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7.

 八月。その日、樹にしがみついて鳴いていた蝉も叩き落とすような勢いの夕立が降った。小夜子は書斎の前の縁側で、柱に寄りかかってぼんやりと空を眺めている。そこへ弦也がそっと麦茶を持ってきた。そのまま横に正座して小夜子の見ている方向を自分も見るが、目に映るのは天を覆う灰色の雲と降ってくる大粒の雨のしずくばかりだった。

 「 何を御覧になっているんです 」

 弦也が空を見上げたままそう問うと、小夜子もやはり空を見上げたまま

 「 虹を待っているのよ 」

 と答えた。

 「 虹? 」

 「 こういう夕立の後には虹が出るものでしょう 」

 「 それはまた随分気長な話ですね。まだ雨が止んでもいないのに 」

 「 雨が止む頃には虹を見ようとしてたことを忘れそうだから、今から待っているのよ 」

 「 そうでしたか。待つのは結構ですけど、夕立の後は急に涼しくなることもありますからそうなったらちゃんと何か羽織ってくださいね。僕は、夕食の仕度をしてきます 」

 「 いつもみたいに折檻しないの 」

 そう言われて、弦也は小夜子の方を振り向く。盆休みが入るために連載の締切が前倒しになるというのに、弦也の知る限り小夜子はここ三日ほど一行も書いていない。小夜子からかっているかのような顔つきで弦也を見ていた。いったん立ち上がった弦也は、もう一度小夜子の側に膝をついて向かい合う。

 「 折檻なんてひどいなあ。僕は先生の創作意欲が刺激されるよう御手伝いしているだけなんですけどね。それとも、まさかご希望なんですか?折檻を 」

 そう弦也に言われると、小夜子は心底馬鹿にしたような顔で

 「 馬鹿なこと言わないで 」

 と言うと、踵を返してすたすたと書斎に入り、書き物机の前に座った。弦也はそんな小夜子を見て

 ( 虹はいいのか? )

 と思ったが、特に何も言わずに障子のところに立ったまま書き物机に向っている小夜子の背中を数秒見つめた。それから

 「 それじゃあ、僕、ちょっと道具を探してきますね 」

 と言って立ち上がる。

 「 道具って、何の道具よ? 」

 小夜子がそう言って振り返ったときには、弦也はもう書斎から姿を消していた。

 逃げ出した小夜子を夏祭りの中で捕まえて以降、弦也は何度もその夜にあったことを思い出していた。一番繰り返し思い出したのは、捕まえて面を剥いだときの小夜子の顔だった。

 ( 悔しそうにするなりうろたえるなりしそうなものだったのに、妙に静かな顔をしていた。それどころか、少し笑ってたような気さえする )

 弦也は星川に、自分が小夜子の家に入る前にもこういうことがあったかを聞いてみた。星川は

 「 いやあ、満原先生に逃げられてしまったのは初めてだった。面目ない。でも弦也君が連れ戻してくれて助かったよ 」

 と笑っていた。それを聞いて弦也は、小夜子は本当は弦也に捕まえられるのを待っていたのではないかと考えたのだ。

 最初にそこに考えが至ったとき、弦也はそれがあまりにも自惚れた考えのような気になって自身に対してほとほと呆れもした。そんな期待を抱いて、それが誤りだったらあまりに負う傷が深い。あれから何度も沸いてくるそんな考えを、弦也は必死に消そうとした。しかし抜いても抜いても生える雑草のように、想いは何度も芽吹き、成長した。そして、過度な期待をしないようにという理性の花はとうとう雑草に生息地を奪われた。

 ( 小説を書くために、仕方なく僕にされることに耐えているのじゃなくて、それを望んでさえいる。そんなこと、本当だろうか。どうしても確かめたい )

 そう思っているときに、小夜子がまたもや仕事を放り出しそうな態度を見せる。それにぶつかった弦也の口からは、自身が考えるより先に挑発するような言葉が出ていた。そうしてその言葉に、小夜子は弦也が思っていた通りの態度で応えた。顔にこそ出さないものの、弦也はわくわくと体が震えそうになっていた。

