15.
五月も終わろうというその日、星川が小夜子の家に来て話したことは三つだった。そしてその三つともに、小夜子にとっては最悪とも言える内容だった。
一つ目は、現在小夜子が連載している作品のことだった。
「 残り三回で、ですって? 」
「 はい…… 」
「 しかも、方針を変えて 」
「 はい…… 」
「 星川さん。私、満天社さんには本当に御世話になっていますわ。けれど、残り七回だったものを三回って、半分以下に縮めろというのは少し無理のあるお話です。それも方針を変えてというのは、いったいどういうことなんですの?」
小夜子にそう問われ、星川は苦しげに語り始めた。
「 先生もご存知のとおり、戦争が始まってからというものいよいよ検閲が厳しくなりました。今、先生の原稿を載せさせていただいている 『 月刊現代怪奇小説 』 は、公安風俗を乱すとして、もうタイトルからして役人に目をつけられてしまう状況なんです。映画なんかだと、女性の膝上が出るだけでも問題にされると聞いています。ただ、幸いうちの社長の知人が内務省にいるだとかで、即発行不可になるようなことはなかったんですが……それでも、その社長の友人の方からも大幅に方針変更しないと庇いきれなくなる、ひいてはもう販売ができなくなると、言われたとのことです 」
ここまで語ると、星川はすっかりぬるくなった茶を一気に飲み干した。
横にいた弦也は、小夜子が星川に何か言いたげであるのに口に出せずにいるような様子に気づく。そして、その内容が何であるかも同時に察して、小夜子の代わりに口を開いた。
「 検閲対策で、掲載作品の方針を変えなくてはいけないのはわかります。でもそれで、先生の作品の連載回数まで短縮されるのは、どういう事情なんです? 」
弦也がそう言ったとき、小夜子は一瞬、弦也を睨み付けた。しかしすぐに片手で顔を覆って、力が抜けたようにソファに寄りかかってしまう。雑誌そのものの事情は別として、連載回数の短縮を申し渡されるのは小夜子の作品に何らかの ――― 例えば読者からの評価が著しく低いといった場合などの ――― 問題があるからだということは弦也にも察しがついた。そしてそれは小夜子の気位からして自分で口にしたくはないだろうと弦也は思い、自分が代わりに口にした。問われた星川は、やはり口にしづらいことなのかすぐには言い出さなかった。しかしすっかりぬるくなった茶を一気に飲み干すと、それで決心がついたのか話を始めた。
「 それにお答えする前に、今までも何回も申し上げていたことですがあえて今日、もう一度言わせてください。満原先生の小説は最高だと、僕は思っています。読者も、文壇も、もちろん会社でも高く評価されています。けれど、今この時代において、最高であると同時に最も問題のある作品とされてしまっていることも、事実です。銀鱗吹雪は、世にも美しさと残酷さがぴったりと身を寄せ合って、調和している。それだからこそ素晴らしい作品です。しかし、この時代はそんな素晴らしさの存在が認められない時代です。だから …… 」
星川はその先を言うのが心苦しいのか、そう言ったきり随分長く黙り込んだ。星川の話の内容は二人にとってあまりにも辛いものだった。しかし二人とも、星川自身には何の咎もないことは理解している。だから星川の言葉の続きを、ただ辛抱強く待った。
「 だから、この時代ではもう 『 銀鱗吹雪 』 は終わりにするしかないと考えました。もちろん、唐突に放り出すわけにもいかない。だから、今は無難な形で収めておいて、そうしていつかまた平和な時代になったときに、本当の続きを含めたものをもう一度、書いていただきたいと思っています。そして先生には、新しい企画に取り掛かっていただきたいと思っています 」
