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5.

「 いやあ。どの先生でもね、一作はすごいのをどかーんと打ち出してきて、それが世間にすごい評価を受けることってのはあるんですよ。でも満原先生は前作の 『 銀鱗吹雪 』 以降、その他の連載の原稿も他のちょっとしたコラムなんかもみんな一段と素晴らしくなった。弦也君、いったい先生に何があったんだい? 」

その日、仕事の依頼に来た星川が客間に通されながら弦也にそんなことを言った。五月も間近になり相変わらず始終汗を拭いている。

「 何ですかね、僕もよくわからないですけど。でも僕としては星川さんにご迷惑をおかけすることが減ったので安心しています 」

弦也が穏やかにそう答えると、星川は快活に笑った。しかし 「 僕もよくわからない 」と言った弦也は、本当はそのとき既にその答えをしっかりとわかっていた。

( 星川さん、きっとこの役目は、本当はあんたがしなくちゃいけないことだよ。でも僕にしかできない。それに、これは先生と僕だけのとっておきの秘密だから、何があったかも教えてもあげられないよ )

弦也が星川の横で沸きあがりそうになる笑いを必死に抑えていると、やがて小夜子が余所行きの笑顔で現れた。

「 あら、何だか二人で楽しそうだこと。何のお話をされているのかしら 」

「 いやあ、先生の筆が近頃あんまり冴えていらっしゃるので何か秘訣でも見つけられたのかと思って。後学のために弦也君に探りを入れていたところなんですよ 」

そう言うと星川はまた、大きな声で笑った。弦也は横目でそっと小夜子の顔を見る。しかし小夜子の余所行きの笑顔は少しも崩れていなかった。

「 ああそうだ、実はこれ、実家から送られてきまして。男一人じゃ果物なんかそんなに食べられないのに、どっさり来ちゃったんですよ。お口に合えばいいんですけど …… 」

そう言うと、おずおずと紙袋を差し出す。中には艶々と宝石のように輝く、いかにも瑞々しそうなさくらんぼがどっさりと入っていた。

「 まあ、よろしいんですの?こんなに沢山いただいて。このご時世、果物だって貴重でしょう 」

弦也も思わず目を丸くした。当時はまだ太平洋戦争が始まったばかりであったためか、戦時中とはいっても国内の雰囲気は比較的のんびりはしていたし、ましてや淳一郎や小夜子はかなり裕福な方の家庭だった。小夜子の担当をしている星川とて、山梨でかなり広く土地を所有し、多くの小作人も抱えている豪農の家の次男ということだったが、それでも貴重には違いない。

「 いえいえそんな、実家で作っているものですし、満原先生には本当にお世話になっているんですから 」

その頃、星川は小夜子に差し入れを持ってくる頻度が急激に上がっていた。世間での小夜子の評価が上がり社内での星川の評価が上がったことも関係していただろうが、それ以上に他社に小夜子の原稿を取られまいと必死なのかもしれないと弦也は思った。

新聞の書評。次から次へとやってくる来客。そして、いくらでもその機会があったはずなのに小夜子が弦也にされたことについて、小夜子が何も対処してこないこと。当初こそ弦也は困惑していた。小夜子はいつ自分のことを誰かに訴え出るだろう、自分はいつ追い出されるのだろう、警察から迎えが来るだろう。毎日怯えていた。しかし、小夜子はいっこうに弦也のしたことを咎めてくる様子はなかった。また、弦也は来客がある度に小夜子が呼んだ助けかと思い身構えもした。しかしその来客も、小夜子の小説を褒め称え仕事の依頼をするか、弟子にでもなりにくるかのいずれかで弦也のことは誰も何も言わなかった。また、小夜子自身の弦也に対する態度がこれまで一切変わらないことも弦也を戸惑わせた。普通の女ならば暴力を振るわれれば怯えたり媚びたりしてもよさそうなものを、小夜子はそんな様子は一切見せない。以前と変わらず弦也に我儘を言い、弦也をこき使って好き勝手に振る舞っていた。その頃には、かえって弦也の方が小夜子に媚を見せるようになっていた。

そのときも、弦也は実家の母にねだって分けてもらってきた甘夏を、小夜子のために切ってやろうとしているところだった。

( …… あ)

それは、甘夏の分厚い皮に包丁の刃を入れた瞬間に起きた。小夜子の才能が開花したこと。小夜子が外に助けを求めもせず、弦也を咎めもしないこと。ずっとわからずにいたその答えは、甘夏の爽やかな香気と共に突然弦也に降りてきた。

( 先生は、僕より先にそれに気がついていた。僕に首を絞められた直後に執筆して、そのときに自分の筆がそれまでと違うことに、気がついたんだ )

自分が首を締めた、そのことが、小夜子への刺激になっったのだ。ふと、それを悟った。それまで閉ざされていた扉を開けたのは小夜子自身だとしても、鍵を持っていたのは自分だった。だから小夜子は弦也を咎めもせず訴え出たりもしなかった。そして何より、自分が追い出されていないのは今後もそういう刺激を小夜子に与えることができると思われてのことだろうとまで考えが至った。そう悟ると、弦也はいても立ってもいられなくなった。新しい玩具を手に入れた少年のように、手元の甘夏も放り出して今すぐ小夜子の元に駆けていきたくなった。

( 僕が、この僕があの人に小説を書かせる力を持ったのだ。先生は、自分の才能の新しい扉を開けた。その鍵を持っていたのはこの僕だったのだ。なるほど半井なんかにできることではないぞ。ああけれど分別のないことをしてはいけない、この美しい鍵は、使い過ぎればきっと汚れてしまう )

弦也はその「 鍵」を抱き締めるかのように自分を抱き締め、ほうっと深く長い息を吐いた。そうして、沸いた衝動を逃がそうとするかのように勢いをつけ、甘夏を切った。

以降、弦也は二度と来客に怯えない。弦也を押しのけて弟子入り志願をしてくるような者にさえ、余裕を持って接することができた。小夜子の小説が突然輝きを放ち始めた理由を不思議がる星川に対しても、今はただ可笑しくてたまらなかった。


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