 ( とは言え、浸っている場合じゃないぞ。為すべきことを為そう。先生が望むことを。先生の生む物語を輝かせるためのことを )

 弦也は自分の両頬をぴしゃっと叩いて気合を入れ、廊下を歩く。小夜子にああは言ったものの、何を道具として使うかを弦也はすでに決めていた。ただ、もしかするともっとふさわしい物があるかもしれないと念のため室内を見渡す。しかし、やはり決めていたものを使うことにして弦也は足早に自室へと向う。押入れを開け、目的の物を取り出す。それを手にすると、弦也は新調した武器を確かめる戦士のように具合を確かめた。握り方を変えて握ってみたり、軽く振ったりなどしてから廊下を歩き、書斎に戻る。

 「 失礼します。先生、お待たせいたしました 」

 小夜子は振り返り、弦也が手に持っているものを見て怪訝な顔をした。

 「 何よ、それ …… 」

 「 布団叩きです。先生にそんな願望があるとはちっとも存じ上げませんでしたが、弟子としてはなるべく先生の御希望に沿いたいと思いまして。御望みの折檻にふさわしい道具を探したのですけど、こんなものしかありませんでした。でも、先生にはこんなものぐらいでちょうどよろしいかと思います 」

 小夜子の表情が、訝しげなものから怯えに似た別の何かに色を変える。弦也はその様子をしばらく見ていたが、動けないのか動かないのか小夜子は逃げる素振りを見せなかった。腕を振り上げる。布団叩きが、ひゅっと音をたてて空を斬った。


 九月。

( それにしても、どうして血は乾いたとたんにこんなに汚くなるのだろう )

 弦也は畳に飛び散った小夜子の血を見て、そんなことを考えた。縁側の外には雲高い秋の空が広がり、美しい茜色をした赤とんぼが優雅に飛んでいる。

( 噴きだしたばかりの血なら、あの赤とんぼよりも綺麗な赤なのだけど )

 その日は昨夜降っていた雨が上がり、残暑が嘘のように落ち着いた爽やかな気持ちの良い日だった。暑くて寝苦しい夜が続いた後のさわやかな涼しさはとても眠気を誘うらしく、小夜子も執筆をしながら始終うとうととしていた。弦也はそんな小夜子に横からそっと

 「 先生 」

 と声をかける。小夜子が寝ぼけ眼で振り向いたところを、弦也は思いきり頬を張った。手を振りぬいた際に弦也の指先が小夜子の鼻をかすりでもしたのか、小夜子は鼻血を出した。それを見て、弦也は自分の袂に入れていた手拭を渡す。小夜子は黙ってそれを受け取り、自分の鼻を押さえると何事もなかったように再び万年筆を滑らせ始めた。

 その後しばらくして、弦也は茶を淹れてふたたび書斎にやってくると小夜子は書き物机に伏せっていた。弦也は小夜子がまた眠ってしまったのかと机に近づくと、既に仕上がった原稿が脇に退けられていた。頬を張られたことで緊張と集中を取り戻したのか、弦也が思っていたよりもずいぶん早く原稿が上がったらしかった。その顔をそっと覗き込むと、拭き残したらしい鼻血がまだ唇の横にこびり付いていた。弦也の目から見ると、乾いてこびりついた血は小夜子の珊瑚色の唇に比べていかにもどす黒く汚らしく見えた。周りを見回すと、机の側の畳にも少し血が飛んでしまっている。弦也は眠っている小夜子の背に、近くに置いてある肩掛けをそっと掛けてやった。それから雑巾を取ってきて畳を拭いていると、小夜子が目を覚ました。弦也と目が合っても何も言わずに、寝起きのとろんとした眼差しで弦也を見ている。弦也はそんな小夜子のほうを向き

