6.
弦也が 「 鍵 」 を再び使う機会は、本人が思っていたよりも早く訪れた。前作の「 銀鱗吹雪 」 の人気がすさまじかったために、満天社で出している文芸誌に続編の連載をしてほしいと頼まれたことがきっかけだった。七月号からの掲載と言われたが、それは本来であれば雑誌で新連載が始まるような時期ではないにも関わらずやってきた異例の依頼だった。
六月。
その日は朝から雨が降っていた。入梅を予感させる儚げな、それでもしっかりと連なる蜘蛛の糸のような雨だった。小夜子はその景色を縁側の柱にもたれて、ただずっと眺めていた。弦也はここ二日ほど、小夜子の万年筆が滑るさらさらという音を聞いていない。午後三時過ぎに茶を持っていったときも、小夜子は書き物机のところではなく縁側に座っていた。
「 捗らないようですね 」
茶を置きながら弦也が声を掛けると、小夜子は鬱陶しそうにそっぽを向いた。
「 締切、明後日ですよね。単行本ならまだしも、連載は締切は延ばせませんよ 」
弦也がそう続けても、小夜子はますますぷいっと顔を背けるだけだった。
「 …… 先生、気分転換に散歩でもご一緒しませんか? 」
「 こんな雨の日に何言ってるのよ 」
「 雨の日だからこそです。さあ、行きましょう 」
弦也がそう言ってさっと立ち上がってしまうと、小夜子もしぶしぶといった雰囲気で立ち上がる。二人はそれぞれに傘を差し、そっと家を出た。
外に出ると弦也は小夜子を置いてきぼりにしないぎりぎりの速度で歩き始めた。小夜子は何か問いたげではあったが、ついていくのに必死で何も言葉を発することができない。弦也も時々小夜子がついてこられているかを目で確認するだけで、一言も話さずにずんずんと歩いた。
雨の中を十五分ほど歩いて、近所の川までやってきた。その川は、東京近郊の川にしては水が清い。晴れていれば魚を釣る人もいて、夏は子供たちが泳ぐこともある穏やかな川だった。しかしその日のように冷たい雨の降る、街灯があるとはいえもう薄暗くなるような時間帯に川原を散歩するような人間は誰もいない。弦也は辺りを見回して人気を確認し、土手の上の道と川原を繋ぐ階段を降りる。そして川面を見渡してから
「 濁っているか心配だったけど、よかった、綺麗で。これならいける 」
と微笑んだ。
「 え? 」
訳がわからずに弦也の顔を見る小夜子の手首を、弦也はおもむろに掴んだ。そしてそのまま小夜子を引きずるようにじゃぶじゃぶと川へ足を踏み入れた。
「 ちょっと、何をするの。放しなさい、弦也、やめて! 」
小夜子はそれ以上行くまいとして足を踏ん張るが、弦也は構わずにどんどん小夜子を引きずっていく。終いには小夜子は掴まれていない方の手で必死に弦也の背中を打ったが、全く意味をなさなかった。弦也は少しも速度を緩めずに小夜子を引きずり続け、川幅の真ん中まで来るとようやく足を止めた。深さは二人の腰ぐらいまである。
「 先生、今から先生には水の中に沈んでいただきます。だけど、目をつぶっちゃあいけませんよ 」
弦也はそう言うとおもむろに小夜子の着物の襟を掴み、そのまま小夜子の体をざぶん、と水の中に引き倒した。
いきなり水中に押し込まれた小夜子は危うくパニックに陥りそうになった。だが水中でパニックをおこせば水を大量に飲むことになる。すんでのところでどうにか心を落ち着かせる。しかし、目をつぶるなと言われても恐怖心から目をつぶってしまっていた。すると、うつ伏せのように顔面から水中に倒された体がゆっくりと仰向けにされるのを感じ、次にそっと頬に触れる手を感じた。おずおずと目を開けると、銀色の泡が昇っていく水面の向こうに弦也の顔が見えた。小夜子は落ち着きを取り戻し、吐く息を止める。泡が静まると、水中から見上げる水面に雨の滴が波紋を作るのが見えた。川の両岸に設置されている街灯が、微かな光をちらちらきらきらさせているのが見えた。雨の滴が作る波紋が水面の上にある、水の中の小夜子を見つめる弦也の顔をぼんやりと歪ませる。小夜子はその夢の中のような光景にしばらく見入った後、すうっと目を閉じた。
