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4.

星川が原稿を手に会社へと帰った後、小夜子は弦也に巻かされた手ぬぐいを取ってそのまま床に落とすと、弦也には目もくれずにすたすたと家の奥へと歩き始めた。弦也も落とされた手拭を拾ってその後をついていくが、小夜子は自身の寝室まで来ると弦也の目の前でぴしゃり、と障子を閉めてしまった。そして中からはどさ、ばさ、というような音が聞こえ始め、やがてしん、と静まった。どうやら布団をしいて眠ったらしい。弦也はしばらく障子の前で逡巡する。だがやがて小夜子の寝息が聞こえ始め、弦也は仕方なくそっとその場を離れた。

自室に戻ると、弦也はぺたんと崩れるように畳に膝を落とした。小夜子のあれは、いったい何なのだろう、と考える。締切の日に担当者に原稿を渡した後、物も言わず眠り込むのはいつものことだ。だがあまりにいつもどおり過ぎて、昨夜自分がしたことは夢だったのではないかとさえ弦也は思った。しかし弦也の手の中には、小夜子に自分が巻かせた湿った手拭がしっかりと存在している。夢の中の出来事ではない、やっぱりあれは本当にあったことなのだと弦也は思い直す。

 ( それなら何故、先生は僕を咎めないのだろう? )

 詰ったり、あるいは怯え、逃げようとしたりしないのだろう。それとも、ああやって物も言わずに倒れるように寝てしまったのはそんなことをする気力もないぐらいに力を振り絞って原稿を書き上げた反動だということなのか、など弦也は悶々と悩み始めた。あまりにも、何も無さ過ぎる。眼差し、弦也との距離感、行動、弦也が見るかぎりではどれひとつ取っても変わったところが無かった。

 数秒、弦也の全てが停止する。呼吸、思考、感情、それらに対して起こるはずの肉体の反応その他生命活動。次に、それらは一気に復活した。肉体反応の爆発を受けた弦也は畳の上で涙や鼻水を垂らしながら体を丸め、震えた。小夜子の首を絞めた感触。そんなことをしておきながらいつの間にか小夜子の後で眠りこけていたこと。幼い頃、兄と家の中でふざけていて仏壇の線香立てをひっくり返して仏壇を灰だらけにしたことがあったが、そのとき以上に大それたことをしてしまったと感じた。けれど弦也にとって何より恐ろしかったのは、これから自分に訪れるであろう出来事だ。

 警察に連れて行かれるか?父に小夜子から訴えが行って、家に連れ戻されるか?首を絞められたとは言わないかもしれない。けれどもっと婉曲に暴行を受けたことは言うだろう。そんなことになれば間違いなく小夜子の元からは引き離される。弦也にとってはただそれだけが最悪のことだった。

( 嫌だ、嫌だ、僕をここに居させてくれ。昨日のことは、僕はあんまり先生の作品を愛し過ぎているからしたことなのだ、だって先生があんなことを言うから、ああ、僕は先生の傍にいたい )

 それだけの想いが痛覚のように弦也の中で暴れた。弦也は自身の服の襟、書き損じて放り投げた原稿用紙、体の下の畳などをそれが小夜子の着物の裾ででもあるかのように掴み縋り付く。それでも足りず泥沼を泳ごうとする弱った蛙のように畳を這い、書き物机の横の本棚に到達する。本棚には小夜子の著作が並んでいて、弦也は手の届く範囲にある数冊を狂ったように引きずり出した。本を開き頁をめくるが、めくる手が震えて紙を引き裂いてしまいそうになる。ついに弦也は音を立てて本を閉じ、それから口を開けて、本に齧りついた。

舌に、薄甘いような紙の味を感じる。どこか人の肌の味に似ているような気もして、しかし自分の肌の味ではないと思った。赤ん坊の頃に味わった母の胸が、こんな味だったろうかと思う。体の震えは納まらぬものの、ようやくまともな呼吸が再開される。弦也はいつしか、泣き疲れた子供のように微睡みへと堕ちていった。


 「 弦也 」


 耳元で呼ばれたような気がして、弦也は飛び起きた。だが辺りを見回しても誰の姿もない。夢だろうかと思って首を傾げると、もう一度呼ばれた。台所から呼んでいるらしい、小夜子の声だった。慌てて台所に飛んでいくと、体中から不機嫌を匂い立たせた小夜子が弦也を冷ややかに睨みつけていた。ああ、やっぱり昨夜のことを咎められる、追い出されるのだと弦也が身を竦ませる。小夜子は食卓に頬杖をついてこう言った。