 「 ふふ、汚いなあ先生。お口の横、鼻血が乾いてこびりついてます 」

 と笑いながら言う。汚いと言われた小夜子は顔を赤くして自分の指でそれを拭い取ろうとするが、思ったよりしっかりこびりついているのか取り残しがあった。弦也は幼い子供を見るような眼差しで小夜子を見た後、部屋を出る。そして、先ほど小夜子に貸した手拭を台所で洗って戻ってくると小夜子の口元を拭いてやる。そのときに、手拭を持っていないほうの手で弦也はそっと小夜子の顔を支えた。そして肉ではなく、皮膚だけでもう自分とは違う柔かさを感じた。小夜子は小夜子で、ついさっき頬を張られた同じ弦也の手に怯えることもなくされるがままになっていた。

 「 先生、原稿が終ったのならおやつになさいますか? 」

 血を拭い終わって弦也が尋ねると、小夜子はこくんと頷く。弦也は微笑みを浮かべ、台所に茶菓子を取りに行った。


 十月。その日の空はあまりにも遠くまで蒼く澄んでいて、弦也は雨戸を開けたとき

 ( ぼんやりしていたら、空の向こうに魂を吸い取られそうだ )

 などということを思った。庭や門の前の落ち葉を掃除し、朝食の仕度を終えて小夜子を起こしに行く。小夜子は珍しく寝起きが良い。弦也は布団から身を起こす小夜子に

 ( 天候が良いから寝起きも良いのか、昨夜ろくに仕事をせずに寝てしまったせいか、どちらでしょうかね )

 と心の中で問いかけるが、もちろん口に出しはしなかった。

 朝食を食べながら、弦也は小夜子に

 「 今日は、どんぐりでも拾いに行きませんか? 」

 と唐突に切り出した。

 「 どんぐり? 」

 「 ええ。実家のお手伝いのときさんが、どんぐりの食べ方を教えてくれたんです。芋ばかりでは飽きてしまうでしょうし、ちょっと趣を変えた献立をと思いまして。まあ、もう先にほとんど拾われているかもしれませんけどね、散歩がてらということでどうです?執筆の気晴らしにもなるかと存じますが 」

 弦也にそう言われて、小夜子はしばらくじっと弦也の瞳を見据える。それからその瞳に何かを読み取ったのか、機嫌良く

 「 たまには、いいわね」

 と言った。

 身支度を済ませ、弦也が先に立って歩く。街をぬけ、近所にある小さな山のふもとまで来る。弦也と他にも同じことを考える者がいるらしく、山に入ってもふもとに近いところにはまだ人気があった。それだけどんぐりもそこらにあるということなのだろうが、弦他はそこでは探そうともせずにどんどん山を登っていく。登れば登るほど人気はなくなり、小夜子はそこで少し弦也の様子を伺うが、弦也は少しも歩を緩めずにどんどんと登っていった。

 やがて、もうほとんど頂上近くまで来るころにはあたりには二人以外の人の姿がなくなっていた。すると、弦也が急に足を止める。小夜子もそれに反応してびくり、と止まる。

 「 休憩も取らずに歩かせてしまってすみません。ここらで探そうと思いますが、その前にお水を飲んでください 」

 弦也はそう言うと小夜子に水筒を差し出した。小夜子は何かを探るように弦也を見るが、弦也は黙って水筒を差し出しているだけである。ひとまず水筒を受け取り、水を飲んだ。

 その後、二人は範囲を手分けしてどんぐりを探し始めた。小夜子はあてずっぽうに探し回るだけだったが、弦也はどんぐりのありそうな場所がわかるのかてきぱきと動いていた。二時間ほど経ったころには、弦也はどんぶり三杯分ほども拾って、用意した小籠をたっぷりと満たした。しかし小夜子はその片手に収まる程度しか拾えていなかった。

 「 あらすごい収穫。満原家本家のお坊ちゃまとは思えない働きぶりだわ。そのへんの農家の子みたいね? 」

 拾ってきたどんぐりから、傷みが酷そうなものをしゃがんで取り除けている弦也を見下ろして小夜子が言った。

 「 ひどいなあ。先生に少しでも気分良くご執筆いただくために一生懸命なだけですよ 」

 「 それは殊勝な心掛けね。もう作家になるより一生私の下働きをしている方が向いているんじゃないかしら 」

 「 そうかもしれませんね 」

 弦也にさらりとそう言われ、小夜子の表情が苦々しげなものに変わった。しかしそれ以上何も言い返すことができず、機嫌が悪そうに自分の拾ったどんぐりを弦也に押し付けた。弦也は何も言わずにそれを受け取り、自分の拾ってきたものと同じように傷みの酷いものがあるかを点検し、取り分ける。それが済むと、青菜などを刻み込んだ麦飯の握り飯と漬物という簡単な弁当で小夜子と共に昼食を済ませ

