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19.

その日も弦也は学校へなど行く気分ではなかった。しかしさぼりなどすれば教師からどれだけ殴られるかわからない。重たい足に鞭打って登校し、必死に登校し、どうにかその日の学校生活を終えてくたくたになって帰ってくる。帰ってくれば帰ってきたで、今度は小夜子とどう接したらいいのかわからない。それが、学徒出陣を知らされてからの弦也の生活になっていた。醤油を飲み干そうとしたあの日、小夜子に「気持ち悪い」と言われたことを思い出すと小夜子の側から逃げ出したくて、しかし出陣のために残された時間が少ないことを考えると少しでも傍にいたいと思う。そこに逃れられぬ戦場への恐怖が混ざり、弦也はもはや錯乱寸前だった。しかし小夜子の方はそんな弦也の気持ちをわかっているのかいないのか、弦也に対しての態度はやはり何も変わらなかった。弦也が初めてその首を絞めた後のように、かえって違和感を感じるくらいにその態度に変化を見せない。変わらずに我儘を言い、こき使っていた。

 その頃小夜子には、作家としての仕事がほとんど無くなっていた。唯一、宇多田としている「 月刊撫子 」での連載の仕事があるばかりだ。連載開始直後の、先輩作家からの遠回しな罵倒を受けた騒動のときは小夜子も落ち込んだ様子を見せたが、それ以降は何が起きても動じず、雑誌の雰囲気に沿う物語を淡々と書き続けた。出征する前の星川が言い残したとおりの「石ころの物語」である。血も飛び散らず、悪人は悪人のまま、善人は善人のまま世界は回る、国家の理想に向けて。以前の小夜子の作品のファンがこの連載を読んでも、誰も小夜子の作品だとは信じられない、そんな連載だった。それでも弦也は雑誌が出れば毎号購入する。婦人雑誌なだけに購入に抵抗が無かったわけではないが、馴染みの本屋は弦也が小夜子の甥であることを知っていて、変な顔をせずに売ってくれるのが弦也にはありがたかった。その本屋も、その頃には戦争の影響かかなりの数の本棚が空のまま放置されていて、その異様な雰囲気に、店に入ると気温が下がったようにさえ感じられたがそれでもめげずに買いに行ってはいた。

( 先生は、さすがに作家なだけある。本分とは違うものであっても、やっぱりうまいや。綺麗に、書いてる )

 初めてその連載を読んだとき、弦也はそんな感想を持った。しかし同時にその原稿がどれほど心を殺して書かれたものか痛いほど分かった。弟子としてきちんと向き合うべきだとは思っても、自身の出征のことでも混乱している弦也にはとても抱え込むことができず、そのまま部屋の本棚に収められるだけになっていた。

 担当の宇多田も、連載開始からこれまで小夜子や弦也に誓ったとおり小夜子に降りかかる火の粉を必死に払ってきた。今では特に支障も無く続けている。宇多田にもそれが精いっぱいで、全国民が読書どころではなくなってきた今、小夜子に新しい仕事を見つけるといったことまではできなくなっていた。しかし、そうだとしても他の出版社に連絡を取るなり何なりして小夜子自身が仕事を増やす努力をするべきだと ――― たとえ、自分にとって好ましくない作品しか書かせてもらえない時代だとしても ――― 弦也は歯痒く思うばかりだった。以前なら、弦也は小夜子に仕事をさせるために自分がどう動けばいいかがわかった。今だって、それがわかればどんなことでもするつもりではいた。しかし、人魚になった小夜子が泥に飲み込まれる夢を見て以降、弦也は小夜子に求められているものが分からなくなってしまった。

( もしかすると、分からないのじゃなくてもう僕に何も求めていないのかもしれない )

 弦也の方でも、小夜子の状況を見てそこに考えが至った。しかし、小夜子の無気力は仕事ばかりのことではない。弦也から見れば、生きる意欲さえ少しずつ薄くなっているように思えた。食欲も落ち、弦也が作った食事にも少し箸をつけただけですぐに食卓の席を立ってしまう。弦也がもう少し食べるように言っても

「 うるさいわね。私はもうがつがつ食べるような年齢じゃないの。あんたこそ育ち盛りなんだから食べなさいよ 」

 と言い返されてしまう。そうして、わずかに残された仕事をする以外は読書さえせず、ただぼんやりと庭を眺めているばかりだった。

 一度、弦也は日が沈んだ後もぼんやりと縁側に座る小夜子に

「 先生、風邪をひいてしまいますよ 」

 と言って肩掛けと茶を渡したことがある。十一月の夕方に、小夜子は吹きさらしの縁側で空を眺めていたのである。その場では肩掛けを羽織らせて、弦也はそれ以上は何も言わずに下がった。そして少し経ってから夕食ができたと呼びに行った。しかし、結局声を掛けられずに夕闇に紛れて小夜子を見つめるしかなかった。小夜子がそのとき、泣いていたからだった。声も立てず、顔も崩さず、まるでつららが溶けて滴を落とすように、ただ静かに涙を流していた。今まで、小夜子の弱い部分は沢山見てきていた。狼狽も、だらしなさも、我を忘れて怒る姿も、怯える姿も見た。弦也に与えられる苦痛に耐え切れずにあげる悲鳴も聞いた。けれどそんな風に涙を流す姿を見るのは初めてのことだった。そのとき、弦也は何も声をかけずにそっとその場を離れた。それも、そうすべきと思ってのことではない。ただ、どうしていいかわからなくてのことだった。