 「 食事ができていないようだけど。私は昨晩徹夜したから今まで寝てたけど、あなたは昨日の夜も寝てたわよね?それなのにまた今まで眠りこけていたのかしら 」

 「 え …… 」

 「 お腹が空いたって言ってるの 」

 「 ごめんなさい、すぐに用意します 」

 弦也は訳が分からないながらも仕度を始める。徹夜明けの小夜子は、お腹が空いたと言って起きてきてもそれほどしっかりしたものを食べたがるわけではない。ひとまず冷や飯で梅茶漬けを作り、出した。小夜子が梅茶漬けを食べている間に甘めの卵焼きを作り、食後にはお茶と果物を出せばいいだろう、と弦也は考えた。

 ( それにしても、何故昨夜のことを何も言ってこないのだろう )

 弦也は仕度をしながらも背中に小夜子の視線を感じていた。しかし、今に何か言ってくるだろうと構えていても一向に小夜子は口を開かない。とうとう何も言われないまま、卵焼きが完成した。弦也はそれを恐る恐る小夜子の前に出す。

 「 美味しい 」

 ふ、と小夜子が微笑む。小夜子は甘いものが好きだった。締切が近いときなど、まともな食事は夜しか摂らない。朝から饅頭や果物とお茶だけを、何回も弦也に運ばせながら執筆することもあるくらいだった。甘い卵焼きを喜ぶ小夜子の笑顔は、弦也にはいつもどおり過ぎるぐらいいつもどおりに見えた。

 ( ああ、この人はわざとこんなことをしているんだ )

 弦也はふとそんなことを考えた。

 ( 僕の様子を観察して楽しんでいるんだ。あんまり悪趣味じゃないか )

 弦也は突然に猛烈に悔しくなってきて、涙さえ溢れそうになってきた。それを、食べ続ける小夜子に背を向けて無理にこらえる。わざと触れないでおいて、こちらがいつ咎められるかとびくびくする様子を楽しんでいるのだと、弦也は思いつめた。

 ( そうだとして、それは自分がされたことの復讐のつもりなんだろうか。それともただ楽しみでしているのだろうか )

 多分、両方だろう。そして後者の方が強いだろうと、弦也は思った。

 その昔、まだ弦也がまだ小夜子の家に入ったばかりの頃だ。その頃はまだ、小夜子を先生と呼ばなければいけないところを時々「 叔母さん 」と呼んでしまって、叱られたりもしていた。その日、小夜子のところに二十台後半ぐらいの年齢と思われる、洋装をすっきりと着こなした男の来客があった。顔立ちも洋風で、背もすらりと高く弦也は俳優か何かが訪ねてきたのかと思った。その男は手土産に有名な洋菓子店のクッキーを持参してきたので、小夜子は

 「 それならお茶よりもお紅茶の方がよろしいわね 」

 などと言い、弦也に持ってこさせようとした。今でこそ弦也は小夜子の身の回りの世話をそつなくこなせるようになっているが、当時は普通の茶を淹れることさえ加減をつかめておらず、ましてや自身で紅茶を淹れたことなど一度もない。実家では全て、下女か母、姉がしてくれていたことだった。弦也が台所でもたついていると、痺れを切らしたのか小夜子も台所にやってきた。

 「 淹れ方がわからないなら素直にそうおっしゃい。無駄にお客様を待たせて失礼でしょう 」

 と小夜子は仏頂面で自分で淹れはじめる。やがて作業が終ると、弦也と小夜子は二人で客間に戻った。そして小夜子は自分だけソファに腰を下ろすと、おもむろに弦也に

 「 弦也、この方は月本さんといってね、今度新しく私に弟子入りする方よ 」

 「 え、先生お弟子さんは取らないと仰ってたんじゃ 」

 「 そうよ、でもこの月本さんは特別。原稿を読ませてもらったことがあるんだけど、とっても才能があるわ。将来は私なんかより遥かに凄い作家になるかもしれない人。でもね、私も二人も面倒は見られないから、悪いんだけど弦也、他に先生を見つけて欲しいの。私も紹介できる人がいるか、探してみるから 」