「 …… 先生? 」
完全に瞼を閉じた瞬間、小夜子の体は水から引き揚げられた。しかし、引き揚げられても小夜子は目を開けない。
「 先生 」
小夜子が気絶でもしたものと思ったのか、弦也がやや狼狽した声を出す。
「 …… うるさいわね。人が綺麗な景色を目に焼き付けているときに 」
小夜子がさもうるさそうにそう言うと、弦也はほっとしたように笑った。
「 それならさっさと焼き付けてください。焼き付けたら気分転換はお終い。帰りますよ。締切は明後日なんですからね 」
「 無粋なこと言うんだから 」
小夜子はそう言うと、自身の足でしっかりと立ち上がる。弦也は今度は穏やかな足取りで、小夜子の手を引いて川岸へと歩いていった。
その雨の日の散歩以降、弦也は事あるごとにその持てる力を行使した。いつも同じやり方ではなく、状況に応じ色々に変化をつけたが、それらはまるで熟練した薬剤師が調合した薬剤のように、毎回確実に小夜子に効果を及ぼした。
七月。もうすぐ学校の夏休みが始まるという日のこと。弦也が帰宅してくると星川が途方に暮れた顔で玄関に立っていた。
「 やあ、弦也君おかえり。あの、満原先生はいつお戻りかわかるかい? 」
「 えっ、中におりませんか?外出の予定は聞いていないですが……とにかく、どうぞ 」
そう言って弦也は鍵を開け、ひとまず星川を客間に通す。玄関は日陰になっているとはいえその日はかなり暑く、星川は汗だくになっていた。弦也はそんな星川に取り急ぎ水を出してから、小夜子を探して家中を見て回った。しかし、小夜子の姿はどこにも無い。弦也は仕方なく客間に戻り
「 やはり家にはいないようです。あの、締切ってたしか今日ですよね? 」
「 ああ、そうなんだよ。そうなんだけど …… 」
数秒、二人は無言で視線を交わす。それから弦也は星川に
「 ちょっとお待ちいただけますか 」
と言い残し、再び書斎へと向う。机の上には今日渡すはずの原稿が戻っていたが、やはり未完だった。弦也はその未完の原稿を持って客間に戻る。そしてその原稿を星川に渡した。星川はぱらぱらとその原稿を見て
「 先生、煮詰まられたのかな。あと七枚ぐらいなんだけど …… 」
そう言って顔を青くした。弦也にも星川の考えていることは察せられた。どうしても書けずに、締切当日に行方をくらませる作家がいることは弦也も知っている。小夜子は、今までは締切に遅れたりすることはあったが逃げたことはなかった。しかし、今まではなかったというだけのことだ。
「 あの、ご迷惑おかけして申し訳ございません。僕、急いで先生を探して連れ戻してきます。原稿もすぐに書いてもらって、出来上がったら僕が会社にお届けします。星川さんは他の御仕事もおありでしょうから、ひとまず会社にお戻りになっていてください 」
「 先生がどこに行かれたのか、心当たりがあるのかい? 」
「 …… ええ、なんとなくですが」
「 そうかい。それなら、申し訳ないけど頼むよ。僕は今日会社に泊まるから、遅くなっても大丈夫だから 」
「 はい、こちらこそ、本当に申し訳ございません …… 」
弦也は頭を下げたまま、汗を拭き拭きかえっていく星川を見送った。
