。
「 よかった。ちゃんとツボも絵入りで説明してくれてますね 」
図を広げたとき、弦也は一瞬焦った。
( しまった、服…… )
服を脱がなければいけないような位置のツボだったらどうするのかと考えたのだった。事実、手元の図には症状に合わせ体のいたるところに点が打たれている。
( 肩凝り、肩凝りのツボは …… )
慌てて手元の図をよく覗き込んでから、弦也は小さく安堵の息を吐いた。膝や肘、それにうなじの上の髪の生え際といった無難な位置にも肩凝りのツボはあるようだった。安堵した後は、てきぱきと説明書を読みながら仕度を始める。
「 それじゃあ、仰向けになってください。あ、腕も掌を上に向けて体の横に投げ出してもらう感じで。あ、もんぺの裾とブラウスの袖、膝上肘上までまくってください 」
そう言われて、小夜子は少し緊張したような面持ちながらも言われたとおり畳に横になる。説明書をちょくちょくと覗き込みながら、弦也は小夜子の肌に据えた灸にマッチで火をつけた。
「 どうです? 」
「 意外と平気ね? …… あ、やだ急に温かく、ちょっと、や、熱くなってきたわ、あ、熱い!熱いわ、取って! 」
「 そうですか。ああでも、燃えきるまで我慢しないとだめみたいですよ? 」
熱に怯える小夜子を見下ろしながら、弦也はさらりと嘘をついた。説明書には 「 熱すぎると感じた場合には決して無理をなさらず、途中でも肌からどけてください 」と書かれている。
「 熱いわ、弦也、ちょっと痛い、痛い!熱いどころじゃないわ、痛い! 」
「 あ、動いちゃだめです。お灸が畳に落ちたら火事になっちゃいますよ 」
実際には畳が焦げる程度だろうが、それでも弦也は大袈裟な言葉で小夜子を抑える。
「 ちょ、大丈夫だから、もう、肩凝り大丈夫、だから、取って取って!お願い、弦也 」
そう言われてようやく、弦也は手で火を握り消すようにしながら灸を取り去った。
「 熱かったらやめてくれるって言ったじゃない 」
「 一言も言ってません。ある程度我慢しないと効果が出ないでしょう? 」
小夜子は目に薄く涙を浮かべ、弦也を睨みつけている。灸が据えられていたところは赤い点のようになっていた。
「 さ、次は別のツボに据えます。うつぶせになってください 」
「 いや 」
「 肩凝りが取れないと、執筆できないのでしょう? 」
小夜子は唇を噛んで一瞬目つきを険しくしたが、観念したようにうつぶせになった。
「 髪、上げてもらえますか。うなじの上の、生え際がツボらしいので 」
小夜子はおずおずとした手つきで髪を掻きあげた。弦也はそこに、先ほどよりは慣れた手つきで灸を据えた。最初はもぐさの作る小さな山のてっぺんに、蛍のように小さな火が灯る。その火が一瞬少しだけ大きくなると、最初は緑がかった灰色の山がすぐに焦げて上からじりじり黒くなる。その辺りで熱を感じるらしく、弦也が見守る中、小夜子はぎゅっと目を閉じて数秒は耐えていた。しかしすぐに
「 熱い、もうだめ! 」
と言う。それでも弦也は
「 あと少しだけ我慢してください 」
と言い放つ。小夜子の喉からは、声になりきらない息の呻きが漏れた。
「 もう、もう取って!書くわ、すぐ書くから! 」
その言葉を聞いて、弦也はやっともぐさを取り去った。そこには先ほどの足と腕のツボのときよりも赤みの強い痕が残った。
「お灸の痕、残るの嫌だわ。痕になっていない?」
その声は、痛みの余韻でかすかに震えをおびていた。
「 ちょっと赤くなってます。この位置なのでもし残っても目立ちはしないと思いますけどね。少し、冷やしましょうか 」
そう言うと、弦也は台所で手拭を濡らして絞ってきた。そうしてそれを小夜子のうなじにあてながら
( でも本当は、この痕が一生、先生の肌に残ればいいと思ってしまっている。これがずうっと残り続けると思えば、僕は何だかこの先怖いと思うことが随分無くなるような気がするんだ )
と考えていた。そんな弦也の想いをよそに、小夜子は必死になって手拭いを押し当てながら
「 こんなに我慢したんだから、これで肩凝りが治らなかったらこんな物を発明した人間を末代まで祟ってやりたいわ 」
とふてくされている。
「 またそんなこと言って。一回で全快するものでもないでしょう。こういうものは、定期的にやらないと 」
「 絶対に嫌 」
「 わかりました。次回はここまで熱くしない内に取りますから 」
弦也が笑いながら答える。小夜子はそれで納得したのかしていないのか、書き物机に向う。弦也は灸の道具や手拭などを片付け、茶を淹れに台所に向かった。
茶を淹れて書斎に入ると、ちょうど除夜の鐘が鳴り始めた。
「 そういえば、昨年は大変御世話になりました。今年もよろしくお願いいたします 」
弦也がそう言うと、小夜子は
「 そういえばって何よ、馬鹿 」
と笑いながら答えた。