 普通なら 「 そんなのあんまりです 」 だとか 「 困ります 」 とか 「 何でもしますからお傍に置いてください 」 などの言葉が出るところだろうが、そのとき、弦也はどんな言葉も発することができなかった。ただ目を見開いて小夜子の顔を見つめた。そんな弦也を見て、小夜子の横から月本が誠実そうな申し訳なさそうな顔で

 「 済まないね、弦也くん。でも僕はどうしても満原先生に弟子入りしたくて、今日まで必死で勉強してきたんだ 」

 と言い添える。その月本の声に我に返り、それでも何も言えず弦也はただ無理に頭だけ下げて、客間から逃げるように去った。それから数日、小夜子は月本についての話や、弦也の行く末についての話などは一切しなかった。ただ食事のときなど、時折弦也の顔をじいっと見ているばかりだった。そんなある日、弦也の部屋に小夜子がやってきた。その日は弦也は学校が休みだったので、小夜子と朝食を済ませた後は自室に篭っていた。そこへ小夜子が足音高く現れたのだ。弦也の部屋の障子を開けた小夜子は、開口一番

 「 あんた、何やってるの 」

 と言った。心なしかその声は震えている。そのとき、弦也は重ねた本に紐を掛けているところだった。他にもいくつかの紐を掛けられた本の束や、空き箱に畳んでしまわれた服の類が畳の上に置かれている。

 「 何をって、仕度です。いつになるかはわかりませんが、じきに僕はここを出なければいけないのでしょう? 」

 弦也が押し殺した声でそう答えると、小夜子は急に顔を袖で隠し、俯く。それから全身が震えだし、とうとう弾けるように笑い出した。

 「 ああ、もうだめ!ここ何日か、まさかと思って様子見てたけどやっぱりあんた本気にしてたのね 」

 「 え 」

 弦也がぽかんとするのをよそに、小夜子は今やその場にしゃがみこんで笑っていた。それから笑いすぎて出てきた目尻の涙をそっと拭うと

 「 あんなもん冗談に決まってるでしょ、馬鹿ねえ。弟子なんかめんどくさくって、どんなに才能があったところで家になんか置いてられないわよ。月本はね、梟出版の担当者よ。あれも役者よねえ、ちょっと話しただけであそこまで芝居するとは思わなかった。弦也、あんたもね、ここでずっとやっていく気なら各出版社の担当の顔と名前ぐらい覚えなさいよ 」

 「 …… それじゃあ、僕はここにいてもいいんですか 」

 「 ふん、あんたを追い出したりしたら兄さんから何言われるかわかりゃしないわ。そんなことより、この部屋本棚が足りないでしょう。小さいのだけど二階の物置部屋に使ってないのがあるから、あんた自分で運びなさいよ 」

 そう言うと小夜子は踵を返し、とっとと自分だけ二階に上がっていってしまった。その小夜子の後を追おうと立ち上がり、歩き始めるまでの数秒間で弦也の感情は三つの領域を飛び回った。一つは、安堵。弦也は五歳のとき、夏祭りに行って家族とはぐれたことがあった。宵闇に灯るけばけばしい灯り、どことなく淫猥そうな出し物、普段と違う姿の大人たち。不安で不安で泣き出して、近くにいた老人が家族を探すのを手伝ってくれてもう一度母の手を握れたときには一人で彷徨っていたときよりももっと泣き喚いた。十七歳になった今、そのときと同じように鼻がつんとして、涙がでそうになった。次には怒り。自分はこんなに真剣な気持ちで弟子入りしたというのにつまらない冗談で弄ぶなんて、あんまり酷いじゃないかという心。最後には歓喜。感情を激しく起伏させながらも、弦也は小夜子の言葉を一字一句聞き逃していなかった。 「 追い出したら兄さんになんて言われるかわかりゃしない 」、「 ここでずっとやっていく気なら 」という言葉。そして、弦也のこれからも増えるだろう蔵書のことを考えて、物置の本棚を小夜子が思い出していたこと。渋々なのかもしれないが、弦也が長期的に小夜子の元で過ごすであろうことを、小夜子が認めたということだと弦也は信じた。

( そうだ。あの人はそういう、人の心を弄ぶようなことをして何日だって楽しめる人なんだ )

