10.
一月。その年最初の雪が降った。前日の夜から降り続けた雪は朝までにどんどんとその勢いを増し、朝、弦也が起きて雨戸を開ける頃にはふかふかとした雪が弦也の膝下まで積もっていた。最初こそ、東京には珍しいほど深く積もった雪に弦也は心が弾んだ。学校は休みだし、時折窓から雪景色を眺めながらの執筆なんていうのもおつじゃないかなどと考える。しかしその高揚は小夜子の
「 弦也、これじゃあお客さんがあっても来られないわ。雪かきしておいてちょうだい 」
という一言で消し飛んだ。
( 松が明けたその翌日でいきなり押しかけるやつもいなかろうに )
と内心毒づく。さらに小夜子は
「 そうそう、玄関の方じゃなく勝手口の方もお願い。あと、屋根の雪も降ろしてね。つららで窓が割れでもしたら大変 」
と追い討ちをかける。小夜子は言うだけ言うと弦也の用意した朝食を食べ、自分はさっさと書斎に引っ込んでしまう。弦也はもうずいぶん毛玉の増えた襟巻きを巻くと、仕方なく雪かきを始めた。
最初に玄関から門までの雪かきを始める。短い距離とはいえ、積もった雪の量が量だけに終るころにはそれなりに疲労を感じていた。屋根の雪下ろしに移る前に一息入れようか悩むが、一気に片付けようと考えた。まず屋根に上る前に目立つような大きさのつららをぽきぽきと折る。それから長靴を持って物置になっている二階の部屋へと上がった。屋根の上に出られる窓はそこにしかないからだったが、しかし大掃除の際に適当に置いてしまったせいで、まず窓の前に置いてあるものをどける作業からしなければならなかった。その煩わしさにげんなりしつつも、弦也は黙々と動き、すぐに窓の外への道をつけた。
( しかし、屋根の雪下ろしなんかしたことないんだよなあ )
窓の側で弦也は途方に暮れた。そんなことが必要になるほど雪が降ること自体が珍しかったし、今までそんな必要があったとしても弦也の実家では使用人がしたことだろう。
( 命綱を付けるべきなんだろうけど )
しかし、窓から身を乗り出してあたりを見回してもそんなものが付けられそうなところはどこにも見当たらない。仕方なく命綱は諦め、弦也は恐る恐るそのまま屋根の上に出る。屋根の勾配はそれほどきつくはない。滑り止めの付いた長靴を履いているしこれならどうにかなるかもしれないと、弦也は考えた。
( ちゃんとしたやり方は分からないけど、とにかく屋根から落とせばいいんだろう? )
ふうっと息を吐いて心を決める。まずは手前にある雪をシャベルですくい屋根の縁の方へ投げる。後で縁のあたりの雪とまとめて落とそうと考えてのことだった。途中一度足を滑らせたが、屋根の奥の方で作業をしていたために落下までは免れた。一通り屋根の縁まで雪を追いやってしまうと、いよいよ屋根の下に雪を落とす作業に移る。屋根の下をちょっと覗き込んで確認した後は、黙々と落とし始めた。ばさ、どさという音を立てて雪が落ちていき、屋根が掃除をされたように本来の瓦の色を取り戻していく。それが爽快で、弦也はだんだんと夢中になって雪を落としていった。しかし楽しくなってきた分、油断をしたのかみごとにつるんと足を滑らせる。そのまま見事に屋根の上で尻餅をつき、滑り台を楽しげに滑り降りる子供のように軽やかに屋根から放り出され、それから自分が落とした雪の上に背中から落ちた。
( 痛……くない )
落下した際の衝撃は思いがけず軽く、柔らかかった。落とした雪の山がクッションになったのだろう。
( はは、なんだろう、今の、ちょっと面白かった )
それほど高いところから落ちたわけではない。落ちている間の時間は実際には三秒もなかっただろう。それでも着地するまでの間、周りの動きがすべてゆっくりと感じられその奇妙な感覚が心地よくすらあった。
