それこそが本当に愛なのか
高圧縮された風の刃は、その形を保ち続けるらしい。
ジークルトの背中に突き刺さった刃は姿を失う事無く、彼の背中へ突き立っていた。
首筋に刺さらなかったことはとても僥倖だったのではないだろうか。
それでも肩口から背中、腰にかけては形を成した刃がその半身を表面から生やしていた。
胃から何かが込み上げて、嘔吐しそうになる。
胃液なのか外から内が傷つけられた為に逆流しそうになっている血液なのか解らない。
しかし込み上げる何かを無理矢理に嚥下しながら、ジークルトは剣を引いて後退する。
あの円月輪は単なる術式を放つ為のものではなかった。
六色で放つ攻撃に紛れ込ませて、物理的に此方の攻撃を防ぐ為のものだったようだ。
本来なら投擲武器として扱い、強度もそこまで高くないものである。
それを術式にて強化した上で通常時は単なる発動のみの様子を見せながら、本体の傍へ近接攻撃を仕掛けるものに対して反応する。
恐らく下手に防御の為の結界を張ったり、人を配置するよりも効果的なのではないだろうか。
大きさも決して大きくなく小回りが利き、その上で強化された武具は通常の剣では傷つける事が出来ない。
術式を放つ時にだけ色を増す、発動の補助などを行うようなものだと誤認したのも仕方ない事かも知れない。
術式師は元々、最終的な自分の身を守る防御方法についてはそうそう語らない。
それが見破られる時は明らかな不利を生む上に、同時に攻撃方法や防御方法も失ってしまう事になるためだ。
ジークルトが女に対して、術式のみで戦う術式師だという誤った判断を下してしまったのは、最初から一貫して彼女が円月輪を武具としての扱いをしなかったからと言うのもある。
攻撃は全て術式で行い、ほんの瞬間でも彼はあの周りの六つの色の中心に円月輪があるという事を失念した。
術式での何かであれば剣をとめられる事などなかっただろう。
彼の剣自体が術式に対しての有利性を誇る金属にて鍛えられている上に彼自身が術式を斬るという事を強く意識している以上、どれだけ強固に固められた術式であっても完全に無効化される事などなかった。
しかし実際には術式でだけの物体ではなくて、中心部に円月輪という武具が潜んでいた。
その為に彼の剣は防がれ留められ、一瞬の隙を誘った。
肌が裂け血が滲む。
異様に背中が熱く傷口からどろりと液体が零れる。
上着も肌着も、ゆっくりと赤が、否空気に触れて酸化し薄黒くなった血液が、侵食していく。
背骨の近くや肩甲骨の下辺りにまで刃が刺さった為に、腕を動かしたり体を曲げる事によって妙な違和感を伴う。
それでも術式での刃が消えていない為に出血量は抑えられていると言っても良い。
下手に背中に力を入れてしまうと、また無駄に血を流してしまいそうになる。
あまり女との距離を空けてはいけないとも思うのだが、後背部からじわじわと手足に広がる鈍痛が思考を奪う。
笑みの形にゆがんだ唇をそのままに、女が目を細めた。
「驕り昂ぶる姿勢はあまり良いとは言えません」
鈴の音のような涼やかな声音で、言葉を口にする。
先刻人間に向けて術式を放ったとは思えないほど穏やかな物言いだった。
「これを最終警告と致します。
引いて下さいませんか、貴方は私たちの問題とは無関係でしょう。
それに――可能ならば私は、ユングが望んだ綺麗なままのイズシェラリスで居たいのです」
「綺麗、だと?」
「そう、その通りです。
ユングが望むイズシェラリスは、穏やかに笑い世の中の穢れを知らず彼だけを愛する。
容姿の美しさだけではなく身も心も、彼が愛するに相応しい女性で在らねばならないのです。
ですから――」
そこで一度言葉を止めて、一拍置いた後に続ける。
「穢れに触れて手を穢す事などあってはいけないのですよ」
一瞬、背中の痛みも忘れた。
穢れ? 穢れと言ったかこの女。
確かにジークルトはこの世に生を受けて二十六年。
全うにお綺麗な人生を歩んできたかと言うと、そういう訳では全くない。
人様にもお天道様にも胸を張って誇れる人生かと言われても、残念ながら首を傾げて数秒後に土下座でもするような生き方だったかも知れない。