 昔のことを思い出して、弦也はそう結論付けた。当時の小夜子の悪戯は弦也にとって最終的には嬉しい形で終ったものの、本気で追い出されると思っていた数日間は本当に恐ろしかった。小夜子にとっては、自分などからかうのに丁度いい玩具のようなものなのだろうと弦也は思った。首を絞められたそのときには多少怯えたかもしれないが、それだけだ。あのひとは、僕が何をしようがずっと僕に怯えるなんてことはありえない。今やすっかり元通りにつけあがって、こんな生殺しのようなことをして楽しんでいるんだ。そう思うと、弦也の中で突如小夜子への憎しみが湧いた。

 ( 今、自分がいなくなったとして。あんたなんか、まともに生きていけるのかよ?さしあたりお手伝いさんでも雇ったとして、けれどあんたの我儘を、癇癪を怯えもせず受け入れて各社からやってくる担当者の対応をこなし、何よりあんたの作品のことを理解し愛して心からその創作を応援するようなお手伝いさんがいったいこの国に何人いる? )

 事実、弦也が来る前には淳一郎が小夜子専属のお手伝いさんを付けてやっていたことはあった。しかしすぐに辞めていくか、あるいは小夜子の方から必要ないと言い出して長くは続かなかった。弦也が小夜子の家に入ったのもちょうどそれまでいたお手伝いさんが出て行ってしまった直後だった。

 ――― いっそ、もう一度絞めてやろうか ―――

 弦也はそんなことさえ思った。事実、昨晩自分が小夜子の部屋へ行かなければきっと小夜子は今でも客間で星川を待たせていただろう。多少無理やりな形だったとはいえ、脅されでもしなきゃあの人は本気で書きやしないんだ。その事実について、あの人は何も思わないのか。しかしどれだけ思いつめたところで、その場で弦也にできることは目の前の洗い物を片付けることだけだった。

 その日の夜のことだった。夕食が済み、小夜子は自室へ、弦也が食事の後片付けをしているときに玄関の戸を気ぜわしげに叩く音がした。

 「 満原先生、おいでですか、先生!満天社の星川です! 」

 弦也は自分の顔から血の気が引く、さあっという音を確かに自身で聞いた。

 ( とうとう来た!とうとう来た! )

 きっと小夜子は、今日の昼間に星川に渡した原稿の余白にでも助けを求めるメモか何かを忍ばせたのだろう、そうしてそれを見た星川がすわ一大事と助けに駆けつけたのだと弦也は考えた。そこらの小説では、よほど緊張したときでも心臓の音をドクンドクンという擬音で表しているが嘘っぱちだ、本当に恐ろしいとき、心臓は急に鉄くずか何かになってしまってそれを叩きつけているみたいにガンガンという音になるのだなどとも感じた。

 ( どうする、どうする )

 弦也は己への救いを求めてせわしなく頭を動かす。星川に会わぬよう裏口から逃げるか?しかし星川が警官でも連れてきてたら、裏口にも待ち伏せしているはずだ、それに逃げてからどうする、ここに戻れないのは結局のところ同じだ、でもそれは逃げてから考えることじゃないのか。星川が警官まで連れてきているとは限らない、とにかく裏口の方へ行って様子を見よう、今は自身の自由をとにかく確保しなくては。それだけのことを一瞬の内に考え、財布だけ握って自室から飛び出したそのときだった。

 「 弦也?何やってるの、早く出て星川さんをお通ししなさい。ったく、まさかこんな時間から原稿修正させる気かしら。あの原稿に直すところなんかないはずだってのに 」

 小夜子が自室から言っているらしき声が聞こえた。

 ( あれ? )

 どうやら小夜子は星川が原稿を修正させるために来たと思っているらしかった。小夜子が呼んだわけではないというなら、自分が小夜子にしたことも星川に知られてはいないということかと弦也は考えた。しかし、この叔母がとぼけている可能性だってなくはない。躊躇していると、小夜子がまたもや

 「 弦也?寝てるの? 」

 と言っている声が聞こえる。

( 迷っていると余計やっかいなことになる。いざとなれば星川さんを押しのけて逃走するしかない )

 そう考えると、弦也は引き出しの中の肥後の守を懐に忍ばせる。肥後の守は弦也が鉛筆削り用に使っている小さなものではあったが、こんなものでも脅かして道を開けさせるぐらいには役立つだろうと考えてのことだった。弦也は忍ばせた肥後の守を着物の上からそっと押さえると、ようやく決心したように玄関へと向った。

