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ティアートロリアの謎  作者: えりせすと
第一間章
71/139

僕から彼女を奪わないでくれ

 初めて見た時、それが何なのか解らない程に美しくて神々しくて。

 僕の心を捕らえて離さない、そんな微笑みを浮かべてくれる表情に心を射抜かれた。


 身体が弱く外出も間々ならないという彼女の館へ、足繫く通ったのも最早遠い過去の話。



 横たわる身体を掻き抱いても。

 もう何時もじんわりと伝わって来たあの温もりは感じることが出来ない。

 その事実を受け入れるには僕自身の心は未熟で。

 けれどそれでもどうしても、その身体を離す事なんて出来なかったのだ。


 愛しい愛しい彼女。

 穏やかな月の光のように優しい笑顔がとても素敵で。

 絹よりも細い黄金の糸のような白金の髪を、手櫛で梳くのが好きだった。

 髪が指の隙間から零れ落ちて、その様子を見てくすくすと笑みを零す彼女が愛しい。


 まるで針の筵に等しい環境に置かれた僕にとって、彼女という存在は何ものにも変え難い――

 そう、生きる為に必要な存在だった。



 身体が弱い彼女とは、中々外へ外出しに行く事は出来なかった。

 本当なら、この世界を支えているという大木を見せてあげたかった。

 世界の果てをぐるりと囲っているという、大蛇を見せてあげたかった。

 全ての世界の時間軸と運命を握るという大泉を見せてあげたかった。


 けれど彼女は、淡く微笑んでこう言うのだ。


『貴方様のお話を聞いているだけで、まるでその光景が瞼の裏に再現される様です』


 己の目で見たくはないか、僕の話などで満足出来るものか。

 そう強く主張したところで、彼女はただ笑うだけだった。


『目に見えるものが全てではありません。

 人の心のように、世界の風景や光景だって必ずしも目で見るものが全てではないのです』


 答える彼女には、本当に僕が話す光景が見えていたのかも知れない。


 出会った当初でこそ、彼女は多少出掛ける事が出来た。

 その時間をもっと大切にすれば良かったのか、それとも少しでも長く稼動できる時間を得るためにもっと労わるべきだったのか。

 僕には何が正しいのかは解らないし、結局そのどれもを彼女が本当に喜ぶかは解らない。

 ただ、ただ、彼女は笑っていた。

 そんな彼女の笑顔を見て、僕も思わず口元が緩むのを感じていた。


 心地良い時間だった。

 その時間が何故永久に続かないのか、何故僕達は離れなければならないのか。


 ずっと一緒に居たくて、共に在りたいとそう考えて、僕は彼女の家を訪れた。

 どうか彼女を僕の館へ迎えさせて下さい、有り体に言えば彼女を娶らせて欲しいと、そう願った。


 最初は取り付く島も無かった。

 暫く足繫く通うと、だんだんと敵意を向けられるのを感じた。

 箒ではかれて舞い上がる砂埃が僕を包み込んだ。

 水の入った桶を倒されて全身ずぶ濡れになった。

 一番酷いのは犬を嗾けられた事だろうか、あれからどうしても犬は苦手だ。


 単なる友人だと思い招いていたというのに、実際は彼女を狙った好色男だと判断されたのだろう。


 彼女はその館の誰からも好かれていた。

 両親を筆頭として年の離れた兄や血族、また使用人の全てに愛されていた。

 唯一残念なのは彼女の身体の弱さだったのだろう。

 ある王族の血を引く女性は短命なのだ。


 その王族は神に愛されている、と言う神話聞いた事がある。

 神に愛されているから、だから早く人界から神界へ呼び戻す為に短命なのだ、と。


 それが彼女だという。

 ……何故彼女なのだろうか。


 心穏やかに過ごす事が出来ずに二十年以上を生きてきた、僕の。

 凍りついた心を溶かしてくれた彼女が、何故。

 初めてその話を聞いた時は、思わず呼吸を忘れた。

 胸中に渦巻く泥や澱みが胸から喉にかけて詰まって、咳が止まらなくなった。

 苦しい、辛い、悲しい。

 そんな感情を抱きながら、流れる涙もそのままに彼女を抱き締めた。