しかし。
しかしそれでも。
彼自身は望んでその生活を――所々強制された部分もあるが――可能な限り、取得選択して選んだ人生を生きてきた。
その全てを、穢れと言い捨てられる事などない、はずだ。
「……確かにお綺麗なお姿ですしね。
街の男共は喜んで平伏して貴女の前から姿を消すだろう。
自ら望んで自害する人間が居たとしても可笑しくはない」
「其処までは私も求めませんよ」
そういう話ではなくて。
気が緩みそうになるが、背中の痛みが意識を繋ぎ止めてくれた。
否寧ろ背中の痛みの所為で、意識が失いそうになっているのだろうか。
何故か少し嬉しそうに微笑みだした女の顔を見ながら、思う。
最愛の女が――此れで良いのだろうか。
肩口から流れ落ちる血液が腕を伝い柄まで流れ落ち、握る手が滑りそうになる。
親指と人差し指に力を入れながら右手の剣の柄を握りなおす。
ブリュンヒルデ、教えてくれよ。
もし本当に俺が愛した女が蘇ったら、一体俺はどう思うのだろうか。
また再び、その相手と幸せな恋愛を行う事が出来るのだろうか。
今度こそと強く強く願いを込めて、その柔らかな体を抱きしめてやる事が出来るのだろうか。
そしてその唇に接吻をして、首筋に舌を這わせて全身を掌で愛撫してやる事が、本当に出来るのだろうか。
一人の女を盲目的に愛し続けてどんな手を使ってでも存在を繋ぎ止めて、それこそが本当に愛なのか。
「私が求めるのはユングただ一人です。
その他の全ての存在は、私がユングを愛する為の礎となって構わないでしょう?
だから、彼が生み出した全ては私とユングの鎹であるべきではないでしょうか」
うっとりと天を仰ぎ見るその女は、語る。
まるで初めて恋を知った少女が、近くの大人にその恋愛を語るように。
きらきらと瞳を輝かせて、その恋はとても尊いものだとでも言われたいのだろうか。
ちらりと背後を振り返ると、少し遠い場所にてフィアナが此方を見詰めていた。
その瞳は驚愕に見開かれ彼女の周りの術式の結界が僅かに揺らいでいる。
声は聞こえないはずだが何を動揺しているのだろうか。
そう考えて、気付く。
恐らく彼女はジークルトの体から流れる鮮血で、彼自身の衣服が赤に染まるのを見て、それで。
血に縁がないお嬢さんなのかなぁとぼうっと考える。
慣れていたとしてもそうでなくても、見知った相手の体が見る見る赤に染まる様は単純に心を揺さぶられる出来事であるのだが。
そんな思考を振り払うべく、ジークルトは地面を蹴り踏み抜くと、女の傍へ身を躍らせる。
相手が何か動きを行う前に右手の剣を弓を放つように彼女の首筋の直ぐ傍へ突き出した。
表情を変えずに、ゆっくりと女は視線を天から彼へと下ろす。
その瞳には確かにジークルトが映ってはいるのだが、光がない。
身長差からどうしても少女である彼女は彼を見上げる形になる。
空にはまだ太陽があり光を放っているのにも関わらず、その瞳には光なんてひとかけらも映りこまなかった。
「残念ながら世には出来る事と出来ない事、というものがあります」
そっと女は口を開いた。
「貴方もフィノリアーナも、このユノの身体を傷付ける事は出来ないでしょう。
幾ら武具で牽制しようとしても、武具は相手に対して振り下ろしてこそ。
振り下ろされる事がないと知った武具に対して、戸惑いや躊躇いを覚える存在は居ませんよ」
微笑みすら浮かべたままの女は、そう言うとジークルトの剣に触れようと手を伸ばす。
反射的に彼は剣を引いて、結果。
掠ったのかは解らないが僅かに少女の手の表面に、一筋の赤い線が入った。
ぴくり、と手を反応させた後に、ゆっくりとその線に赤い舌を這わせる女。
笑みが消えて、その瞳がギラリと輝きを放ちその上で鋭い視線がジークルトを捉えた。
同時にジークルトの背中に突き刺さったままだった幾重の刃が消滅する。
傷口を塞いでいた蓋の役目も担っていた刃が消滅した事によって、体内の血が我先にと対外へ出ようとするのが感覚で解った。
手足の感覚が更になくなりぐらりと意識がぶれて体が横に傾き――
「放て!」
短い叫びと共に、彼の直ぐ横を六色の光の濁流が、女に襲い掛かるのが見えた。