星川のその言葉に対し、小夜子は何も答えずただ静かに星川を見つめていた。それがそのときにできた、精一杯の意思表示だった。星川も小夜子の思いを察したのか、そこからは、星川と小夜子は制限の中で如何にこの作品を綺麗に終わらせるかを話し合った。時代への嘆きも作品への思いも封じて、二人とも淡々と、しかし真剣に打合せをする。密度の濃い打合せは、一時間ほどで終了した。終ると、二人はどっと疲れが出る。今まで額をつき合せるようにして 「 月刊現代怪奇小説 」 の前号や星川が会社でまとめてきたらしい資料を覗き込んでいたが、お互い自分の座るソファにどっと音を立てて背を預けた。弦也はそんな二人に、新しい茶と、お茶請けとして庭で採れた枇杷を出した。
「 やあ、弦也くんありがとう。こういうときに、甘いものは嬉しいなあ 」
「 本当はお菓子でもお出しできればと思ったんですけど、近頃じゃあなかなか手に入りづらくて 」
「 いやいや、枇杷も十分嬉しいよ。これだって近頃じゃずいぶん貴重だ。ありがたくいただきます 」
星川はそう言うと、早速皮を剥き始めた。そして食べ終わると、しばらく二人とも何も言わずに窓の外を眺めた。窓の外では、初夏の日差しを浴びて緑がつやつやと輝いている。やがて一陣の風が吹き、その緑を揺らした。そのざわざわという音が鳴り止むまで、その場にいる三人は何も言わずにその音を聞いていた。
風が止んで木々のざわめきの音が消えると、それがきっかけであったかのように星川は再び口を開いた。
「 実は、今日は他にもあと二つお話があります。お疲れかとは思いますが、もう少しお付き合いいただいてもよろしいですか 」
小夜子は答えるかわりに、背もたれから身を起こしてじっと星川の言葉の続きを待った。
「 銀鱗吹雪の終了後についてなんですが、先生には同じ雑誌で別の連載をしていただきたく思います。ただ、やはり検閲には配慮してという形になりますが …… 」
星川がそう言うと、小夜子はふ、と小さくため息をつく。
「 星川さん。『 銀鱗吹雪 』は連載の途中だったから設定もできていたし、不本意ですが検閲に差し障りそうなところを他の表現にするだけではあるから、さっきの打ち合わせ通りにもできるとは思いますわ。でも、お聞きした通りの制限の中でまったくの新作になると、私には……」
星川は、検閲についてかなり調べてきていた。会社が調べた分もあるだろうが、自分でも方々に話を聞いて回ったらしく手帳にはびっしりとメモが書き込まれていた。弦也も机の上に置いたままになっていたそのメモを覗き込む。
( ……酷い。噂は聞いていたけど、ここまでなんて。これじゃあ、先生は武器を全部取り上げられて丸腰で戦うようなもんじゃないか )
星川が映画での例として挙げた、艶っぽい場面についての制限の他にも、流血描写などについても弦也が考えていたよりもはるかに厳しく制限される様子だった。また、いわゆる「 悪 」の性質を持つような人物が魅力的に描かれるような場合についても、問題視される可能性があるという。これでは凄惨と可憐の落差の魅力も、おぞましい悪漢にたちまち親しみを抱かせてしまう輝かせ方も、小夜子の小説の肝とも言えるものが、全て許されない表現とされてしまっている。隠し味程度の艶っぽささえ、許されないということになる。
「 人体の中に血液が存在することを認めないようなもんだわ、こんなの。欲望や生き物としての素直ささえも許されない。こんな、こんな基準で小説を書いたら、そこに出てくるものはもう人間じゃない。そんなの、ただの石ころよ 」
小夜子の声が震える。星川はそんな小夜子を痛ましそうに見つめていたが、しかし意を決したようにはっきりと、こう言った。
「 そうです。次の作品は、最初から最後まで石ころしか出してはいけません。途中から輝いたり、逆に汚れたりすることも無く生まれたときの色で石ころのままでいる、そんな物語です 」
あまりの星川の言い様に、小夜子は唖然とした。それから唇を震わせ、ようやく声を絞り出す。
「 ……星川さん。あなた、本気で仰っているの? 」
弦也が入れ替えた茶の載った盆を持って客間に行くと、小夜子がそう言っているのが聞こえてきた。心なしかその声は大きくなっている。
