3.
その日、星川に渡された原稿は本来であれば昨日の時点で渡されていたはずのものだった。しかし昨日は星川が小夜子の家に来るまでに原稿が上がらず、弦也は客間で星川を待たせていた。最初は星川も弦也を相手に話をしたり、その場で片付けられるような仕事をいくつか持ってきていてそれをこなしたりなどしていたが、数時間経っても一向に原稿がやってこない。やがて外が段々と薄暗くなり、すっかり夜になっても小夜子は書斎から出てこなかった。弦也は星川のために近所の蕎麦屋から出前を取って食べさせたが、星川がそれを食べ終わり弦也が出した食後のお茶まで飲み終わってもまだ小夜子は客間に現れなかった。
「 …… あの。僕、ちょっと先生にもお茶を淹れてきます 」
そう言うと、弦也は星川から逃げるようにして小夜子の元へと向った。
「 先生、お茶を淹れてまいりました 」
障子の向こうから声をかけると、盛大なため息の後「 入って 」と返答があった。小夜子の書斎は六畳ほどの大きさで、縁側に面した障子を開けると、まず手前に小さなちゃぶ台と座布団が置いてある。そしてその奥に書き物机と椅子がある。両側の壁際には本棚があり、自作や資料などで中身を埋められている。弦也はできるだけ静かに障子を開け、ちゃぶ台にそっとお茶を置く。そして、盆を胸に抱えたままそこに正座した。
「 …… 何? 」
小夜子は弦也の顔も見ずに問う。
「 あの、もうずいぶん時間も遅くなったので、その、星川さんが …… 」
弦也はこの後の言葉をどう続けたものか、途方に暮れる。恐らく何を言っても癇癪を起されそうな気がした。何も言えずに俯いていると、数秒経って小夜子の方から口を開いた。
「 明日にしてもらって 」
「 え? 」
「 星川さんに、明日またお越しくださいって伝えてちょうだい 」
「 え、でも締切は今日なんじゃ 」
「 わかってるわよそんなこと!でも今日はもうどうしたって無理なの!さっさと伝えてらっしゃい! 」
「 …… わかりました 」
弦也は盆を台所に戻すことすら忘れて、そのまま胸に抱えてふらふらと星川の待つ客間に歩いていく。そうして客間の障子を開け、星川と目が合うなりそのまま頭を下げた。星川は、それだけでおおよその事情を察した。
「 先生、ご不調のようだね 」
力なく笑う星川に、弦也は頭を下げたままさらに身を縮めた。
「 申し訳、ございません……先生は、星川さんに明日またお越しいただくよう伝えるようにと 」
「 そうか …… いや弦也くん、君が謝ることじゃないさ。いちおう会社にも確認しなくちゃいけないから、電話、貸してもらってもいいかな」
「 は、はい 」
弦也はようやく頭を上げると、ふらふらと星川を電話の所へと案内し自分は客間に下がって星川を待つことにした。やがて、星川が編集長に必死に取りなしているらしい声が聞こえた。
「 弦也くん、電話ありがとう。編集長には許可もらえたから、また明日、今日と同じくらいの時間にお邪魔するって先生に伝えてもらえるかな 」
「 はい、本当に申し訳ありません 」
弦也は深々と頭を下げる。星川は「お蕎麦、ご馳走様でした」と言って月の光の中、街灯のともる夜道を歩いて去っていった。
星川が帰った後、弦也は台所に向かい小夜子のために簡単な夜食を整え始めた。小夜子の家に入って一年、弦也は基本的な家事はおおよそこなせるようになった。初歩的なことは小夜子に教わった。三男坊とは言え、下男や下女を何人も抱える家で育った弦也は家事など一切やったことがなかったのだが、小夜子はそんな弦也にそれは厳しく教えた。しかし小夜子から教わった初歩的なことだけでは、小夜子の要求に対応することができなかった。実家の下男や下女にでも教わろうかと思ったが、ふとその考えを、昼食のときの会話で漏らしたところ小夜子は片方の眉尻をひくりと吊り上げてこう言った。
「 弦也、あんたもう実家に戻りたくなったのかしら? 」
弦也が
「 そ、そんな、とんでもないです。僕はただ …… 」
と口ごもると、小夜子は白く細い人差し指で弦也の眉間を指差し、こう言った。
「 小説家として大切なことを教えてあげるわ、弦也。それはね、何か事が起こったとき、それが周りにどんな影響を及ぼすかっていうことを推し量れるようになることよ。あんたが家事のコツを実家に聞きに行ったら何が起こるか、ほら、言ってみなさい 」