弦也はふと思い立つと自室へ行き、小夜子の小説を一冊持って屋根の上に戻る。それから一番好きな場面を開いて読み始め、そしてそのままふっと屋根から飛び降りた。いつか、小夜子の小説を読んだときにどこまでも落下していくような感覚に陥って、それが忘れられずに実際に高いところから落ちながら読むことができたらと思ったことがあった。つい今しがた落下の時間を何倍も引き伸ばされるような感覚を味わって望んだことと近いことが実体験できるのではないかと思ったのだ。しかし、そう思い通りにはいかない。文字が頭に届くより先に体が地面に届けられてしまった。
( 何やってんだ僕は )
雪まみれになって弦也はため息をつく。しかし、次の瞬間大きく身を震わせた。今更寒さが身に染みたわけではない。自分の更なる思い付きにぞくりとしたのだ。
弦也は雪を跳ね除け立ち上がり、それから犬のように体を振って体についた雪を落とす。それから強い足取りで家の中に入っていった。そしてそのまままっすぐ小夜子のいる書斎へと向かう。
「 ちょっと、嫌よ寒いのに 」
家に入った弦也は、ろくに書いてもいなかったくせに渋る小夜子をなだめすかして屋根の上に連れてきた。
「 まあそう仰らず。面白いものを見つけたんですよ、さあ 」
もんぺ姿で動きやすいとはいえ、屋根の上に立つ小夜子の足取りはかなり危なっかしい。弦也はそれを支えるようにして一緒に屋根の上に立った。
「 で、面白いものって何よ 」
「 もう少し屋根の縁の方に行っていただかないと見えませんよ、さあ、ゆっくり 」
弦也はそう言いながら小夜子の手を取り、少しずつ屋根の縁の方へと導いていく。もうあと半歩で屋根の縁という所まで来ると、弦也は
「 さあ、ここまで来たらあっちの方を見て下さい 」
と言って自分たちが今出てきた窓の方に体を向けさせた。
「 何……? 」
そう言って小夜子が完全に向き直った瞬間、弦也は小夜子を抱きかかえるようにして、屋根から飛び降りた。
( ああ、さっきは再現できなかったけど、先生と一緒なら再現できるんだ )
弦也は落下しながらうっとりと目を細める。それは、空気中を落下しているのではなくて青い水の中をゆっくりと沈んでいくような感覚だった。落下の勢いに乱される小夜子の髪が空中に描く図形も、もうすぐ雪も止むのだろう、遠くの方では雲の切れ間に青空の気配があることまで見て取れる。しかしそれは引き延ばされたとしても永遠の時間ではなく、すぐに軽い衝撃が弦也の体に伝わって魔法の時間の終了を告げた。
「 何するのよ!? 」
小夜子が弦也より先に飛び起きて弦也を睨みつける。弦也はまだ雪に半ば埋もれて横になったまま
「 怪我はありませんか? 」
と尋ねる。そう言われて小夜子は
「 ないわよ、ないけど!雪があったからよかったようなものの、そうでなかったらただじゃ済まなかったわよ! 」
「 そうですね。でも、面白く無かったですか?なんだか、落ちるまでの間の時間が辺に引き延ばされて景色がやけに鮮明に見えたりして 」
「 そうそう、なんか不思議な感覚だったわ。そうね、そう言われると、たしかにちょっと、面白かったけど …… 」
「 そう仰ると思いました 」
弦也がそう言って笑うと、小夜子は落下していたときのことを思い返すように少し黙り込んだ。それからじわじわと表情を明るくして
「 そうね……思ってもみない面白さだったわ。癖に、なりそうね? 」
と言いながら悪戯を覚えた子供のような顔で弦也を見た。弦也もそんな小夜子の表情につられて微笑む。それから
「 もう一回、飛んでみます? 」
と笑いながら言った。しかし小夜子はまだ笑みの余韻を残しながらもついと顔を背け
「 何言ってるのよ馬鹿。たまたま平気だっただけで何回もやったら危ないわ。もう雪下ろしはいいから、あったかい御茶でも淹れて頂戴 」
と言い、さっさと先に家に入ってしまった。
弦也はこのときのことを、小夜子と落ちていった感覚を、後になって何度も思い返した。しかし、あの場では大人の顔で弦也に呆れて見せた小夜子の方も少しは楽しんではいたのだろう、弦也は後に小夜子の小説にこのときのことを題材にしたとしか思えぬ場面を見つけたのだった。




