17.
更新までずいぶん間が空いてしまい、読んでくださっている方には大変申し訳ございませんでした・・・
ある夜。小夜子は書斎に、弦也は自室にいるときだった。その頃は灯火管制についてもかなり厳しく言われるようになっていたが、小夜子は「 夜の方が筆が進むのよ 」などと言って相変わらず夕食後は書斎に篭っていた。弦也はその小夜子のために、手元だけをうまく照らせるような覆いを作って与えていた。
弦也の方はそろそろ寝てしまおうかと思っていたが、突如
( 先生が、呼んでいる )
と感じた。声が聞こえたわけではない。しかし何故かそう感じ、部屋を出る。秋の夜風の吹く中、夜露を吸ったかのようにしっとりと冷たい廊下を小走りで小夜子の書斎へと向った。いつものように障子の外から中の様子を伺うが、何の音もしない。ただ秋の終わりを惜しんで震えているかのような虫の声だけが聞こえ、それは何も聞こえないよりもいっそう静寂を感じさせた。
「 失礼します 」
弦也がそう言って書斎に入ると、小夜子は机に向ってはいるものの、万年筆すら握っていなかった。入ってきた弦也の顔を数秒だけ振り返って見つめると、何をしに来たのかと問うことすらなくまた机の方に向き直る。そうして両手で自身の頬を包むように頬杖をついて、そのままじっとしていた。
それまで、弦也が小夜子に何かするときは小夜子からの決まった合図があった。「 書けない 」というぐずりや、常時より難易度の高い我儘がそれにあたる。しかし今回は何もなかった。小夜子が何も言わずして弦也がそれを悟り、弦也が書斎に来た。そして小夜子はそれが当然であるかのように、呼びもしないのに部屋にやってきた弦也に何も言わず、ただじっとしている。弦也も、それに応えようとした。何かをしてやろうとして、まるで警戒していないその背中に手を伸ばす。
( 何を? )
弦也の指先が、小夜子に触れる直前で止まった。
( 僕は先生に、何をすればいいんだ? )
弦也は頭が真っ白になったような気がした。小夜子にすべきことが、小夜子に今何が必要なのか、何を与えれば小夜子の万年筆がまたさらさらと音を立てるのか。小夜子に書かせるための暴力を振るい始めてから一年が過ぎた今、初めて弦也はわからなくなった。それから数分間、弦也は小夜子の背後に立っていたが結局何もできず、弦也は小夜子に茶だけを出して自室へと戻る。言葉すら、かけることができなかった。自室へ戻る途中、聞きなれぬ鳥の声を聞いた。高く鋭い、悲鳴のような声だった。弦也にはそれが、幸福の終焉を告げる声に聞こえた。
その夜、弦也は夢を見た。深く広い沼の中に弦也はいた。自分は小魚にでもなっているようで、時折口から吐く泡が差し込む月の光を反射して、小さな真珠の粒のようにきらきらしながら水面へ昇っていく。ぼんやりそれを眺めていると、視界の隅を別の魚が横切った。改めてそちらに目を向けると、その魚は自分よりずいぶん大きいらしい。白銀に輝く鱗に、虹色に透き通る長い尾鰭を持っていた。
( 綺麗な魚だ )
弦也がぼんやり見つめていると、その魚が突然こちらに身を翻した。虹色の尾鰭と白銀の鱗の先に白い肌の女の上半身が付いていたことに、弦也はそのとき初めて気がついた。
( 人魚だ! )
その人魚の顔は美しかったが、しかし恐怖に引きつっているようだった。弦也には気づいていないらしく、水面ばかりを見上げている。いったい何に怯えているのかと弦也も水面を見上げたが、そこには満月が照らす夜空と小魚になった弦也が吐き出す泡があるだけだった。
そのとき、今まで青く輝いていた沼の中が真っ暗になった。何かとてつもなく大きなものが水面を覆いつくし、差し込む月の光を遮ったようだ。真っ暗で何も見えないながらも、その大きなものの正体を見極めようと水面の方へ首を向ける。すると突然、弦也は自分の体が勝手に池の中央に引きずり込まれるのを感じた。何も分からぬ小魚の弦也は、何も見えない闇の中で渦に巻き込まれてもみくちゃにされ、思わず目を閉じた。
どれほど何も分からない状態が続いただろうか、弦也が次に目を開けたとき渦はほとんど治まっていて沼の中ももう暗くは無かった。ただ、いつのまに桜でも散ったのか水の中に花吹雪が舞っている。
( 水の中で花吹雪なんて )
弦也は異様に思ったが、しかし同時に美しいとも思っていた。それに目の前を舞う花びらは弦也の知る桜の花と同じく薄紅色をしている。珍しい光景もあるものだと感心した。弦也はうっとりとそれを眺めていたが、ふと、花びらの薄紅色が段々と濃くなっているように思えた。最初はよく知る桜の花びらと同じくほとんど白のように見えたのに、今では桃の花のような色や、紅梅の花びらと見まごうものまである。そんな色をした桜を、弦也は見たことがなかった。
( 桜じゃないのか …… ? )
よく見ると、ただ水中を漂っているように見える花びらは少しずつ下から上へと昇っている。
( 水底に花が咲いているのか? )
弦也がそう思って底の方を見下ろすと、そこには先ほどの人魚がいた。仰向けに横たわるようにして水面を見上げているが、その体は赤い靄のようなものに包まれている。そしてその人魚の顔には、もはや何の感情も宿っていなかった。それを見て、初めて弦也は花吹雪の正体を察した。舞う花びらはその人魚の剥がれた鱗、本来白銀のそれを紅く染めているのは、他ならぬその人魚の血だ。
「 せん、せい? 」
ふと、弦也の唇からそんな言葉が漏れた。
( どうして今まで気がつかなかったんだ、あれは、あの人魚は )
小夜子だ。小魚の弦也は慌ててその人魚の側に泳いでいこうとする。しかしその弦也の目の前で水底の泥が生き物のように蠢き、小夜子の体をあっという間に飲み込んだ。弦也もすぐに底に体をぶつけ潜り込もうとするが、いくらもがいても泥を割って小夜子の元へ行くことはできず、弦也は濁った沼の底でいつまでももがいていた。
目を覚ましたとき、部屋は夜明け近くの青い闇に包まれていて夢の中の沼からまだ出られていないように感じた。今見ていた夢のおぞましさにもう寝付くことができず、それから登校するまでの時間を泥を飲まされたような気分で悶々と過ごした。やがて登校の時間になっても塞ぎこんだ気分は消えなかった。以前の弦也なら学校をさぼっていただろう。しかしその頃は、弦也の通う高等学校も随分と雰囲気が変わった。学業をさぼるなどとても許されぬ雰囲気となり、病欠した学生にさえ面と向って「 軟弱 」と罵る者もいた。弦也と同じか、それ以上に無頼を気取っていた学生も急に真面目な顔で「 御国のために 」などと言って勉学に励む始末である。結局、弦也は体と心に鞭打つようにしながら重い足取りで学校への道を歩いていった。