そう言われても、弦也には自分が実家の下男や下女に家事のコツを教わることが、どうして「 もう実家に帰りたくなったのか 」と問われるようなことになるのかさっぱりわからなかった。困惑していると、小夜子はふうっとため息をついてこう言った。
「 まったく。こんなんじゃ先が思いやられるわねえ。いい?あんたが実家でそんなことしたら、それは必ずあんたのお父さんの耳に入るわ。そしたらあんたのお父さんは、自分の可愛い息子が私にいびられてると思って即刻あんたを引き取りにくるわよ。もしかしたらそれだけじゃ済まなくて、私をこの離れから追い出したりすることだってあるかもしれないわねえ。で、弦也。あんたはそうなればいいと思っているのかしら 」
その小夜子の言葉に弦也はまんまと翻弄され、必死に謝った上で
「 僕は、先生に憧れて作家になると決めたんです。至らぬ弟子ですがどうか、この先も末永くご指導ください 」
と半分涙ぐみながら頭を下げたのだった。
以降、小夜子に教わった範囲で小夜子の用を満たすことができないときは人に教わろうとせず、本で調べたり見よう見まねで思い切ってやってみたりしてコツを習得した。そして今となっては、日々の炊事は勿論、庭木の手入れや小夜子の担当者への接し方、小夜子に弟子入りをしたいだの一目でもお眼に掛かりたいだのと言ってたまに押しかけてくる小夜子のファンたちのあしらい方まで身につけてしまっている。一方で、自身の創作活動については全くと言っていいほど進歩がないような気がしていた。
( これじゃあ、先生のお手伝いさんにでもなった方が天職みたいじゃないか )
こんなことを悶々と思いながらでも手はまるで機械のように手際よく動き、すぐに夜食が整った。盆に載せて、小夜子の書斎へと向う。
「 先生、お夜食をお持ちしました。すぐに召し上がりますか? 」
障子の向こうから声をかけるものの、小夜子からは返事がない。執筆に集中しているのかと中の様子を伺うと、机の灯りに照らされて障子に映るはずの小夜子の影が無かった。
( まさか ――― )
弦也は勢いよく障子を開ける。中では、小夜子が畳に倒れていた。
「 先生!大丈夫ですか、先生!」
抱き起こし、狼狽しながら揺すると小夜子は頭痛でもするかのように顔をしかめ薄目を開けた。
「 んん、弦也?勝手に部屋に入らないでって言ったでしょう 」
「 何言ってるんですか。声をかけたのに返事が無いから、開けてみたら先生が倒れてたから、僕は …… 」
弦也がそう言うと、小夜子は一瞬不審そうな顔をした後、急に弦也から体を離してケラケラと笑い出した。
「 やだ、倒れてたわけじゃないわよ寝てただけ。執筆に疲れちゃったのよ。なあに、そんなに心配してくれたの? 」
弦也は小夜子のその酔っ払いのような喋り方にむっとして
「 寝ている場合ですか。星川さん、だいぶお困りのようでした。それでもなんとか会社に交渉してくださって明日まで締切をのばしてくださったんですよ 」
そう言うと、今度は小夜子がむっとした顔になって「 わかってるわよ 」と唸るように言った。それから改めて弦也が夜食のことを問うと、小夜子は叱られた後に食事を出された子供のような顔で「 食べる 」 と小さく答えた。そして弦也が整えた膳に向かい、もそもそと食べ始めた。弦也はそれをしばらく見守ってから
「 では、僕はこれで失礼いたします 」
小夜子が黙って頷く。弦也はぺこりと頭を下げ、書斎を後にした。
小夜子に食事を出した後、弦也は台所へと戻り手早く自分の分の夜食の仕度を整え、食べ始めた。時計を見ればもう日付が変わろうかという時間になっている。いつもならば小夜子が徹夜をするというときには夜食の膳と急須にたっぷり入れたお茶を出し、その後はもう朝食までは構わないことにしていた。学校の課題を片付けて就寝するか、捗っていないながらも自身の創作活動を行うなどして就寝までの時間を過ごす。小夜子もそれを了承している様子だった。しかし今夜ばかりは、ときどき様子を見に行った方がよさそうだと考えた。
( たしか前回星川さんが持ってきてくれたきんつばが残っていたはず )
あと二、三時間もしたら新しいお茶ときんつばでも持って行ってみることにしようと考え、弦也はいったん自室へと引っ込んだ。
