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14.

 五月。

 弦也はこの時期に薔薇の花が咲いているのを見ると、いつも思い出す詩がある。誰の作かも覚えていないし、断片だけの記憶だが

 薔薇ノ木ニ

 薔薇ノ花咲ク

 何事ノ不思議ナケレド

 というものだ。春の花のたおやかさとも、夏の花の匂い立つ生命力とも違う五月の薔薇の神々しさは、世話をしている弦也でさえ神秘的なものを感じた。

 戦争が始まって以降、満原家でもかなり庭の花や木々が抜かれ、代わりに食糧になる野菜などが植えられた。しかし小夜子の住む離れの庭では三種類の薔薇を残していた。縁が紅く中心に向うにつれ黄色くなる一重の薔薇、小ぶりで花弁の数の多い明るい赤の薔薇、そして花弁の数は少なめだが一枚一枚がたっぷりと大きな白い薔薇だった。かなり剪定して小さくはあるが、この季節に凛と存在を匂わせている。

( 薔薇も色によって花言葉も違うらしいけれど )

 どの色を摘もうか迷っているとき、弦也はふとそんなことを思い出した。しかし、弦也は花言葉など知りはしない。少し迷ってから、何となく白い薔薇を三本、剪定鋏で摘んだ。そのまま台所に持っていき、流しで桶に水を汲んで水切りを行った。余分な葉も落とし、絞った雑巾で茎をしごいて棘も落とす。処理が済んだ薔薇は青い硝子の花瓶に挿して食卓に置いた。その後、まだ流しに置いたままになっている桶や雑巾を片付けようと振り返る。雑巾にはしごきとられた棘がいくつもくっついていた。いつもなら摘み取って桶に落とし、中の水と一緒に庭の隅に流してしまう。しかしそのとき、弦也は雑巾から棘を丁寧に摘み取って掌に乗せた。桶に落ちている分も拾って回収する。そしてそのまま自室に持ち帰ると、書き損じの原稿用紙に丁寧に包んで引き出しの中にしまった。

 その日の夜、執筆をする小夜子に茶を持って行く際に弦也は包んだ薔薇の棘も忍ばせていった。弦也が書斎に入ると、小夜子は書き物机には向かっておらず、だらしなくちゃぶ台に寄りかかっていた。

「 また捗らなくなってしまったんですか。締め切り前に限ってやる気を失くされますよね 」

「 またって何よ。それに締め切り前だからやる気がなくなるわけじゃないわ。そもそも締め切りがしょっちゅうありすぎるのよ 」

「 それだけお仕事の依頼が多いということでしょう。僕からすれば羨ましいお話ですけどね 」

「 大体あんたがぽんぽん仕事を受けさせるからいけないのよ 」

「 そう思うならお断りしたらどうです。僕は先生の許可なく出版社さんへの返事をしたことはありませんよ 」

「 執筆で手一杯なのにいちいち細かく吟味していられないのよ。私の弟子なら言われずとも調整なさい 」

「 …… 行き届かず申し訳ありません 」

 言葉の応酬の末に弦也が渋々そう言うと、小夜子がにっこりと微笑んだ。

「 責任を感じているなら、仕事を片付ける手伝いをしなさいな。そこの原稿、あと七枚膨らまさなきゃいけないの。私はもう疲れてて頭が働かないから、あんた適当にきれいに書いておきなさい。私はちょっと仮眠して、起きたら出来栄えを見てあげるからそれまでに仕上げておくのよ。七枚ぐらい、そのぐらいの時間でできるわね? 」

 小夜子がそう言うと、弦也は立ち上がりちゃぶ台を回って書き物机の方へ行った。しかし今にも椅子に座ろうとしたところで急にくるりと振り返ると小夜子がもんぺの上に着ている白いブラウスの襟を少し引いて、その中に紙に包んでいた薔薇の棘をざらざらと流し込んだ。

「 ちょっと何を……痛っ、やだ、い、痛い!何入れたのよ! 」

 小夜子は反射的に背中に手を伸ばすが、服の中に入ってしまったものがそんなことで取れるはずもない。

「 前にも言ったはずです。僕含め、読者は先生の作品をこそ待っているんですよ。ですから僕が代わりに書くなんてことはできません。でもそのためのお手伝いならいくらでもいたします 」

