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第1話:第3部:白い部屋の呪縛

網膜を灼き尽くさんばかりに明滅を続ける、真紅の警告灯。

『存在貢献度:規定値未達・肉体維持基盤喪失』という無機質な文字列と、「ど忘れした十四分間への移住」というサシャの宣告が、反響音となってレンの頭蓋の内側を激しく乱打していた。

他人の、忘却の、穴。

その概念を脳が正確に咀嚼した瞬間、レンの視界から、血のような赤色も、薄暗い事務所のくすんだ灰色も、一切が唐突に剥がれ落ちた。猛烈な眩暈とともに、彼の意識は現在という時間軸から強制的に引き剥がされ、決して開けてはならない記憶の最下層へと真っ逆さまに墜落していく。


白。

圧倒的で、暴力的で、生命の気配を徹底的に拒絶するような「白」の世界が、視界を完全に埋め尽くした。


物理世界の淀んだ空気も、フィルターマスク越しの息苦しさも消え失せている。代わりにレンの鼻腔を鋭く、そして容赦なく突き刺したのは、純度が高すぎる合成消毒液の匂いだった。それは有機物の腐敗を隠蔽するだけでなく、人間の持つ生々しい匂い――汗や垢、呼吸の湿り気といった「生きている証」そのものを化学的に殺菌し、無かったことにしようとする冷徹な匂いだ。


そこは、第十二下層区画に位置する「認知機能保護病棟」の一室。

資源枯渇と重度の大気汚染によって極限のストレスに晒され続けた物理世界の下層市民の多くが、最終的に行き着く場所。広域認知障害――脳の神経細胞が世界との相互作用を放棄し、自己と他者の境界線を徐々に溶かしていく不治の病に侵された者たちを、ただ静かに「システムからの削除」の日まで隔離しておくための、白い棺桶のような部屋だった。


部屋の中央には、簡素なパイプベッドが一つだけ置かれている。

そこに横たわっているのは、かつてレンを育て上げた父親だった男の、抜け殻のような肉体だった。

長年、薄暗い地下の合成プラントで配管工として働き、油と泥にまみれながらも、確かな「重み」を持ってこの世界に立っていたはずの父。しかし、今のその姿に、かつての面影は欠片も残っていない。

白いシーツの上に投げ出された腕は、骨の形が露わになるほど恐ろしく細く、痩せこけていた。皮膚はまるで日に焼けて劣化したトレーシングペーパーのように薄くカサカサに乾燥し、その下を這う青い静脈群が、干上がった惑星の河川の跡のように痛々しく浮き出ている。


レンは無意識のうちに、ベッドの脇に立ち、その枯れ枝のような父の右手を両手で包み込んでいた。

冷たい。それは人間の体温ではなく、周囲の室温に限りなく同化しようとする、物質としての冷たさだった。レンは必死に自身の掌を擦り合わせ、自分の体温を、自分がここにいるという熱量を、父の肉体へ流し込もうと強く握りしめた。


「親父。俺だ、レンだ。今日は少し、顔色がいいな」


絞り出すような声だった。沈黙に耐えられなかった。部屋の隅で鳴り続ける、生命維持モニターの『ピッ……ピッ……』という、心拍の残量をデジタルに刻む無機質な電子音だけが、この空間の支配者であるかのように響き渡っていたからだ。


その声に反応したのか、ベッド上の父親の顔が、わずかに動いた。

錆びついた機械の蝶番が軋むように、ゆっくりと、ひどくゆっくりと、首がレンの方向へと回される。

そして、二人の視線が交差した。


その瞬間、レンの胃袋が、握り潰されたように激しく痙攣した。


父の瞳は、どこも見ていなかった。

かつては厳しくも温かい光を宿していたその眼球は、不気味なほど濁った乳白色の膜に覆われていた。だが、本当に恐ろしいのは物理的な混濁ではない。その瞳の奥にあるはずの「知性」と「関係性」の光が、完全に消灯していたことだ。

父は確かにレンの方を向いている。しかし、網膜にレンの姿を物理的に映していながら、脳はその視覚情報を「息子」として、いや「一個の人間」としてすら認識していなかった。それは、見知らぬ風景の一部、あるいは壁の染みでも見つめるような、究極の『空虚』だった。


「…………どちら様、でしたっけ」


カサカサに乾いた唇が微かに震え、空気が漏れるような声が病室に落ちた。


「すみませんね……最近、物忘れがひどくて……」


力なく、まるで申し訳なさそうに微笑んだ父親の顔。

その凍りつくような声の響きは、どんな物理的な暴力よりも鋭利な刃となって、レンの精神の核を正確に真っ二つに切り裂いた。


息が止まった。

握りしめていた父の手から、レンの指の力がズルリと抜ける。

父の手の甲の、浮き出た青い血管の感触と、生命力を完全に失った乾燥した皮膚のザラつきが、強烈な身体的拒絶感を伴ってレンの掌に焼き付いた。パタン、と、放り出された父の腕がシーツの上に落ち、鈍い音を立てる。


(俺が、わからない……?)