星川が去った後、弦也は小夜子の書斎に入り一人思案する。星川にはああ言ったものの、実のところ弦也には小夜子がどこに行ってしまったかまではわからなかった。ただ、多分それほど遠くには行っていないだろうとだけ思っていた。
「 世話の焼ける 」
弦也は一人そうぼやくと水筒に水を詰めて自転車を出し、外へと漕ぎ出していった。
街へ出ると、弦也は喫茶店や本屋などを片端から覗いた。暑さが嫌いな小夜子のこと、いるとすれば涼めるところだと思ってのことだった。しかしどこにも小夜子の姿はない。あちらこちらへ自転車を走らせるうち時が経ち、空は夕焼け空へと変わっていった。弦也はもしかすると家に戻っているかもしれないと、一度帰ってみることにした。
途中、風に乗って太鼓と笛の音が聞こえた。自転車を漕ぐにつれ、賑わう人々の声なども耳に届く。
( そういえば今日は夏祭りか )
家から歩いて十分ほどの神社で開かれる夏祭りに、幼い頃の弦也は兄や姉に連れられて行っていた。しかし、もう目上の人間に連れられていくような年齢でなくなってからは行っていない。祭りの雰囲気自体は好きだったが一緒に行くような友人がいなかったし、一人で行くような気にもなれなかった。しかしそのときは、自転車を神社の前に止め吸い寄せられるように境内への石段を上って行った。
石段の脇にもいくつか夜店が出ている。物資が少ないなりに工夫しているのだろう、甘い匂いや香ばしい匂いが漂う。その匂いの中を、時折浴衣姿の老若男女にぶつかりながらふらふらと歩いた。途中、食べ物の匂いとは違う、甘いながらもどこか涼やかな香りとすれ違った。振り向くと、白地に紫や藍色の朝顔の描かれた浴衣の女が弦也と反対に神社の出口へと歩いて行こうとしている。狐の面を完全に顔に被せているその姿が、弦也には周囲の人間からくっきりと浮き上がって見えた。弦也は踵を返し、早足でその女の所へ行くと躊躇無くその手を掴んだ。
「 お面を付けていればわからないとでも思ったんですか。甘く見ないでください 」
そう言うと、女が着けている面を女の頭の上にずらした。面の下からは、小夜子の顔が現れた。しかし、そのときの小夜子の表情を弦也は少し意外な気持ちで見た。見つけられて不機嫌をあらわにしてくるかと思いきや、静かな面持ちで弦也を見ている。口元は少し笑ってさえいるようだった。弦也はその表情の意味を追求したい気にもなったが、しかし今はその時間はない。一刻も早く連れ帰って原稿を書かせ、星川に届けなくてはならない。弦也はひとまず
「 学校から帰ったとき、玄関でお待ちになっていた星川さんとお会いしました。ひとまず会社にお戻りになって原稿を待っていただくようお伝えしてあります。さあ、帰りますよ 」
と言ってそのまま手を引いて石段を降りる。降りきって止めてあった自転車のところに着くと、弦也は一瞬ためらってから握っていた小夜子の手を放し、自転車に鍵を差した。手を放したら逃げてしまうかもしれないと思ったからだったが、逃げ切れるはずがないと諦めているのか大人しくそこに立っている。弦也は自転車にまたがり、それからやはり少しためらいながらも意を決して
「 どうぞ 」
と小夜子に自転車の荷台に乗るよう促す。小夜子は促されるまま素直に荷台に座った。
( 自転車に二人乗りなんて、ちゃらついたアベックみたいじゃないか )
背に小夜子の体温を感じながら、弦也は知り合いに見られはしないかと気が気でならない。しかし少なくとも午後からずっと外を歩き回っていたのだろう小夜子に、たかが十分の距離とはいえそれ以上歩かせる気にならなかった。
