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18.

 弦也の通う学校は、小夜子の家から歩いて三十分ほどのところにある。しかしその日、弦也は学校から帰宅してくるまでにいつもの倍ほども時間がかかった。ちょうど一年ほど前に小夜子とどんぐりを拾いに行った山が今年も美しく紅葉していたが、帰り道に目にできるその美しさもその日の弦也の目にはまったく止まらずにいた。弦也は、その日に学校で校長から言い渡された言葉にがんじがらめになっていたのだ。

( どうすればいい )

 思考もまるで機能しない。唯々、家に着くまでに( どうすればいい )を何千回と繰り返した。家に着くと、弦也は突然何かを思いついたかのように顔を上げる。そして鞄も置かずに一目散に台所に向った。小夜子が何か声を掛けてきたような気もしたが、何を言っていたのかまったく耳に入っていない。台所に入ると、流しの下の棚から醤油の一升瓶を取り出す。蓋を開けて、貪るような勢いで中身を喉に流し込み始めた。塩辛いだとかそういう次元ではない。一口分の醤油が喉を通過するたびにその部分の粘膜から脳髄に向けてがん、がん、と金槌で叩かれているような感覚だった。体の塩分を少しでも追い出そうという反応なのか、涙が、鼻水がじくじくと染み出してくる。それでも両手でしっかりと瓶を掴んで、喉に醤油を流し込み続けた。

「 弦也……?何、してるのよ 」

 様子のおかしい弦也を案じたのか、台所に来た小夜子が醤油を飲む弦也を見つけ声をかける。しかし弦也は醤油を飲み続けた。小夜子は二秒ほどぽかんとその姿を眺めていたが突然我に返り

「 弦也!弦也、やめなさいよ、弦也 」

 と醤油の瓶を取り上げようと突進した。弦也はそれでも片手で小夜子を抑えて飲み続けようとしたが、小夜子はほとんど水に飛び込むような勢いで飛びついたために二人とも台所の床に倒れこむ。その二人の体の上に、弦也の手から弾き飛ばされた醤油の瓶が空中で回転し茶色い雨を降らせる。そしてあらかた中身を撒き散らし終わった後で瓶は落下し、弦也の頬骨を直撃した。

「 ……っ 」

 弦也は思わず頬を押さえ痛みに身を震わせる。小夜子は髪から顎から醤油を滴らせながら慌てて身を起こし「 見せなさい 」と弦也の頬に手を伸ばす。弦也は伸びてきたその手を掴むとこう言った。

「 先生、僕も学徒出陣をすることになりました 」

 そう言われた小夜子は数秒ぽかんとした後、目を丸くして

「 何言ってるのよ……あなた、まだ二十歳になっていないじゃない 」

と言い返す。しかし弦也は静かに

「 戦況の悪化に伴って、徴兵適齢が引き下げられたんだそうです。今日、学校で先生にそう説明されました。今月の下旬には壮行会が行われ、同級生皆で出陣です 」

 と事実を告げる。

「 そんな …… お父様に頼んで何とかしていただくことはできないの? 」

「 無理ですよ。ただでさえ家は親父の力で大兄さんだけでなく小兄さんの徴兵まで免れてる。この上僕まで免れられるはずがありません。僕が兵隊にされずに済むためには、あともう徴兵検査で落ちられるよう、病気にでもなるしかありません 」

「 馬鹿。醤油飲んだくらいで、本職のお医者先生を誤魔化せるわけないじゃないの 」

「 じゃあどうすればいいんです 」

 弦也にそう言われて、小夜子は何も言えなくなる。その小夜子の手を掴んだまま、弦也は言葉を続けた。

「 先生。僕は、ただ死ぬのが怖くて兵隊になるのを嫌がっているわけじゃないんです。玉砕だのなんだのって、なんだかみんながぼんやりと思ってるように花火みたいに一瞬ドーンと弾けてそれで終わりならいい。でも、戦争で死ぬって本当はそういうことじゃないでしょう。何か華々しいような雰囲気ばっかり、必死になってこしらえてるけど本当はそんなんじゃない。四肢を千切られて腸を散らかしてぐちゃぐちゃになって死ぬんだ。そうでなけりゃあ血膿をじくじく滲ませて、何日もかかって死んでいく。そういうことから、どうして皆が目を背けていられるのか僕は本当にわからない…… いや、わかる。そうだ、どいつもこいつも血の通ってないようなもんばかり読まされて、自分を死ぬときは綺麗に砕けるだけの石ころだと思い込まされたんだ。ぐちゃぐちゃとした内臓や欲望を抱える人間だということを、うまいこと騙されて忘れさせられたからだ。でも僕は騙されない、先生、だって僕は、あなたの物語をずっと読んできた。ずっと、ずっと読んできたんです 」

 弦也は体のあちこちから醤油を滴らせながら喋り続ける。その声はもう普段の弦也の形を失って、肉食の獣の前に引きずり出された小動物の震える鳴声のようだった。

「 先生、僕は今まで貴女に色んなことをした。殴ったこともあったし、袋に詰めたことも、水に漬けたこともありました。そうすれば貴女は書き続けてくれると思ったからです。貴女は、追い詰められると途端にその本領を出して輝くから。でも本当はそれは、僕がされたかったことなのかもしれない。先生の小説に浸って、ねえ先生、戦争に行くくらいなら、先生から離れるくらいなら、僕は、先生に…… 」

弦也がすがるように両手で小夜子の手を包んだ、そのときだった。

「 気持ち悪い 」

「 え 」

 小夜子が熱に浮かされたように喋り続ける弦也の言葉を遮り、言い放つ。弦也が信じられない思いでその顔を見ると、小夜子は心底馬鹿にした顔で弦也を見据えていた。

「 なに気持ちの悪いこと言ってるの?離れるくらいなら私に何をされたいって?その続きを言ったら承知しないわ 」

 そう言うと小夜子は醤油の滴る髪をかきあげ立ち上がる。

「 体拭いてくるわ。弦也、あんたはきちんとここを掃除してからにしなさいよ 」

 そう言うと、小夜子は一人でさっさと台所から出て行った。

 一人取り残された弦也は、小夜子の姿が見えなくなると何事もなかったかのように機械的に体を動かして台所の掃除を始めた。醤油はあちらこちらに飛び散っている上に、小夜子も体から醤油を滴らせたまま出て行ったので廊下も掃除しなくてはならない。弦也はまず、床にできた大きな醤油の水溜りから始末することにした。拭いている途中、醤油の水溜りに一粒の水滴が落ち、波紋を描く。しかし弦也は何も反応せず、ただ手を動かす。そうする以外に、弦也は何をすべきなのか考えられなかった。

 落ちた水滴は、弦也の涙だった。小夜子に気持ち悪いと言われたこと、最後まで言い切ることなく小夜子に遮られた、自分の口走った言葉。自分が抱いていたことにすら今まで気づかなかった願い。叶えるどころか処理の仕方もわからぬ望みを前に、弦也は自分にできる作業を一人、こなし続けた。

 いつかの冬の日に小夜子の肌に据えたお灸の、弦也がそこに永遠に焼きついてしまえばいいと願ったその痕もいつしか消えてしまっていた。

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