レンの全身の血液が、一瞬にして氷水に置き換わったかのような悪寒が走る。

それは、単なる「記憶喪失の悲しみ」などという生易しい感情ではなかった。

人間にとっての世界とは、他者の脳内に存在する自分の姿の総和である。父親の脳という、レンがこの世に生を受けた時から存在していた『巨大な宇宙』の中で、今この瞬間、「レン」という観測データが完全に消滅したのだ。

数十年に及ぶ共に過ごした時間、交わした言葉、食卓の匂い、叱られた記憶、そのすべての論理構造がエラーを起こし、ゴミ箱へ捨てられ、完全にフォーマットされた。


父親にとって、レンはもう「存在しないもの」になったのだ。

自分は今、父の目の前に物理的な質量を持って立っている。声も出せる。触れることもできる。それなのに、父の認識という絶対的な宇宙の中では、レンは最初から生まれてこなかった幽霊以下のバグへと成り果てていた。


これこそが、『忘れられること』の圧倒的な暴力。

肉体が破壊され、心臓が停止する「物理的な死」など、この恐怖に比べれば取るに足らない自然現象にすぎない。他者の世界から自分の存在の記録が完全に抹消されること。アイデンティティの完全な抹殺。繋がりの断絶。それは、自分が最初からこの世界に存在していなかったという『無』の証明に他ならない。


もし、すべての人間が自分を忘れたら?

誰の記憶にも留まらない質量は、果たして存在していると言えるのか?


「あ……、あ、ああ……っ!」


声にならない呻きが、レンの喉の奥から漏れ出した。

あの時、レンは骨の髄まで叩き込まれたのだ。世界から完全に孤立し、忘却の淵に落ちるということの、底知れぬ恐怖を。だからこそ彼は、物理的な形を維持することに異常なまでに執着するようになった。「余白清掃員」という、泥と煤にまみれる底辺の仕事にしがみつき、他人の脳からこぼれ落ちた「忘却の残滓」を物理的に掻き集め、空間を安定させることで、社会システムに対して「俺はここにいる。俺は役に立っている」と狂ったように叫び続けてきた。誰かに必要とされ、誰かの記憶に留まるために。


それなのに。

システムが今、彼に下した決断はなんだ。


『他人の脳の、ほんの一瞬の不具合とも言える隙間に押し込められ、そこで生きていけ』


それは、あの白い病室で見た、父の瞳の奥にあった『空虚』そのものへの幽閉宣告ではないか。

他人の、しかもどこの誰とも知らぬ見ず知らずの美術学生が、ほんのわずかに思考を停止させた「空白の十四分間」。そこに自分の自我のすべてを圧縮され、外部との因果律を完全に絶たれたノイズとして閉じ込められる。物理世界との相互作用を一切剥奪され、誰の記憶にも残らず、ただシステム上のバッファとしてのみ永遠の時間をループさせられる。


一体それに、どれほどの意味があるというのだろう。

それは死だ。物理的な死よりも遥かに残酷で、おぞましい、存在の完全な忘却。


「はっ……はぁっ……!」


強烈な過呼吸とともに、白い病室の幻影がガラスのように砕け散った。

網膜には再び、現実の事務所を照らす赤い警告灯の明滅が、暴力的に突き刺さってくる。

「がっ……!」

レンは自分がいつの間にか床に崩れ落ち、作業机の硬い金属の脚にしがみついていることに気がついた。胃液が込み上げ、喉の奥を焼くが、吐き出せるものは何もない。


視界が激しく点滅している。現実の風景と、父の白い病室のフラッシュバックが、脳内で致命的なショートを起こしていた。

カタカタと回る換気扇の音が、今は生命維持モニターの無機質なビープ音に聞こえる。自分の両手を見下ろすと、あんなにも執着していた位相ブラシの煤の汚れさえもが、今やなんの意味も持たない虚構の染みのように見えた。


手足の感覚が、まるで強力な局所麻酔を打ち込まれたかのように、じわじわと希薄になっていく。

物理的な質量を維持するための世界からの承認が、急速に引き剥がされようとしている。

恐怖のあまり歯の根が合わず、レンはガチガチと顎を震わせながら、目の前で静かに佇むホログラムのサシャを、すがるような、そして激しい拒絶の入り混じった眼差しで見上げた。



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