 「 弦也くん!君は、もう今回の原稿を読んだかい? 」

 弦也が身構えながら玄関の戸を開けると、星川は興奮した様子で挨拶もせず開口一番そう言った。弦也は事態が飲み込めず怪訝な顔をしていると

 「 その顔は、まだ読んでないんだね?ああ、それなら僕はこのすごい原稿を世界で一番先に読んだ読者ってことだ!すごいぞ!いやあ、悪いね弦也くん僕が一番乗りで! 」

 そこで星川は興奮を自身で必死に抑えようとするかのようにぎゅっと拳を握って下を向いた。

 「 いや、自分ばっかり興奮しててすまないね。でもあれを読んだら居ても立ってもいられなくて、飛んできてしまった。先生はまだお休みにはなっていないかい? 」

 「 あ、はい……ひとまずおあがりください。今、先生をお呼びしますので 」

 弦也は訳が分からないながらも、ひとまず自分を咎めに来たわけではなさそうだと判断し安堵する。星川を客間に通し、小夜子を呼びに行った。

 「 星川さん、こんな時間に何の用ですって? 」

 呼びに来た弦也に、小夜子は眉間に皺を寄せて問う。よほど原稿上がりの解放感に浸っていたのだろう。さも邪魔されたというように不機嫌だった。

 「 さあ、よくわからないです。なんか興奮されてまして。原稿を修正させるためにおいでになったわけではなさそうですけど 」

 弦也がそう言うと、小夜子はさも面倒そうにため息をつき、立ち上がった。

 「 先生! 」

 小夜子が客間に現れると、星川は小夜子に抱きつかんばかりに立ち上がり、おもむろに小夜子の手を両手で握った。いきなりのことに小夜子が眉を顰めるのにも構わず喋りだす。

「 先生!僕は、もちろん先生のどの作品も素晴らしいと思いながらずっと担当させていただいてきました。でも今回、今回の原稿は、僕が今までに読んだどんなものよりも凄かった!読んでいてずっと鳥肌が治まらなかった!今回ほど、この仕事をさせていただいていて良かったと思ったことはありません!居ても立ってもいられなくて、その、気づいたらこんな時間にお邪魔してしまいました。申し訳ございません …… 」

 喋っている途中で我に返り小夜子と弦也の怪訝そうな視線に気づいたのか、星川はだんだんとトーンを落として済まなそうな顔になった。しかし、星川の表情と対照的に小夜子は笑顔を作る。

 「 うふふ。今回は、たしかに自分でも良い作品ができたって手応えがありましたのよ。でもそんなに星川さんが喜んでくださったなら、作家冥利に尽きるわ 」

 弦也は、小夜子の先ほどまでの渋面からの変わりようを見て毎度のことながら驚いていた。いくら原稿を修正させられるわけではないとわかったとは言っても、遅くに来られて迷惑そうにしていたではないか。女というのは皆こういうものなのか。それともこの叔母が特殊なのか。弦也にはそれが判断できるほど女の知り合いがいない。それから小夜子は、星川のために弦也にビールと枝豆などを用意させもてなした。星川は恐縮しながらもそのもてなしを受け、その夜はいつまでも自分がいかに小夜子の今回の作品に感動したかを語っていった。

 星川が讃えに讃えた原稿を、実際に弦也が読単行本として発売されてからのことだった。いつもならば小夜子が書き散らした原稿を片付けたり、担当に渡す前に時間があれば誤字がないかだけでも見る際に軽く目を通してはいた。しかし今回は星川が来るまで小夜子共々眠りこけていたために、弦也は一切内容を知らなかった。小夜子の家に入ってからも、弦也は相変わらず自身の小遣いで小夜子の本を買っていた。弦也のそんな行動を小夜子に

 「 馬鹿。本ができたら毎回担当が持ってくるんだから、わざわざ買わなくったっていいのよ 」

 と笑われても、自分で買っていた。そのときも、星川から聞いていた発売日にいそいそと本屋に行き、夕食後から読み始めて、一晩そのまま読み続けた。読み終わっても、ずっと心臓がどきどきとしていた。初めて小夜子の作品に触れたときも衝撃的ではあったが、そのときに勝るとも劣らぬ衝撃だった。読み終わった翌朝も登校はしたが、授業中も教科書の裏に隠してまた読み始めた。まるで麻薬のようだった。すごい速さでどこまでもどこまでも墜落していくような感覚になるのに、それがたまらない快楽だった。弦也は、どこかとてつもない高いところから実際に落ちながらこの本を読んでみたいとさえ願った。たとえ地面に激突して死ぬのが分かっていても、この小説を読み終えるぐらい落ちるまでに時間がある高い場所があれば、弦也は実際にそうしただろう。何度も何度も、ぞくぞくと快楽に震えた。

