抱き締めておいてあげる
唐突に、顔面に衝撃が走る。
簡単にこの衝撃を説明すると、なんと言うかつまり――
痛み?
憮然とした顔で、ずきずきと痛む右頬を擦る。
ひんやりとしたフィアナ自身の手が、衝撃により熱を帯びた頬に心地好い。
とは言っても、痛いものは痛い。
何だったのか、と辺りを見渡す。
キョロキョロと周囲を警戒するフィアナの背後にて、碧色の毛皮が揺れていた。
しばらくしてからやっと彼女が気付く。
碧の鼬が可笑しそうに、丁度フィアナの真後ろで毛繕いをしていた。
最初はきょとんとその様子を眺めていたが、ふと得心がいったとでも言う風に、眉根を寄せる。
そう言えば、頬に来た衝撃の前後に何だかもふもふした感触があった。
もしかして先程のは、この鼬だったのか。
自らの答えに半信半疑で再度鼬を確認する。と、毛繕いを止めてフィアナを見つめ返す鼬。
可愛らしい円らな瞳がフィアナを捕らえて、そして――。
にやっと、笑った。
瞬きをする間よりも早く、頭に血が上った。
怒りとかそういった感情でもなく、けれど確かに何かの感情が彼女の脳内に浸透する。
冷静な思考では決してない。
けれどもこの衝動に身を任せてしまいたい、と望む自分自身を彼女は感じた。
「こっ……この、小動物め……!」
ギリリと奥歯を鳴らして、フィアナは椅子から立ち上がった。
そんな彼女には既に興味を失ったとでも言わんばかりに、鼬はぷいっと顔を背けて、尻尾を揺らしながらもぞもぞと何かを始める。
後ろから覗き込むように見ると、どうやら小さく千切られて鼬の両手に収まる程度の大麦パンらしい。
それを両手でしっかりと抱えて、もぐもぐと食事を始めた。
咀嚼する度にポロポロと、口の端か手の隙間かわからないところから、パンクズが零れる。
しかし、容赦ない一撃を女性の頬に叩き込んでおいて、その同じ室内で優雅に食事を始めるとは。
そんな豪胆さを持ち合わせたその精神には尊敬の念を送るが、それだけでフィアナの気持ちが治まる訳もない。
音をなるべく立てないように、後ろから近付く。
気づかれないように、細心の注意を払いながらそっと体を持ち上げるべく両手を伸ばして。
風を切るような音と共に、今度は此方の両手が弾かれた。
赤い唇の端から、うふふ、と笑みがこぼれる。
先ほどから此方が大人しくしていれば、調子に乗ってビシバシ尻尾なんかで叩いてくれちゃって、まぁ。
容赦ないその姿勢に、此方こそ容赦してはいけないのだ、と考えた。
素早い相手を捕らえる為に、術式陣を構築して緑の源素を流し込む。
その術式陣が鼬を捕らえるように網状に覆い被さり、後は術韻を唱えれば術式が発動する、という段階で。
鼬が尻尾を振るうと、一瞬で術式陣がかき消される。
反射的に息を呑む。
集中が切れた訳でもなく、当然のように目の前の小さな存在が、此方の術式陣を消した。
妙な手法で干渉してきたその存在に対して、術式などの小細工は効かないということか。
いっそ物理的に、こう……。
そう考えて恥じも外聞もなしに、飛び掛って抱きかかえてしまおうかと思った時。
ふと風が、流れた。
「……フィ、ア……ナ」
誰かが呼ぶ声がする。
穏やかで、優しくて、少しか細くて。
そういえばもう数日も喋っていないのだ、声がかすれるのは当たり前。
ずっと寝ていたのだから、上手く動くことが出来ないのも同じ。
待ち望んでいた。
この時を、本当に待ち望んでいたのだ。
両手を広げて、その腕の中に抱き止める準備をした。
辺りの動きがゆっくり、穏やかに。
――がしっと、抱き締めた。
「捕まえた、やっと捕まえた!
もう逃がさないわ、ずっとずっとこうやって抱き締めておいてあげるんだから」
頬ずりせんばかりにぎゅーっと抱き締めて、そう言うフィアナ。
その腕の中の彼は、何も文句も言わずに大人しくしていた。
「えぇ、と……えっと、フィアナ?」
「何か文句でもあるの?
あったとしても言わせないわ」
「否、それは構わないし……俺は特に文句もないけど」
「なら良いじゃない、何の問題もないわよ」
そう言う彼女に対して、少し困惑した表情を向ける。
全てを黙殺して、フィアナは続けた。
「この、小動物!
いったい私の何処が不満だと言うの!」
腕の中の鼬を抱き潰さんばかりに強く抱き締めて、そう言った。
そんな彼女を横になった視点から見ているのは、ようやく目を開けて不自由な体を起こそうとするジークルト。
数日とは言え完全に寝てばかりだったため、起き上がるのも一苦労だ。
ふとそこで、フィアナが振り返った。
ベッドの上で彼女の方を見つめるジークルトと目が合い、腕の中の鼬を反射的に解放してしまう。
一瞬の隙をついて鼬は腕の中から逃げ出し、窓から外へ飛び出して行ってしまった。
あ、と声を漏らしてその背後を目で追いながらも、フィアナはその場に留まって言った。
「べ、別に……いつもあの鼬と、戯れていた訳ではないのだからね」
ぷい、と顔を背けるそんな彼女に向かって、上体だけを起こしたジークルトは苦笑した。
「解っているよ」
「本当、だもん」
「大丈夫、解っている。
だからそう拗ねないでくれよ、フィアナ」
ほんの一瞬であったが、ジークルトの事を忘れてそのまま他へ意識を持っていかれていた。
特に気にする事でもないはずなんだが、『彼が目覚めたら最初にお礼を言おう』とそう思って付き添っていたのに、まさか……である。
少し前に戻ってやり直したいと願うが、それも叶わぬ夢である。
諦めるしかない、そう己に言い聞かせて、ジークルトに向き直る。
髪の毛はずっと寝ていたからか、ぼさぼさだ。
体だけは定期的にレオノーラが拭いてはいたようだが、フィアナは術式以外にはあまり詳しくない。
献身的に世話を焼くレオノーラを見て、感嘆の溜息を漏らしてしまったくらいだ。
そっと、彼に近寄って頭に手を添える。
ふわりとした髪の感触があって、安心した。
「おはよう、ジークルト」
そっと声を掛ける。
壁に凭れるように上体を起こして固定した彼は、そんなフィアナを見つめて少しだけ微笑んだ。
「おはよう、フィアナ。
調子はどうだい」




