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第1話:第8部:新世界への第一筆

「……サシャ」


残り十秒。オレンジ色の警告灯が最後の瞬きを急ぐ中、レンは背後で血を流し続ける相棒に向けて、短く、しかし確かな響きを持った声を落とした。

「あんたの言う通りだ。清掃員が、新しい部屋の居心地を怖がってどうする。他人の忘却の穴ぼこを散々片付けてきたんだ、自分の新しい家くらい、最高に綺麗に使ってみせるさ」


サシャは虚空を見つめたまま、血に染まった口元をわずかに綻ばせたように見えた。

「カウントダウン、終了。――行ってらっしゃい、レン。新しい世界の、ファーストペンギンになりなさい」


直後、レンの網膜から物理世界のすべての光が剥奪された。

しかし、先ほどまでの強制的なデタッチメントに伴うパニックは微塵もない。システムによる一方的な「削除」の濁流に飲まれるのではなく、レンは自らの強靭な意志を楔として、量子化していく自己の論理構造を束ね上げた。

意識が、漆黒のパイプの中を猛烈な速度で滑り落ちていく。だが、もはやそれは落下ではない。自ら目標座標を定め、次元の壁を突き破る「飛翔」だった。


ガキンッ、という、世界の重力軸が完全に反転する巨大な音が、仮想の脳髄に響き渡った。


次にレンが目を開けたとき、そこにはもう、不快な目眩も、肺を焼き切るような息苦しさも存在しなかった。

完全なる位相潜行ダイブの完了。

彼は、あのセピア色の夕暮れに沈む教室の、窓際に立っていた。


一時的な下見の時とは、すべてが根本的に異なっていた。

今のレンは、ただ周囲を漂うだけの希薄な観測者ゴーストではない。彼自身の『存在の質量』が、この空隙座標・マルなな二の論理構造にガッチリと噛み合い、彼を一つの確かな「実体」としてこの世界に定着させているのだ。

全身の細胞――今は純粋なデータと概念によって構成されたその仮想肉体の隅々にまで、物理世界では決して味わうことのなかった、圧倒的な全能感としなやかな軽さが満ちていた。重力に縛られるのではなく、自らの意志が重力を定義しているような感覚。壁の木目、黒板のチョークの粉、空気中の絵の具の分子。そのすべてが、自分の皮膚の延長線上にあるかのように、極めて高い解像度で知覚できた。


『……ザザッ……レン……応答、して……』


不意に、教室の空間そのものの奥底から、激しい静電気のノイズに塗れたサシャの声が響いた。

物理世界の事務所に取り残された彼女は、今もあの焦げ臭いポッドの中で、アーキテクトの強大な削除プロトコルと死闘を繰り広げながら、レンのいるこの余白空間との間に極細の通信回線を維持し続けているのだ。声は鼓膜を震わせるのではなく、夕暮れの光の粒子そのものから染み出すように、レンの意識に直接語りかけてきた。


「聞こえてる。見事な引越しだった、サシャ。そっちの無茶なハッキングのおかげで、俺の存在波形はこの空間に一ミリの狂いもなく適合している」

レンは窓枠に実体化した手を置き、その確かな硬さを確かめながら静かに答えた。「最高の気分だ。ここには、アーキテクトの息が詰まるような監視の目もない。物理世界にいた頃よりも、ずっと世界の息遣いを近く、そして生々しく感じる」


『……ザザッ……よかったわ。でも、退屈しないでよ……? そこは、名もなき美術学生が放棄した、十四分間のループ……。時間が来れば、空間の因果律がリセットされ、また最初の状態に……ザザッ……。現状維持と停滞が、その世界の絶対ルールよ』


「退屈なんてしている暇はなさそうだ」

レンは、部屋の中央に鎮座する木製イーゼルへと歩み寄った。足裏が床のワックスを踏みしめる、キュッという小気味よい音が教室に響く。

「ループするなら、その檻を壊すまでだ。この空間は『何色にでも染まれる保留地』なんだろう? 彼女が思い出すのを諦め、行き場を失った熱量を、俺がここで新しく塗り替えてやる。十四分間あれば、一本の線を引くには十分すぎる時間だ」


イーゼルの上には、瞳の空白だけがぽっかりと残された少女のスケッチ。

その横の机には、醜く濁った暗褐色の絵の具がこびりついたパレット。


レンは、パレットの横に置かれていた一本の古い筆を手に取った。

指先に触れる木製の軸の感覚は、物理世界で何千回と握りしめてきた重い位相ブラシの金属柄とは全く違う。しかし、不思議なほどレンの手に馴染んだ。それはもう、他人の忘却を掻き集めるための清掃道具ではない。自らの意志で世界を創造し、空間の法則を上書きするための、たった一つのハッキング・ツールだった。