 ( ああ、世間がから騒ぎしているだけではない。叔母さんは、本当に何かの扉を開いたんだ )

 弦也は心からそう納得した。今までも小夜子の小説を愛してはいたが、愛していたからこそ今回の作品がどれだけそれまでの作品と比べ物にならない程優れているかよく理解した。

 それからしばらくして、小夜子の小説が評判に評判を呼び世間に出回ると弦也たちの生活は一変した。まず、今まで何度も小夜子の小説を辛口に批評し小夜子に癇癪を起させていた大御所作家がそれまでとは打って変わって褒めに褒める書評を新聞に掲載した。次に、小夜子の家に二種類の来客が入れかわり立ちかわり訪れるようになった。

 一つは、原稿を依頼しに来る出版社の人間だった。これまで付き合いのなかった出版社や、小夜子の我儘ぶりのためか疎遠になっていた出版社などからも再び依頼が来るようになった。弦也は仕事量の調整を小夜子に任せてはおけないと考え、自分が買って出るようになった。そうでなければ小夜子は担当が気に入ったとか気に入らないとかの理由だけで仕事を決めたりして、結果パンクしてしまうかもう仕事が来ないかのどちらかになるだろうと察したからだった。

 もう一つは、すっかり小夜子に惚れ込んだ読者だ。以前にも家まで訪れてくる読者はたまにはいたが、今回の作品の出版後はひっきりなしだった。一目会いたいというだけの者もいれば、自分の小説を見てもらいたい、弟子になりたいという者もいる。そういう者が来たとき、弦也は当然、自分が既に弟子になっているとは言う。しかしそれで引き下がる者ばかりではなく、では自分が二番弟子にと食い下がる、あるいは弦也を押しのけて自分が弟子になろうとする者もいた。

 「 君には悪いけど、僕の小説を一度、満原先生に読んでもらいさえすれば分かる。二人は弟子を置けないというなら、君より僕の方が小夜子先生の弟子にふさわしいことを証明するさ 」

 ある日、毎日のようにある来客にさすがに食傷気味になりながら応対に出た弦也に、はっきりとそう言ってのけたのは半井という名の大学生だった。花散らしの雨を予感させる曇り空の日だった。聞けば帝国大学の学生だということで、所属は文学部だが医学部や薬学部の講義にもしょっちゅう潜り込み、小夜子が作中で使うような薬物の知識なども持ち合わせているということだった。応対に出た弦也は肌寒さに自分の両肩を抱くようにしていたが、半井は背筋をまっすぐに伸ばして立ち、その高い身長で弦也を見下ろしていた。弦也はまず

 ( これ見よがしに制服なんか着てきて、気障な野郎だ )

 と思った。しかしそれと同時に不安にも駆られた。執筆に役立つ薬学や医学の知識が本当にあるのかは別にしても、半井はいかにも頭の切れそうなハンサムな学生だった。同じ男から見れば気障で気に食わないが、女から、小夜子から見れば好ましく映るかもしれないと考えた。

 ( 会わせたくない )

 そう思って弦也は内心頭を抱えていた。このまま長く玄関で応対していれば、小夜子が出てきてしまうだろう。それに、半井はどうやら自分の原稿を持ってきている様子だが、そのときの弦也には自信をもって張り合える原稿の手持ちはなかった。

 ( もし少しでもこの半井の原稿を叔母さんが気に入ったら、本当に僕が追い出されてこの半井が書生になるかもしれない )

 弦也が困り果てて何も言えずにいると、半井はよく通る声で

 「 君、先生はおいでなんだろう。まさか、自分が追い出されるかもしれないからって会わせない気かい?男らしくないじゃないか 」

 と言った。弦也はいっそのこと小夜子の我儘ぶりを事細かに教えてやって逃げ帰らせる作戦に打って出ようかと考えた、そのときだった。

 「 弦也、お客さんよね?玄関にいつまでも立たせていては失礼でしょう、お通しなさいな 」

 小夜子が玄関に出てきてしまった。半井は自分と小夜子の間に立っていた弦也を押しのけるようにして小夜子の前に進み出る。

 「 お初にお目にかかります、満原先生。僕は先生のファンで、東京帝国大学文学部二年の半井恭介と申します。不躾ながら、本日はお願いがあって参りまし た」

 「 まあ、帝大の学生さん?立派ねえ。あなたのような方が、私の作品を読んでくださっているなんて嬉しいわ。どうぞ、狭い家だけどお入りになって。弦也、あったかいお茶をお持ちして 」