「 さあ、少し食休みをしたらもう山を降りましょう。十分拾えましたからね 」

 と言うと、軽い足取りで山を降りていった。

 夕食時。小夜子は食卓にどんぐりが載っていないのを見て言った。

「 あら、どんぐりは? 」

「 あれ、食べられるようになるまで時間かかるんですよ。煮た後に水でさらして粉にして、団子にして、というところまでやってやっと食べれるんですから 」

 時間がかかると聞いた小夜子は、それきり興味を無くした様子で黙々と夕食を平らげた。

 食後、弦也は書斎にこもった小夜子に呼ばれる。

「 山道を歩いて疲れたの。肩を揉んでちょうだい」

 弦也は言われるままに揉む。十分ばかり揉むと、小夜子は満足そうにため息をついて

「 …… ありがと。もういいわ。でも今日はやっぱり疲れたわね。執筆は明日にして、もう寝ようかしら 」

 とのたまった。

「 そうでしたか。では僕も今日はこれで休ませていただきますね 」

 弦也がこともなげにそう言うと小夜子は目を丸くして弦也の顔を見る。

「 どうかなさいましたか? 」

「 …… 何でもないわ 」

「 何か僕にお話があるようにお見受けしますが。ご用があれば何でもお申し付けください 」

 弦也が顔に何の表情も浮かべずにそう言うと、小夜子は苛々として

「 何もないわ! 」

 と怒鳴るように言った。

「 そうですよね。先生は僕が追い詰めてさしあげたり折檻をされたりしないと書けないなんてことはないですよね。今日はもう休まれて明日、集中して書かれるんですよね。失礼いたしました 」

「 もう寝るんだから、早く出て行って! 」

「 ええ、失礼させていただきます。先生、おやすみなさい 」

 そう言うと、弦也はさっさと自室に退いた。

 しかし弦也は結局その夜、数十分おきに呼ばれた。茶の要求だったり、小腹が空いたと言ってみたり、肩が凝っただの足が痛いだのと要求は様々だったが、弦也は全て何も言わずに答えた。一度は

「 書き始めてはみたけど気が乗らないわ。今度こそもうやめにしようかしら 」

 とも言った。結局寝ないで書くことにしたのか、と弦也は内心思ったが特に反論せずに

「 それもよろしいんじゃないですか 」

 と返す。しかし、結局小夜子は眠ろうとしない。そして、弦也の働きで要求が満たされたはずの小夜子は弦也が応えれば応えるほどどこか苛々とした様子になっていく。原稿も弦也が見る限りではほとんど進んでいない様子だった。そこで弦也は、日中拾ったどんぐりを持って来て書斎に入った。

「 どうしてここでやるのよ 」

 それを見た小夜子が、顔をしかめて弦也に言う。

「先生、お休みになると仰っていたのに結局戦っていらっしゃるようなので」

「だから何よ」

「御用ができたときにいつでもお役に立てるように、ここにいた方が早いかと」

「別に用はないわ。あんたこそ寝るんじゃなかったの」

「原稿を仕上げたらきっとお疲れになるだろう先生に、一日も早くどんぐりを召し上がって頂きたくなっただけですよ。だから、先生の執筆が終わるまではずっとこうしてお傍で殻剥きでもしています。さあ、僕のことはいいですからどうぞお仕事にお戻りになってください」

弦也はそう言うと、さっさと自分の作業を始める。小夜子はその弦也をしばらく見ていた。どんぐりの数は百粒以上もあるだろう。それを一粒一粒剥いていたら、一晩かかっても終らない。小夜子は弦也がもう朝までここに居る気なのだと見て取ると、どこか安堵の混ざったような諦めのため息をつき、執筆を始めた。

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