 労わるように僕の背中を撫でて、ぽんぽんと優しく叩いてから、彼女は言った。


『私は貴方様と会えました。

 それだけで十二分に幸せを感じています。

 この世界に生れ落ちた日より全ての人間は、命の時間が決まっています。

 だから大切な時間の少しの間でも、貴方様と共有出来たことが、とても嬉しいのです』


 だから、泣かないで、と。

 笑顔を作りながら言う彼女は、僕よりもその瞳を涙で濡らしていた。

 その事を恐る恐る指摘すると驚いたように両の手で目をごしごしと擦って涙を拭い、ばつが悪そうに笑った。


 本当は一緒に居たいのです。


 たった一度、その時だけ、彼女は恐らく本音を漏らしてくれた。

 けれどか細くて衣擦れの音にすら掻き消されてしまいそうな呟きは、僕の耳には届かなかったのだ。

 吐息かと思った、それほどまでに小さく弱い、この世に残してはいけない言葉の欠片。



 美しい彼女は、結婚適齢期と言われる二十になっても館から外へ出る事は無かった。

 まるで御伽噺のお姫様の様に、自室の寝所から抜け出る事も無く、ずっと変わらずそこに居た。


 出会った頃より確実に、彼女の覚醒時間は短くなっていった。

 だからもう、どうなっても良いという想いから僕は強硬手段を取った。


 深夜に彼女の寝室に忍び込んで、寝ぼけ眼の彼女に囁いた。


 貴女の残りの人生を、僕にくれないだろうか。

 僕は貴女の為に生きて、貴女の為に死にたいのだ。


 目が覚めた時に僕が隣に居たのは、初めての事で、彼女はとても驚いていた。

 けれど直ぐに何時もの微笑を浮かべて、返事をくれた。

 互いに同じ気持ちだという事を確認し合ってから、改めて僕は翌朝に彼女の館を尋ねた。


 視線で射殺されるかと思った。


 館に存在する彼女を除く全ての人間、また生物から、殺気の篭った視線を向けられた。

 それでも僕が死ななかったのは、隣にいる彼女が僕の手をずっと握ってくれていたからではないだろうか。

 そして優しく言ってくれたのだ。


『此の侭、命潰えるまで生を全うするだけだと思っていました。

 けれど少しだけ欲が出てしまったのです。

 お父様、お母様、そしてお兄様。

 私の最後の我が儘です。

 少し、少しの時間をこの方と過ごしたいと願います』


 面々の表情に絶望が混じっていた事になんて、気付かなかった方が幸せであっただろう。

 けれどその顔を見てしまったし、それだけの事を僕と彼女はしてしまったのだと思った。

 それで、それでも。

 何を犠牲にしても僕は彼女を手中に納めたいと思ったし、残り少ない時間を一秒ですら離れていたく無かった。

 本当は彼女がどう思って何を考えていたか……なんて、その当時に僕にはどうでも良い事だったんだ。


 彼女を僕の館に迎えてから直ぐに、画家を呼んだ。

 一枚の絵として、僕と彼女が共に在った証を残したくて、依頼を出した。

 画家は立ち姿を要求したが、絵を描き上げるまでの長い時間を彼女が立っていられる筈も無い。

 妥協案として僕には立つよう要求されたものの、彼女が僕の手を握って離してくれなかった。

 これならば仕方ないだろう? と笑ってやると、仕方なしという表情で画家は筆を取った。


 隣に座って背を伸ばす彼女は綺麗だった。

 少し幼い彼女は、言われなければ二十を超えた妙齢の女性には到底見えないだろう。

 本当ならば十と少しも生きられない可能性もあって、それでも生を歩んでくれた彼女には感謝しかない。

 だから出会えた、だから彼女と共に在れる。


 何時か、そう遠くない未来に壊れる幸せでも、僕は良いと思ったんだ。



 身体が弱いだけで、決して彼女は病弱では無かった。

 だから無理さえさせなければ交わる事も出来たし、子を宿す事も出来た。

 彼女の命と引き換えになるかもしれない子など欲しくない、そう吐き捨てると彼女は悲しそうな顔をした。


『私の生まれ持った定め、血族は続かせて行かなければならないのだと思います。

 それに私はこの世界に生まれ落ちた証として、貴方様との愛が在った証として、愛しい我が子をこの腕に抱きたいのです』