 そう言うと、自分はとっとと半井を客間に案内していってしまった。弦也が不安で脂汗をにじませながら二人分の茶を用意して客間に入ると、半井が

 「 僕はぜひ満原先生の下で小説の指導を受けたくて、失礼ながら押しかけさせていただきました。さきほど玄関に出てこられた彼から、弟子は一人しかとらないとお聞きしましたが、それなら僕の原稿に一度でも御覧いただいて、彼と僕とどちらが先生の弟子にふさわしいか、比べていただきたいのです 」

とそのときまさに訴えているところだった。弦也が客間に現れるタイミングをわざわざ計っていたかのようだった。そう言われて、小夜子は顔に仄かに憂いを浮かべて答えた。

 「 半井さんと仰ったわね。あなたのような立派な学生さんにそうまで思っていただいて、かえって恐縮してしまいますわ。でもね、この家にあなたをお弟子さんとして置くことはできません。わかってちょうだい 」

 「 何故、ですか 」

 半井にそう問われると、小夜子は茶を出した後の盆を持ったまま立っている弦也に目を向けて、答えた。

 「 この子はね、弦也は、正確には私の弟子ではなくて甥なんですのよ。この子の父親、つまり私の兄に頼まれて特別にこの家に置いています。そうでなければ、いくら私が年増の女とはいえ、女一人暮らしのところにあなたのようなハンサムな学生さんを置いていれば、どんな噂を立てられてしまうかわかりませんわ。世間はそういう噂がとにかくお好きですもの。ね、半井さん。あなたのお名前にもどんな傷がついてしまうか、わかりませんから 」

 「 そんなことないです、先生は …… いえ、いずれにせよ僕は、決してそんな邪な気持ちで参上したわけでは …… 」

 半井が思わず発した自分の言葉に俯くと、小夜子はにっこりと微笑んでこう言った。

 「 ありがとう。半井さんの真面目なお気持ちは私はよくわかっていてよ。でも、当人たちがどんなにそんな気がなくても噂を立てる方にとっては何の関係もないものなの。でもね、この家には置いて差し上げられなくても、私でよければ原稿の添削はいつでもして差し上げます。郵便で送ってくださってもいいですわ。あなたのご住所も教えてくださる?弦也、書斎から何か紙と鉛筆でも持ってきてちょうだい 」

 弦也が紙と鉛筆を持ってきて差し出すと、半井は小夜子にはわからないほど一瞬だけ弦也を睨んで、受け取った。そして大人しく自分の名前と住所を書くと、一息にお茶を飲み干して頭の良い学生らしい慇懃さで礼を述べ、持参してきた原稿を置いて帰っていった。

 その後、半井の置いていった原稿に小夜子がどのような添削を付けて送り返したかを弦也は知らない。弦也は他の雑多な郵便物と一緒に既に封して小夜子から渡されたそれを、郵便局に持っていっただけだった。しかしその後、弦也の知る限り半井が家に来ることも原稿が送られてくることも二度と無かった。たぶん、どこか他で大御所の作家に気に入られでもして弟子入りしたことだろうと弦也は考えた。

 ( それにしても、叔母さんは何故あんなにあっさりと半井を断ったんだろう )

 小夜子は、半井に対しては「どんな噂を立てられるかわからない」などともっともらしいことを言っていた。しかしそれがただの建前であることは弦也にはよくわかっていた。人に噂されることを気にしていたら、女ながらあんなに凄惨な場面がいくつもある小説など書けはしない。それに、小夜子が添削を入れる前の半井の原稿ならば弦也は目にしていた。本人の雰囲気をそのまま映す、気障さのにおう文章で弦也は好きにはならなかった。しかし技術だけで言えば自分よりはるかに上手いと感じた。小夜子にとっては、首を絞めてくるような弟子を追い出すこれ以上無い機会だったのではないのかと弦也は煩悶する。そして日を追うごとに、弦也はどんどん自身の困惑に飲まれていった。

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