なぜ、この美術学生は混色に失敗し、脳を焼き切らせたのか。

レンにはその理由がはっきりと分かっていた。彼女は、このセピア色の夕暮れという「既存の環境」に調和する正しい色を探そうとして、周囲の空気に引きずられ、濁った黒を混ぜてしまったのだ。物理世界で、システムという巨大な環境に適合しようとして、自分をすり減らしてきたかつてのレンと同じように。


(調和など、させる必要はなかったんだ)


レンは目を閉じ、仮想の脳髄の奥底に意識を集中させた。

物理的な絵の具などいらない。彼が今からカンバスに落とすのは、彼自身の魂の底から引きずり出した「感情の概念」そのものだ。


思い出す。あの白い病室を満たしていた、冷徹で空虚な「白」。

それは父親が過酷な世界から逃避するために築き上げた、外界のすべてを拒絶する絶対的な虚無であり、同時に最も純粋な自己の避難所シェルターの色だった。

そして思い出す。薄暗い事務所で、自らの脳を焼いてまで自分を繋ぎ止めようとした、サシャのホログラムの「青」。

それはシステムという冷徹な合理性に反逆し、たった一人の他者と強引に繋がりを持とうとする、血を流すほどに鮮烈で、狂おしい執着の色だった。


「虚無の白に、執念の青を」


レンの意識の中で、二つの極端な概念が激しく衝突し、そして一つに溶け合っていく。

目を開いた彼の瞳孔の奥で、強烈な光がスパークした。

右手で握りしめた筆の先端に、論理空間のエネルギーが物理的な光を伴って凝集し始める。それは、深海の底の絶対的な静寂と、晴天の大空の無限の解放感を同時に宿したような、未だこの世界の誰も見たことのない、圧倒的で純度の高い『奇跡の青』だった。


忘却という何もない静寂(白)の中に、最も鮮烈な異物(青)を突き立てること。

それこそが、凍りついた空間を「前進」させるための、唯一のトリガー。


「描かせてもらうぞ」


レンは、筆先をカンバスに落とした。

少女の空白の瞳に、その『奇跡の青』が一気に滑り込む。


――その瞬間、世界が爆発した。


音のない、しかし途方もない破壊力を伴った色彩の衝撃波が、イーゼルを中心に円心状に広がった。

セピア色の琥珀に凝固していた教室の空間全体が、レンの放った青い光の波紋に激しく殴りつけられ、ガラスのように粉々に砕け散る。

網膜を焼き尽くすような強烈な閃光ののち、世界は劇的な変貌を遂げた。


失われていたあらゆる色彩が、怒涛の勢いで世界に還流してくる。

床の木目はくすんだ茶色から、生命力を帯びた鮮やかな焦げ茶色へと脈動し、黒板には吸い込まれるような深い緑色の陰影が宿る。壁の小さな傷跡すらもが、光と影の明確なコントラストを取り戻した。

そして窓の外――永遠に凍りついていた鱗雲が、猛烈なスピードで形を変えながら大空を流れ始め、夕日はその黄金色の輝きを限界まで増して、空間全体がまるで一つの巨大な生命体のように大きな拍動を打った。


止まっていた時計の針が進む。

十四分間のループという強固な檻が、レンの最初の一筆によって完全に融解し、無限の未来へと続く直線的な時間軸へと再構築されたのだ。


フワリ、と。

窓の隙間から、心地よい、少し湿り気を帯びた強い風が吹き込んできた。

それは物理世界の汚染された風ではない。人間の感情の熱量が産み落とした、最も純粋で、生々しい「夏の終わりの風」だった。風は白いカーテンを大きく煽り、イーゼルの上のスケッチブックのページをパタパタと小気味よい音を立ててめくっていく。


「……サシャ、聞こえるか」

レンは、新しく生まれ変わった色彩の風を全身で受け止めながら、心の底から湧き上がるような笑みを浮かべた。

「俺たちの仕事は、ただの掃除じゃない。ここから、新しい世界を創ることだ」


『……ザザッ……ええ……見えているわ、レン。あなたの空間の出力値が、測定不能なほど跳ね上がっている……! 現実世界のアーキテクトのセンサーが、そっちの青色の波長を感知して、致命的な論理エラーを起こしているくらいよ。本当に……最高に、大した清掃員ね』


サシャの通信が、心地よいノイズと共に途切れた。

だが、レンに孤独はなかった。この新しく色づいた世界のどこかに、彼女の反逆の意志も、そして父親が残したかもしれない悲しい空白の記憶も、すべてが美しい余白の地層となって繋がっているのだと、今の彼には確信できたからだ。

忘却とは、孤立ではない。新たな繋がりを生み出すための、大いなる循環のキャンバスなのだ。


レンは再び筆を執り、めくれたページの先にある、まだ見ぬ白紙へと向き直った。

窓外には、果てしない可能性の空が、レンの描く次なる色を待つように、どこまでも青く、深く広がっていた。



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