自室で、弦也は何日ぶりかに引き出しから自身の原稿を取り出した。ここ数日はさぼりがちだった学業の取り返しや小夜子の世話で忙しく、まったく筆を進めていない。久しぶりに目にする自分の文章はとても頭でっかちで、それでいて読んでいると頭に虫が沸いたような気にさせられるぐらい陳腐だった。
( いったい、素晴らしい作家になるにはどっちが正しいのだろう )
自分の作品を、書いている途中で少しでもつまらないと思ってしまったとき。見切りをつけて新しい作品を始めるのが正しいのか、それとも、兎にも角にも最後まで書き通すことこそ修行になるのか。そんなことに囚われて、数行書いてはまた同じことに考えが飛び、また数行書いては思考の輪に巻き込まれてを繰り返しているうち、弦也はいつしか小夜子の家に入った日からのことを思い出していた。
父と共に、小夜子に自分を書生として住まわせて欲しいと頼みに行ったのは中等学校の卒業式のその日だった。校庭で卒業証書の入った筒を手に級友との名残を惜しむ同級生たちを尻目に見ながら、弦也は胸を躍らせて家路を急いだ。弦也は当時、野球などに夢中になっている級友たちを心の底で馬鹿にしていた。おそらく級友の方も弦也を馬鹿にしていたことだろう。弦也自身は休み時間といえば本を読んでいて、級友たちに交わることはなかった。しかしながら、読んでいた本はほとんどが小夜子の著作や他の作家による幻想怪奇小説、エログロナンセンスなもの等だったために成績は悪くないのに教師からの評判も良くなかった。よって、弦也は学校には何の未練もなかったのである。
帰宅して玄関に鞄と卒業証書の筒を放り出すと、卒業式にも顔を出した父親と共にすぐに小夜子の住む離れへと向った。離れに近づくと、小夜子は縁側で春の花の咲き始めた庭を眺めて、お茶を飲んでいるところだった。
「 あらお兄様、どうなさったの?ちょうどもう少ししたら私からお邪魔しようと思ってたのよ。弦ちゃん、卒業おめでとう。どうぞあがってちょうだい 」
小夜子はそう言って弦也たちを客間に通し、茶を用意する。そしてさらに袂からぽち袋を取り出して、弦也に差し出した。
「 弦ちゃん、卒業おめでとう。これ、少ないけどお祝いよ 」
そういえばあの頃はまだ「 弦ちゃん 」なんて呼ばれてたっけ、と弦也は思い返す。小夜子は他人の前では過度なくらい善き叔母を演じる。今でも淳一郎がいる前などでは決して弦也を呼び捨てにはしなかった。
( 結局、親父が叔母さんに甘ければ甘いだけかえって叔母さんは親父に頭が上がらないんだろう )
弦也はそんなことを思った。実際、小夜子の家で淳一郎が用件を切り出したそのときだけは
「 お兄さま、急にそんなこと仰られても …… 。私、別に大作家でもないんですからお弟子さんなんか置きませんのよ 」
と渋面をしていたが、結局今、弦也はこうして小夜子の弟子になっている。
そんな回想にふけっていると、やがて柱時計が夜の三時を告げた。その音で弦也は自室の書き物机から立ち上がり、ぐるりと首を回す。台所で茶ときんつばを用意して書斎へと向かい、声をかける前に障子越しに中の様子を伺った。筆が乗っているようならばもう少し後で来ようと考えたからだ。が、どうやら机には向っているらしい影は見えるものの、捗ってはいないようだった。捗っているときに耳をすますと聞こえる、万年筆が原稿用紙を滑るさらさらという音も聞こえない。
「 先生、一息入れませんか。お茶とお菓子をお持ちしました 」
中からは、うんともううともつかぬ声が聞こえた。弦也は障子を開け室内に入る。中では小夜子が眉間に深い皺を寄せ、頭を抱えていた。
「 一息お入れになってください。そうなさったら、かえって筆が進まれるかもしれませんよ 」
「 弦也、あんたまだ起きてたの 」
眠気と疲労にどんよりと濁った顔と声で、小夜子は言う。
「 ええ、なんとなく目が冴えてしまって。久々に自分の創作などしていました 」
「 …… そう 」
そう言うと、もそもそと椅子から降り、卓袱台の座布団に座り直してきんつばを食べ始めた。弦也は、小夜子がきんつばの最後の一口を飲み込みお茶を飲み干すまで見守る。それから湯のみと小皿と、数時間前に出した夜食の膳もまとめて下げようと立ち上がったときだった。
「 待って 」
そう言われて、弦也は振り返り小夜子の顔を伺う。小夜子はそんな弦也の顔から目をそらし、深々と長いため息をついてこう言った。
「 書けないのよ 」