家に着くと弦也はまっすぐ小夜子を書斎に連れて行く。それから一旦台所へ行き、右手にはぬるめの茶を乗せた盆、左手には物置から取ってきたロープを持って書斎に戻ってきた。小夜子は書き物机ではなくて手前の卓袱台の前にぼんやりと座っていたが、弦也はその小夜子を引っ張って立たせ、書き物机の前の椅子に座らせる。そして座った小夜子の体に躊躇無くロープを掛け、胸から下、両足までをぐるぐると椅子に縛り付けた。縛り終えたとき、小夜子は
「 …… 痛い 」
と一言漏らしたが、弦也は
「 痛く縛ったんですから当たり前です。また逃げられては沢山の方にご迷惑をおかけしてしまいますからね。痛いのがお嫌ならさっさと書いてください。早く書かないとどんどん痛くなりますよ。書き終わったら解いてさしあげます。七枚ぐらい、本気を出せばすぐでしょう? 」
と答えた。弦也は小夜子の手の届くところに茶を置いてやり、自分は部屋から読みかけの本を持ってくると書き物机の後の卓袱台の側に座り、本を読み始めた。小夜子は首だけでその弦也の姿をちらりと確認すると、万年筆を握って書き始めた。
その後、小夜子は残りの分をわずか二時間ほどで書き上げた。連載の一回分なのでそれほどの量はない。弦也はその場で手早く目を通し、枚数と目立つ誤字がないかだけ確認すると
「 お疲れ様でした。僕はこれから満天社さんまで行って原稿を届けてきます 」
と言って小夜子を縛っていたロープを解き、原稿を風呂敷で包んで自転車で夜道を漕ぎ始めた。
満天社は自転車で普通に走ると三十分ほどの所にある。弦也はその距離を全力で漕いで、二十分程で到着した。会社に残っていたのは星川と他に二、三人のみだった。息を切らしながら原稿を差し出す弦也に、星川は少し休んでいったらどうかと声をかけた。しかし弦也はそれを丁寧に断って、一杯の水だけを飲ませてもらって満天社を出た。
帰りはゆるゆると自転車を漕ぐ。途中、以前小夜子を沈めた川のそばまでやってきた。当時少しずつうるさく言われるようになり始めた灯火管制のために、自転車のライトを消してしまえば辺りにほとんど灯りはない。その代わり星がよく見え、地上の川を反転させたかのようにみごとな天の川が夜空に見えていた。弦也はふとペダルを漕ぐ足を止め、その天の川を見上げる。
( どうか来年も、ここでこんな風に天の川が見られますように )
もし今流れ星を見つけたら、きっとそう願うだろうと弦也は考えた。戦争がいつ終るのか、唯の学生、それも同い年の少年と比べてかなり浮世離れした生活をしている弦也にはまったく想像がつかなかった。今はまだ戦場に行かなくて済む年齢だが、このまま二、三年先もまだ戦争が続くようならいずれは出征しなければならない。
( 戦争なんか、早く終っちまえ )
勝って終れれば一番良いのは言うまでもない。負けて終ったときどうなるかということなど弦也には予想はつかないが、少なくとも兵士として戦場に行くよりは生き残れる可能性が高い気がしていた。
弦也は星空を見上げながら
( やはり、僕も自分の作品をちゃんと書こう )
と突然思った。自分が小夜子ほどの作家になれるとは到底思っていない。けれど、いつか自分は大人になる。これから先も小夜子の弟子でいるにしても、いつまでも親から仕送りをもらい続ける身でいられるわけではない。小夜子に遠く及ばなかったとしても、少しでも自分で稼ぎつつ小夜子の弟子でありたいと、そう考えた。
そのとき、一陣の風が弦也の頬を撫でた。川面を渡るその風は、七月の夜にひんやりと心地よかった。
( 帰ろう )
小夜子が待っている。帰って、自分も今夜は執筆をしよう。弦也はそう思いながら、再び自転車を漕ぎ始めた。