 その頃から、小夜子の無気力は以前にも増して酷くなった。空襲警報が鳴っても空を見上げはするものの、自分からは逃げようとしない。最初は弦也に引き摺られるようにしながら防空壕へと避難していたが、最近では弦也もある種の覚悟を決めて小夜子と共に家に残っていた。幸い今日まで、小夜子の家も弦也の実家も焼かれずにいる。

( もう、書く意欲どころの話じゃあない。あの人にはまず生きる意欲を持たせなくちゃいけない。だけど、その意欲を持ってもらうために僕は何をしてあげたらいいのかいまだにわからずにいる )

 夕陽の差し込む自室で、弦也は畳に寝転がる。そうすると夕陽がまともに顔に当たって目を刺して、弦也は片腕で自分の顔を隠すように覆った。そうして腕に守られた闇の中で、悶々と悩み続けた。しかし仮に方法がわかったとしても、もうじきに弦也は小夜子の元から離れなければならない。学徒出陣の壮行会まで、あと二日に迫っている。何か方法がわかったとして、実行する時間はあるのか。そのこともさらに悩みを深くした。

( 僕がいなくなっても、誰か僕の代わりにあの人の傍にいて、脅してでも痛い思いをさせてでも生きさせようとすることが必要なのに。今は強制でもいい。どうにかあの人が生き、書いていくようにするには )

 弦也はそのとき、小夜子の昔の作品の一つのことを思い出した。それはある女が、自分を捨てた男に呪いをかけようとする物語だった。女は自分では確かな呪いをかける方法など知りもしなかった。だから必死に働き、お金を貯めてある凄腕の拝み屋を雇う。その拝み屋の老婆は女から依頼を受けたとき、こう言った。

「 よろしい、あんたの願いを叶えてあげよう。あんたが願いさえすりゃあ、その男は明日にでも死んじまうよ 」

 しかし女はその拝み屋の言葉に、首を横に振った。

「 そんなにあっさりと死なれては困るわ 」

「 おや、じわじわ苦しめたいというわけかい? 」

「 ううん、それも違うの 」

「 ほう。それじゃ、いったいどんな風なのがお好みなんだい 」

 老婆の言葉に、女はこう語った。自分が呪いたい男は、画家を目指している。最近少し売れ始めて、だから自分は捨てられた。それでもまだ、名前を言えば誰でもが知っているような画家ではない。だからまず、その男の名が日本中に知れ渡るぐらいの大成功を与えてほしい。そうして登り詰めたとき、その頂点のときに男の命を奪いたい。

 老婆はその話を聞くと、こう言った。

「 あんたが本当にそう望むならそうしてあげてもいい。そういうことも、妾ならできるからねえ。でもね、考えようによっちゃあ、あんたは自分が一生懸命貯めたお金を使って自分を捨てた男を、この上もなく幸せにしてやろうとしているようなもんだよ 」

「 どうして。普通なら、絶頂まで上りつめた時にはこの状況がいつまでも続くようにと願うものだわ。それなのに、上りつめた途端奪われるのよ 」

「 そうとも。皆が永遠を願う。しかし永遠などこの世にありはしない。上りつめたら、いつかは墜ちていくもの。永遠が無いことを悟っていて、なおかつ墜ちることに怯える人間が次に願うことは何だと思う 」

 老婆の問いの答えが、女にはすぐに浮かばない。いぶかしげな顔をする女に、老婆はこう続ける。

「『 これから墜ちるしかないのなら、今ここで最高の幸福の内に死んでしまいたい 』これが答えじゃよ 」

 黙り込む女に、老婆はまたそっと続けた。

「 それに、絶頂に至ってから命を奪うということは、逆に絶頂に至るまでは何があっても守護されるということじゃよ。夢半ばで命を落とす者もいる中でねえ 」

 結局女は男を呪うことをやめ、貯めてきた金を老婆に押し付けて帰ろうとする。老婆は押し付けられた札束の中から一枚だけ抜き取って

「 これだけありゃあね、この田舎じゃあ十日ぐらいは食えるのさ 」

 と言い、それ以上はけっして受け取ろうとしない。女は老婆に返された金を持って山を下りる。田園風景の中のバス停に佇む女を、夏の朝陽がきらきらと照らしている場面がラストシーンとして描かれていた。

( 僕もあの人に、嫌でも生き続け書き続けるような呪いをかけてやりたい。ああそうだ、呪ってやりたい。僕がどれだけ大切に想っているかも知らない先生を )

 憧れ、尽くし、振り回され、そして今は見る影も無く抜け殻のようになってしまった相手を思うと、弦也は段々と恨めしくなり本当に呪いをかけたいとさえ思った。

( そうか、呪いだ )

 いなくなる自分が残していける唯一のもの。時を越えてその身に絡みつき、断つことのできぬ、弦也がかけることのできるたった一つの「 呪い 」。思いつきは雷のように弦也を貫き、弦也はがば、と身を起こした。


 さあ、僕から貴女へ、最後の暴力を贈りに行こう。この暴力が呪いとなって、あと少しでも永く貴女を生きることに、書くことに縛り付けてくれますように。


 弦也は立ち上がると、秋の夕風に冷やされた縁側を歩いて小夜子の部屋へと向った。

 



 弦也が小夜子に包丁で刺されて死亡したのは、この翌日の夜のことであった。



終わりっぽいですが、まだ少し続きます。

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