そう言われて、弦也は持ち上げたものをまた下ろし、小夜子の前に座りなおした。
「 …… 今は、どんな場面を? 」
弦也は小夜子に答えられたところで、自分が役に立つ案を出せるなどとは思っていない。しかし話だけでも聞いてやれば気分転換になるだろうと考えてのことだ。
「 女主人公が、男に首を絞められているの。最初はただ苦しいんだけど、その内にぼうっとしてきて絞められながら不思議な夢みたいなのを見るんだけど …… あぁもう嫌。描写の生々しさが足りないとか言われたって、首絞められたことなんかないのにそんなもんわかりゃしないわよ 」
小夜子は苛立たしげに自分の髪を掻き毟る。が、ふとその手を止めると顔に悪戯を思いついた子供のような笑顔を浮かべた。
「 いいこと思いついたわ。弦也、あんた書いてみなさいよ 」
「 え 」
「 いい修行じゃない。ちょっと書いてみなさいよ 」
「 そんな。後で僕が書いたなんてこと知れたら、読者が悲しみます。みんな、先生の小説をこそ待っているのに 」
そう言うと小夜子はふん、と鼻を鳴らして
「 読者なんてのはね、表紙に満原小夜子って書いてさえあれば多少文体が変わったぐらいで気づきやしないのよ 」
と言い返した。そう言われて弦也は俯く。室内の灯りは書き物机の上に置いてあるものだけで、あたりは薄暗い。俯いた弦也の表情は、その室内の薄闇に呑まれる。が、小夜子は俯く弦也の顔などまともに見ようともせず、万年筆をもてあそんでいた。
「 ねえ先生。僕だって、先生の読者の一人なんですよ。僕は、先生の作品が読みたいです 」
そう言われて、小夜子はさすがにきまりの悪そうな顔になった。だがすぐに
「 でも弦也、あんた作家になりたいんでしょう?今回これを書いてみて、もし評判が良かったら星川さんにだけは本当のことを教えてあげるわ。そうしたらあんた、星川さんに買われて作家デビューなんてことになるかもしれないわよ?そしたらもうこんな書生の真似事なんてしなくてよくなって、この家から出て行けるじゃない。その方が嬉しいんじゃないの? 」
といきまいた。
そのとき、弦也が急にすくっと立ち上がった。小夜子は驚いて、弦也が書斎に入ってきてから初めてまともにその顔を見る。その小夜子の、ぽかんと丸くなった瞳を弦也はまっすぐに見下ろした。そうして一歩、小夜子の方へ踏み出す。小夜子の背後には書き物机があって小夜子はそれ以上、後へ退くことができない。その小夜子の首に弦也はおもむろに手をかけ、ぐうっと絞めた。
「 僕には書けません。先生の代わりなんて、未来永劫務まりません。でも、お側でお手伝いならいたします。どこまでも 」
弦也はその絞める手で持ち上げるように小夜子の顔を自分の顔に近づけ、静かに言った。
小夜子の首は弦也の手に、眠り込んだ仔猫の体のように柔かい。その肌は不摂生な生活をしている三十過ぎの女のものとは思えぬほど滑らかで、弦也の指に吸い付くようだった。弦也はその肌に応えるようとするように、指の力を強める。
「 先生。これで、書けますよね?最後まで、書いてくれますよね? 」
弦也の指に堰き止められた血液が、常ならば白い小夜子の顔の皮膚を内側から真赤に染め上げる。弦也の問いに答えを返そうにも、小夜子はその首を縦にも横にも動かすことができずせめてもと必死で瞳だけで頷いた。弦也が手を放すと、小夜子の体はどさりと畳に落ちる。小夜子は畳の上で這いつくばりながら咳込み、必死に空気を貪った。
「 さあ先生。どうぞ 」
咳込む小夜子を見下ろしたまま、弦也が言う。その言葉の意味をとりかね、小夜子は呆けたように弦也を見上げた。
「 星川さんがいらっしゃるまで、もうあと何時間もありません。先生、書いてくださるんですよね? 」
ようやく理解したのか、小夜子は喉からひゅっという息を詰まらせたような音を立てた。そうして、弦也から逃れようとするかのようにあわてて机に向う。弦也はその小夜子の手に、放り出されていた万年筆を握らせてやる。
「 僕はここにいます。何か御用があれば、何でも申し付けてくださいね。僕は、先生の弟子なんですから 」
そう言うと、弦也は小夜子の後の畳に座った。その弦也の言葉が届いているのかいないのか、小夜子の万年筆は再びさらさらと音を立て始めた。
更新が遅れてしまいました。読んでくださっている方、申し訳ありません。