 ここまで言われてしまうと、反対は野暮だと考えた。


 彼女が出産を終えるまでは、これまで以上に僕は彼女に付き従って労わった。

 その甲斐あってか生まれた我が子は、彼女に良く似た珠のような女の子。

 僕に似なくて良かった、とか例え我が子であっても彼女が僕以外の男に触れなくて良かった、とか。

 そんな気持ちを押し殺して、その小さな生き物をその腕に抱いた。


 大切な二人を微笑ましそうに眺めていた彼女だが、その顔色は蒼白だった。

 赤子を寝かし付けてからも気丈に振舞う彼女を強く強く抱き締めた。


 小さな娘はある時、大きな火傷をした。

 傍に居た使用人を叱責したものの、どうやら発火原因は娘であるようだ。

 僕はどうしてこんな小さな娘が火を、と信用していなかったが、彼女は理解したようだった。


 彼女は優秀な術式師だったそうだ。

 館の自室でいくつもの新しい術式を編み出し、それを世に出していた。

 少しでも何かを世に残したかった、と彼女は言った。

 元々才能があったらしい彼女は、術式師の間では知らない人間が居ないほどの知名度の高さを誇った。


 その才能が丸々そのまま、娘に受け継がれてしまったようだ。

 しかし僕という混じり気が入ってしまったが為に、娘では単独での制御が出来ない、と。


 それからは三人で、術式を学ぶ日が増えた。

 娘も三つを超えると物覚えも良くなり、幼児期にあった暴発なども無くなった。

 火も水も風も雷も、そして光も闇も。

 二人に掛かれば自由自在、出来ないことなど何も無いと言えた。


 そんな楽しい日々も、彼女が床に伏せるまでのたった数年。

 十にもならない娘はただただ何時もと変わらない笑顔で、彼女に接していた。

 女性は短命の血筋であるということも、娘はとうに知っていた。

 全てを彼女は娘に伝え、そして彼女の役目が無くなったのだろう。


 何が、神だ。

 僕は天に向かって吼えた。


 空に浮かび続ける赤い月、あの月にこそ神が住むと言われている。


 彼女の命を奪って、あの赤い月に隔離するつもりか。

 こんなにも必要としている人間の気持ちなど、どうでも良いとでも言うつもりか。

 小さな娘にまで理解し納得させて、感情値を蔑ろにして彼女を奪っていくつもりか。


 何を思っても、結局はただ一つだけ。


 僕から彼女を奪わないでくれ。


 彼女は僕のもので、僕は彼女の為に生きているというのに。


 その願いは届かず、彼女はそっと眠るように息を引き取った。

 僕の隣で、何時ものように就寝し、そして二度と起床しなくなった。


 まだ温もりの残るその体を抱き締め、時間と共に消えていく温もりを追いかける様に口付けた。

 冷たい唇に、滑らかな肌に、艶やかな髪に。

 もう彼女が微笑む事は無く、言葉を発する事も無く、僕を抱き締めてくれる事もない。


 ほんの今まですぐそこにあった、その大切なものが。

 形の感触だけを残して、永久に消えてしまった。


 その事実を受け止めたくなくて、受け入れたくなくて。


 特別に設えた、繊細な装飾を施した、棺。

 どうしてもその中に彼女を横たえる事が出来なくて、空の棺を埋葬した。

 娘は知らないはずだ。

 そして彼女の血族は誰一人呼ばない、閑散とした葬儀が密やかに執り行われた。


 彼女の墓碑には、彼女が僕の最愛の妻であったという名だけを刻んだ。

 僕だけの彼女、僕だけの愛しい彼女。

 また再び共に歩める時までは、そっと名前を眠らせておいて。



 僕――否、私は考えたのだ。


 もしかしたら、あの赤い月から彼女を取り返す事が出来るのではないか、と。

 そうすれば今度こそ、彼女と共に永久を生きることが出来るのではないか、と。


 術式という、この世と重なり合った源素世界を主軸に世に具現するこの力で。






 目的を定めた彼。

 一心不乱に脇目も振らず、願いを叶える為だけに動く。

 その日から、彼の名が世に轟くまでそう日は掛からなかった。

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