「 無茶なお願いをしていることは百も承知です。しかしこれはうちだけの問題じゃあない。出版界全体に、国民の士気をあげる本をと、お国からのお達しが来ているのです。同じ雑誌の連載陣である三日山先生も、新井先生もそれに従って新連載を考えていらっしゃいます 」
「 国から言われただけでころころ作風変えられるなんてのは、元々大したものを書いてなかったってことよ。士気高揚させたいならそういうのが得意な作家に頼めばいいじゃないの。いくら戦争中だからってどいつもこいつも同じようなの書いてたら、読者が本そのものから離れていくわよ。星川さんは、いいえ満天社さんだってそれがわからないわけじゃないでしょう? 」
そう言うと、星川はテーブルに両手をついて深々と頭を下げた。
「 先生!どうか、ご理解してください!今この国で存在を認められているのは、国策に則ったものだけなんです。本だけじゃない、作家だってそうだ。けれど先生は、こんな時代を超えて生き残らなくてはならない作家でいらっしゃいます。今だけは耐えて、書き続けてください。こんな時代がいつまでも続くはずはありません。どうか、耐えてこの時代を越えてください 」
そう言って星川はテーブルに両手を付いて身を低くした姿勢のまま小夜子の顔を見上げる。小夜子の瞳は、ほんの一瞬だけ夜の湖のように冷たく凪いだ。そうしてすぐに、少しずつ少しずつ漣が立つ。星川は小夜子の瞳に現れた変化を、見ていられないというようにまた頭を下げた。
「 先生、今日は仕事の依頼の他に、もう一つお話があって参りました 」
そう言うと星川は土下座の姿勢をとき、ゆるゆると立ち上がる。そしてその場で敬礼をした。
「 ――― お別れを、言いに参りました。星川耕二、御国のために一命を捧げ戦地にて戦ってまいります 」
そう言うと、わざとおどけるように大げさな敬礼をして見せた。それを聞くと、先ほどまで紅潮していた小夜子の顔が今度はさっと白くなる。
「 先生。今は、文学に携わる者には苦難の時代です。それでも私は、満原先生にはどうかここで筆を折らずに作家としてこの時代を乗り越えていただきたい。乗り越えて、やがて来る新しい時代にもずっと先生の作品を世に残し続けていただきたいのです。そのためにはどうか、どうか今はお国の意向に沿った作品をお書きください。それが、この時代を超えていくたった一つの方法なのです 」
小夜子はそう言われて、すっと俯き星川から目を逸らした。星川のまなじりに、光るものが見えたような気がしたからだった。
「 次回からは、私の後輩の宇多田という者が担当をさせていただくことになります。本当ならば今日連れてきて紹介とご挨拶をさせていただきたかったのですが、何分私がもう明日には発たねばならず引継ぎをするだけで精一杯になってしまい、申し訳ございません。まだ若く未熟なところもありますが、誠実で真面目な気の善い男です。先生と共に、この時代を乗り越える方法を考えられる編集者になるよう育ててきたつもりです。どうかこれからも、ご贔屓にお願いいたします 」
そう言うと、星川は寂しげに微笑んだ。小夜子は何かをこらえるように数秒答えず俯いていたが、ようやく顔を上げると
「 新しい担当さんの件は、承知いたしました。星川さんのお気持ちも、作家としてたしかに受け取らせていただきました。今まで本当に、本当にお世話になりました。御武運を、お祈りしております 」
と言い、深々と頭を下げた。それから星川がいよいよ帰るときには、敷地の門まで星川を見送りに出て、その背中が夕焼け空の向こうに見えなくなるまでずっとそこで立ち尽くしていた。
その夜、小夜子は弦也に夕食はいらないと言ってさっさと自室に篭ってしまった。少し時間が経ってから、弦也がせめてもと思い茶とサツマイモをふかして小さく切ったものを持って小夜子の部屋の前まで行った。しかし、何も声をかけずそっとその場を離れた。障子の中から、小夜子の偲び泣くような声が漏れてきたからだった。




