2.
基本的に、毎週月・金に投稿します。
ブックマークなどしていただいて、続きもお読みいただければ幸いです。
「 満原先生、先生いらっしゃいますかあ?満天社の星川ですぅ」
まだ四月ではあったが、その日は初夏の到来を予感させるような日差しだった。星川の間延びした声に、弦也は小夜子の書斎で飛び起きる。小夜子は疲れ切っているのかまだ目を覚まさず、障子越しの柔らかな日光が顔を照らされながら眠っていた。その小夜子は放置して、弦也は手早く自分の身づくろいを整えると玄関に飛んでいき、すぐに星川を客間に通して緑茶を出した。
「 またご足労いただいてしまってすみません。すぐに先生を呼んできます 」
そう言うと、すぐに客間を後にした。
星川は、出版社ごとに常に数人付いている小夜子の担当者の一人だった。縦にも横にも大きなその体型ゆえか、この時期にもう汗をかいている。玄関から通されて弦也と挨拶のような世間話をしている間も、汗を拭く手はせっせと動いていた。星川は各社の担当者の中でも小夜子が一番気に入っているらしい担当者だった。弦也は当初、大してハンサムというわけでもないこの星川をなぜ小夜子が気に入っているのか不審に思っていた。あからさまに星川に対しては機嫌がいい。違う出版社の担当が仕事の依頼などをしに来て星川と鉢合わせなどすると、星川より冷遇される他社の担当者にそれとなく助け舟を出してやることも弦也はそつなくこなしていた。だが、星川が厚遇される理由を疑問をもって観察するとすぐにその理由は判明した。星川の差し入れのセンスが、小夜子の好みに実に合っていたからだ。実際に、今日もとらやの羊羹の紙袋を片手に提げてきている。
( そんな、子供みたいな理由で )
作家という職業に対してまだまだ神聖な憧れを持っていた頃、理由が判明したときには弦也は心底呆れた。もっと、文学的な波長が合うだとかそういう理由を期待していたのだ。しかし今では、そんなものだと納得し星川を素直に好ましく見ていた。
その星川に「先生を呼んでまいります」と言い残して、弦也は客間から廊下に出る。そしてそのまま小夜子がまだ眠りこけている書斎を通り過ぎ、早足で台所に向った。そしてそこらに置いてあった手ぬぐいを水で絞るとまた早足で書斎の方へ戻る。いつもしている声がけもせず書斎の障子を開け、すぐにぴしゃりと閉める。そして、今台所で濡らしてきた手ぬぐいを小夜子の腰に投げつけた。濡れて少し重みを持った手ぬぐいが、濡れ手ぬぐいなりの質量で肉に当たる鈍くて間の抜けた音がした。小夜子は小さな悲鳴を上げて目を覚ます。
「 先生、満天社の星川さんがおいでです。首に痕が残っているので、その手ぬぐいを巻いて出てください。何か聞かれたらこの暑さで頭が火照っているのだとでも言ってください。ああそうだ。あの後、もちろん原稿は仕上げたんですよね? 」
弦也のその言葉に、まだどこかぼんやりしていた小夜子の頬がぴくりと動いた。が、すぐに無表情に戻り文机の原稿の束を取り上げて弦也に渡した。弦也はその束の下半分をぱらぱらとめくって目を通す。その間、小夜子はもたもたと手ぬぐいを首に巻いた。小夜子が手ぬぐいを巻き終えたのを見て、弦也は原稿の束を小夜子に返す。
「 じゃあ、行きましょうか 」
弦也がそう声をかけると、小夜子は人形のように無表情で立ち上がった。
客間の前までは無表情でいた小夜子も、弦也が客間の障子を開けたとたんに笑顔を見せた。
「 星川さん、またご足労させてしまってごめんなさいね。でもおかげさまで今回は仕上げてあります。どうぞ収めてくださいな 」
小夜子は原稿の束を星川に渡す。星川はそれを、女王から剣を授けられる騎士のように恭しく受け取る。そうしてその場では枚数のみの確認をしてから持参の封筒に入れ、鞄に収めた。
「 確かに頂戴いたしました。社でじっくり読ませていただいて、また何か確認があればご連絡いたします 」
そう言うとすぐに暇乞いをした。弦也はおもたせの羊羹を出そうかと考えていたが、やめた。そもそも本来の締め切りは昨日だったのだ、星川も一刻も早く社に持ち帰りたいのだろうと考えたからだった。玄関で靴を履きながら、星川はふと思い出したように小夜子に言った。
「 そういえば先生、襟元、お怪我でもなさったんですか?また次の原稿について打合せをと思ったのですが、お体が辛いようであれば少し予定を先にしますけれど 」
弦也は思わず小夜子をちらりと見る。だが小夜子はまるでどうということもないような笑顔で答えた。
「 これね、風邪でもひいたのかしら。朝から少し熱があるようなのよ。首を冷やしていると楽だから巻いているの。みっともなかったかしら、ごめんなさいね。でも打ち合わせはいつでも結構ですわ。こんなもの、明日には治るでしょうから 」
「 そうでしたか。いや、お体の辛い中で原稿をあげていただいてありがとうございます。それでは次回の打ち合わせは週明けにでもまた伺わせていただきます。お体、お大事になさってください 」
そう言って何度も頭を下げながら、星川は会社へと帰っていった。
星川の姿が見えなくなると小夜子は首に巻いていた手ぬぐいを外し、はらりとその場に落とす。あらわになったその首筋には、幅広の薄紅の首輪をつけたような痕が残っていた。