 弦也がそう言うと小夜子はその顔を睨み上げて

「 とりあえず部屋から出て行って。何を入れたか知らないけど服を脱いでこれを取りたいのよ 」

 と言った。しかし弦也は小夜子の怒気には一向に構わずに話を続ける。

「 先生、頭が働かないと仰いましたよね?人間は追い詰められたとき、普段の何倍も頭を回転させるそうですよ。ですから僕、追い詰めて差し上げているんです。ちなみに入れたのは薔薇の棘です。書き終えるまで取ることは許しません。さあ、休憩は終わりです。机の方へどうぞ 」

 そう言うと弦也は優しく促すようにそっと肩に触れたが、指先にだけは強く力を込めた。それで棘が強く食い込んだらしく小夜子は声にならない悲鳴を上げ、いよいよ怒りに燃える目で弦也を睨み付けた。しかし弦也はまったく意に介さず

「どうなさったんです?さあ 」

 と言い、今度は少し強く、肩を掴むようにした。そうすることで今度は複数の棘が食い込んだのだろう、小夜子はその痛みに弾かれたように立ち上がった。

「 僕も今日は一晩起きていますよ。卓袱台をお借りして、お側で学校の課題などを片付けさせていただきます。御用があれば何でもお申し付けください 」

 そう言うと小夜子が棘を取り除く暇を与えぬよう足早に自室に行き、すぐに学校の鞄を持って戻ってきた。弦也には服の中に投げ込んだ棘が、どのように働いているかはわからない。しかし棘は全部で二、三十粒程はあったと記憶していた。それが服のあちこちに引っかかり小夜子が身動きをするたびに背中のあちこちを引っ掻いていることだろうと弦也は思っていた。小夜子は今や目に薄く涙を浮かべ、これ以上痛みを受けるまいと身を固くしている。そして書き上げなければこの棘を取り除くことが許されないことをようやく悟ったのか、万年筆を握る右手だけはかみつくような勢いで動いた。

( 棘は白い薔薇のもので、その花と同じように白いだろう先生の背中に赤い血を流させる。これもまた「何事ノ不思議ナケレド」じゃあないか )

 とぼんやり思った。次にそんなことを思った自分が急に恥ずかしくなり小夜子に負けず劣らずむきになって教科書を覗き込んだ。

 それからは、時折小夜子の様子を伺って集中力が切れてきたなと思えばお茶を入れ替えたり茶菓子を持って来たり、そして時々棘が入っていそうな部分に手をかけたりした。そしてその度に、小夜子の纏う空気は再び張りを取り戻す。そして夜が明けるころ、小夜子の原稿はどうにか完成した。


 弦也が小夜子に必要なものを理解してからの一年は、こうして過ぎていった。弦也には「 小説を書くための閃きを得るには、相応の刺激が必要である 」という持論があった。その刺激はひたすら他の芸術に触れることであったり放浪の旅であったりと人によって様々だし、同じ人間であってもその時によって必要な刺激が違うこともある。そして、そのとき自分にどんな刺激が必要かを把握しきっている作家などほとんどいないだろう。弦也もそうだった。

( けれど、自分のことはわからなくても先生に今どんな刺激が必要かは僕には手に取るようにわかる )

 弦也はそのことが、ぞくぞくするほど嬉しかった。小夜子の筆が捗らなくなる。小夜子が駄々をこねる。それが合図であるかのように、弦也は小夜子に暴力を振るう。ときには趣向を凝らして。ときには単純に。するとそれまでが嘘のように小夜子の万年筆がさらさらと動き、世間を夢中にさせる凄惨で美しい物語が生み出される。弦也には、そうすることで物語を二人で作っているような感覚になっていった。そして、暴力を振るわれるからと言って日常生活の中では小夜子が怯えたり怒ったりすることは無く、執筆のとき以外は以前と何も変わらず我儘を言い、弦也を振り回した。弦也もまたそれを嬉々として受け入れる。弦也はそんな日々が永遠に続くようにと、毎日祈った。

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