20.
事件発覚後から今に至るまで、小夜子は周囲が不気味に思うほど落ち着いていたという。小夜子の犯した罪に憤る者からどんな言葉をぶつけられてもただ目を伏せて黙ってやり過ごし、取り調べに対しても丁寧に対応した。ただ二つだけ、我を押し通したことがあった。一つは、逮捕されたときに持ち込み、その後捜査のために押収されていた原稿用紙の束を返してくれと頼んだときだった。警官が小夜子の家に現れたとき、小夜子は落ち着き払って
「 女の身ですから、逃げることもできません。どこへでも大人しく連れて行かれますから、仕度だけさせてください 」
と言った。血の海の中で横たわる弦也にそっと眼差しを向け、そして風呂敷に直前まで書いていたと思われる原稿用紙の束とインク壺、万年筆を包む。それを腕に抱えて言葉通り大人しく連れられていった。そのときの原稿用紙の束を、返してくれなければ事件のことは何も話さないと喚きちらしたという。それまでが大人しかったことと、特に脱獄を企てるような文書ではなく、取り調べをした刑事が読んでみてもただの小説、それもまだわずかしか書きつけられていなかったことから、定期的に管理官に見せることを条件に風呂敷包みは返却された。
そしてもう一つは、犯行動機についてだった。何故、出征前の甥を刺したのか。罪をあっさりと認め、刺したときの状況などについても問われるがまま丁寧に説明した小夜子がそれについては黙したままだった。捜査にあたった刑事達や、元売れっ子作家の起こした事件ということで大きく報道されて大衆の知るところになったために一般人の間でも色々な憶測が飛び交った。しかし、小夜子の体にあるいくつかの痣や傷が発見されると甥から受けた暴力に対する復讐という見解が一番有力視された。小夜子自身は、この痣や傷は何かと何度聞かれても
「 自分でいたしました。私の以前の作品を御覧いただければわかるかと思いますけれど、ずっとああいうことばかり考えていると少々おかしくなるものですのよ。自分を傷つけると少し落ち着くものですから 」
などと答えていた。しかし、その数があまりにも多く自分の手が届かないような部分にもあることや、女が自分でするにはあまりにも躊躇いがなさすぎるようなものがあることから、小夜子のその回答は信憑性がないものとされた。では本当の理由は何か、というよりもその傷や痣は誰の手によるものかとなったときに候補に挙げられたのは、やはり一つ屋根の下に暮らしていた弦也だった。何故、甥が叔母にが日常的に暴力を振ったのかについては説得力のある説を述べられる者は誰もいなかったが、小夜子の人間関係の中で小夜子にそういうことをできるのは弦也をおいて他にはいなかったのだ。しかし、取り調べを担当した者から弦也の名を出して問われても小夜子は決して言を翻さず「 あの子は関係ありません、自分でやりました 」と言い通したという。とはいえ小夜子がいくらそう言おうとその言葉を信じる者はいなかった。結局、この事件については「 理由はわからないが甥っ子から日常的に暴力を振るわれていて、思い余って刺したのだ 」と周囲に解釈された。中には「 まあ思い余って刺したんだろうけど、それでも名誉だけは守ってやろうと庇ってるんだろ、健気な話じゃないか 」と好意的に言う者や、その他にも様々な憶測が建てられた。たとえばこんな具合だ。
「 傷痕や痣なんかが自分で付けられるもんじゃねえって言うけどよう、その気になりゃあそんなもんどうにでもなるじゃねえか。ありゃああの美人先生が甥っ子をたらしこんだはいいものの、甥っ子と関係持つなんて他に知られちゃあ困るってんでぶっ殺しちまったんだろうさ。傷は自分を被害者に見せるための演出ってやつだろう 」
「 いやいや、何でも出征前日だったって話だろ?案外さ、甥っ子の方がびびっちまって兵隊に出るのは嫌だからいっそ殺してくれって頼んだんじゃないのかねえ 」
「 ええ、そんなことあるかい?そりゃあ、そりゃあよう、本当のこと言えば出征なんて恐ろしいけど、だからって……? 」
「 そんなことよりさ。あの美人先生は孕んでるって話。相手は一体誰なんだろうね? 」
「 だからよう、それが甥っ子なんじゃねえの? 」
「 でもあの先生は他にもいろんな男に身を任せたって言ってるらしいじゃねえか。それも、事件の頃にはもうほとんど仕事がなかったって話だ。体売って仕事取ろうとしてたのかねえ 」
「 でもあの先生の家は金持ちだって噂だよ。だったらそうまでするか? 」
「 いやいや。それとこれとは別なんだろうよ、作家先生なんてのは、みんな変なところで気位が高いのさ。食うに困らなかったとしたって、作家として世に出られないってのは体を売るより屈辱って考えたっておかしくないさね。ほら、二丁目の高梨さんとこの、一番上の息子さん。あそこの家も工場やってるだろ?大人しく継げば食うに困らないのに、貧乏は覚悟してる、工場なんか継ぎたくない、作家になるんだって言い張っているそうだよ。ま、お金持ちのお坊ちゃんのたわ言だけどさ、本人だけは大まじめで、しょっちゅう親父さんと喧嘩してるって話さ。まあねえ。あの美人先生ご本人は、出征前の男の思い出のためになんつってたけどさ。どうだかね 」
小夜子は罪をあっさりと認めたものの、肝心の動機の部分について捜査官たちが納得のいく説明をしなかったことや取り調べにはずいぶんと長い時間が割かれた。そしてその間に、小夜子の妊娠が発覚した。戦争が激化している最中ではあったがそれでも出征前の甥を刺したという事件性、さらに妊娠とあっては噂はあっというまに広がっていった。その噂は、元担当であった星川にも届いた。星川は、後に自身の知り合いの記者に問われたときにこう答えている。
「 じゃあ他にどんな理由があったんだと聞かれると、僕にもそれは分かりません。けれど、満原先生と弦也くんはそういう、恨む者と恨まれている者というようにはとても見えなかった。僕が出征した後に担当した宇多田もそう言っていましたよ。僕は弦也くんが満原先生の家に入る前から担当していたけれど、弦也くんが来た後しばらくして、急に満原先生の筆が急に冴え始めた時期がありました。多分そのあたりできっと何かがあって、それをきっかけにお互いにしかわからないことを深く理解しあったような……いや、そういうことじゃないんです。師弟愛だとか、まして男女の仲なんてそういう言葉でも言い表せない。ただ僕らには理解できず、二人にしか分からないことを何か共有して結びついている。もし満原先生が正直に動機を話したとしても、それはたぶん僕らに理解できることではないんだと思います 」
星川は出征後、他の多くの国民と同じように数々の死線を潜り抜けたがどうにか生きて帰ってきた。その後はもう出版界には戻らず、親戚の経営する工場に就職し、そこで一人の穏やかな女工と出会い、結ばれ穏やかな家庭を築いている。妻も星川に勧められて小夜子の小説を読み、すっかり小夜子の世界に魅せられているということだった。現在では夫婦共にかつての出版業界の仲間や小夜子の小説に書評を寄せた作家などに声をかけ、小夜子の減刑嘆願のための署名を集めながら日々を送っていた。戦中の混乱、事件の注目度の高さ、小夜子の妊娠と様々な要因が絡み、逮捕されてから小夜子の判決はなかなか出ず、小夜子は拘置所内で終戦を迎えることとなり不幸中の幸いにもまだ判決が出ていない状況だった。ただ星川は、小夜子が妊娠していることや、本人の口から語らないとは言えその身に多くの暴力を受けた痕跡を残していることから情状酌量があるだろうと星川は見ていたために、必死になっていた。星川はその記者に語った最後に
「 僕は、あの二人がなんだか本当に好きでした。二人でいたから、満原先生の才能は開花されたんだと思っています。こうして何もかも焼き払われてしまったこの国で、この先また国民の心に美しいものを見せられる貴重な存在の一人が、あの人だと思うんです 」
と言い、言ってから少し恥ずかしそうに笑った。
一方、宇多田は事件のことについて何も語ろうとしなかった。事件が起きたときの担当であったために、宇多田のもとには当然警察や記者などが度々押しかけた。しかし警察に問われたときには最低限のことは説明するものの、それ以外は誰に何を問われても何も答えなかったという。実は、事件後に宇多田の元には小夜子から手紙が届いていた。事件当日に書かれたものと思われ、結果的に途中で投げ出すことになってしまった連載について丁寧に謝罪をしている手紙だった。ただ、書斎の机の上に残してあったために警察が捜査のために押収し、実際に宇多田の手元に届けられたのは随分後になってからではあった。
この手紙が警察から満天社に返されたとき、宇多田は既に満天社を辞めていた。宇多田の手元に届いたのは、ある社員がわざわざ宇多田の実家を調べて送ったためである。宇多田はその頃、千葉の銚子で漁師をしている両親を手伝って暮らしていた。手紙が届いたときはほんの少し驚いた表情を見せながらも、静かにそれを読んだ。そして手紙を送ってきた社員に短い謝礼の言葉を書いた返事を送ったが、それだけだった。その後は以前と変わらず、黙々と父を手伝っていた。しかしある夜、父親に
「 おめえ、漁師で一生食っていく気か 」
と問われたことがあった。宇多田が何も答えずに黙っていると、父親は
「 おめえはうちの一人息子だから気使ってるのかもしれねえが、この国がこんなことになっちまったらもう家業を継ぐもへったくれもねえもんだ。それどころか、明日てめえが生きているかどうかだってわかりゃあしねえ。他に何かやりてえことがあるってんなら、明日死んじまっても後悔がねえように思いっきりやんな 」
と、日焼けした分厚い掌でばしん、と宇多田の肩を叩いた。その後いく日かして、宇多田は東京へと戻っていったという。
次回、最終回。




