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鉛白

作者: 阿良川龍杜
掲載日:2026/04/28

 私は幼少の時分の記憶が殆ど無い。幼い人間関係も憶えておらず、辛うじて記憶に残っているのはどれも似たような顔だけである。両親の今より若い顔も憶えていない。想像はできてもそれだけだ。しかし、憶えていることもある。例えば、どんな声であったか忘れてしまうほど寡黙な祖父にこっぴどく説教を受けたこと。平常は朗らかで快活、まさに明朗快活な母の私が何か悪さをした時だけに見せる悲愴な表情。そんな光景はとても鮮明に覚えている。その中でもとりわけ鮮明に憶えている光景がある。あれは齢九つの時分。父に連れられて銀座の歌舞伎座に行った時である。

 年が明け、早くも二三週間が過ぎた、まだ痺れるような寒さの日であった。私は父と共に電車に乗っていた。私は父が苦手であったことを記憶している。寡黙で話しかけても「ああ」と言うか頷くだけ。感情を表出せず、得体の知れない何かと会話しているような気がしてならなかった。基本何処か遠くの方を見ているようで、私と彼の目が合ったことはそう多く無いだろう。同じ理由で祖父のことも苦手であった。そんな父と二人きりで出かけるというのは、私にとっては充分に気を張ることであったと推測される。如何せんこの時の詳細を憶えていないのだ。

 卸したての洋服の襟がきつく、首元をいじっていると父が此方をチラと見てウンと咳ばらいをした。私は慌てて首にやった手を膝元に持っていく。父が私を見て咳ばらいをする時は、私に止めろと言う意味であった。家を出てから父との会話は一切ない。いつも通りであるが、少し寂しい気がしてならなかったであろう。背中の窓から漏れて吹きつける風が体をぶるっと震わす。寒さと沈黙に耐えていると電車が停まった。すると父が立ち上がったので、ああここが目的地かと理解し、父の後を追い電車から降りた。ここはどこかと聞きたかったが、父に付いていくだけで一杯であった。後日、母に聞いたところ、そこが銀座であったことを知ったと思う。

 駅前には大量の人がそれぞれてんでんばらばらに忙しなく動いている。父は私の手を引くでもなく、ずかずかとその人混みを掻き分けていった。私は人群の頭を凝視し、周りよりいくらか背の高い父を探しながら必死に付いていった。父のお気に入りである黄茶色の中折れ帽が人群でぴょっこぴょっことしているのが、妙に面白く感じたのを憶えている。そうやって歩いていると先ほどよりも歩きやすくなってきた。気づけば、駅前とは打って変わって皆同じ方向に向かっている。皆の向かうその先には荘厳と言うべき建物がある。開場から一年経った歌舞伎座である。

 そこからの記憶は曖昧だ。歌舞伎座がどんな内装か、どんな客が居たか。そんなことは全く憶えていない。演目も分からない。何々娘のようであったような、そうでないような。しかし、はっきりと憶えている。私の幼い双眼に映った美しさを。

 幕が開くと、白銀の世界でそこに一人の女が立っている。女は純白の着物で、雪のような白い肌に黒い瞳と紅い唇だけが浮かんでいる。美しくどこか儚い。私はその美しさにひどく感動した。彼女の一挙手一投足に息を呑む。悲恋なのだろうか、なよなよとした動き、誰かを想う顔をしていた。そうして夢中になって女を凝視していると、ふと目が合ったような気がした。その時何かを強く感じた。しかしそれを私は思い出すことができない。

 

 そこまで言うと私は背広の衣嚢から煙草を取り出し、火を点けた。私の向かいで私の話に耳を傾けていた山崎が待ちきれんとばかりに聞いてくる。

「それで、何を感じたのです」

山崎は同じ会社の同僚で、快活だが気の利かない奴である。この手の話をするには人選を誤ったかもしれない。私は煙草を味わい、細い煙を吐く。

「それを憶えていないのだ」

「恋ではないのでしょうか」

「恋ではない。そうではないが恋の高鳴りに似た、何か強く胸を打つものだったのだ。私はそれを知りたいのだ」

何故、山崎のような男にこの話をしたのかと言うと、私とは違った世界を見ていそうな者であれば、幼き私の何かを知っているやもしれんと思ったからである。しかし、どうやら見当違いだったようだ。腕を胸の前で組んで考えているのか考えていないのか分からない山崎を見てそう思った。私は一生あの感情を知ることが無いのだろう。そうして、早々に山崎と分かれ、私は一人夜の町に繰り出した。

 それからニ三日が経った夜、私は銀座のカフェーに来ていた。周りは女給目当ての男たちばかり。向こうの方には新聞でよく目にする作家の顔が見える。私の隣に座る山崎もあちらこちらの女給を舐めまわすように見ている。私が煙草に火を点けようとすると、白い手がマッチを擦ってこちらに差し出してきた。私がどうもと首を傾げると女は何も言わずに隣に座ってきた。化粧の匂いが鼻腔を刺激する。見た目は十六、七であろうか。整った目鼻立ちだが派手な化粧でそれを台無しにしている。私の腕に体を擦りつけて、こちらの顔をじろじろと見つめてくる。猫撫で声で話してきて、事あるごとに私の腿や手をその白い手で撫でてくる。何を言われても私はああとかうんとか言うか頷くだけであったので、女も自棄になっていたのだろう。終いには胸元を撫でまわしてきた。私は無性にこの場所から離れたくなって山崎を見やると、化粧も着物も派手でべったりとくっついてくる女に蕩かされていた。分かり切っていた落胆をして、も一度隣の女の方に首を戻すと、女はふふと微笑んで「やっと見た」と言った。

 それから山崎が満足するまで私は女の化粧の匂いと猫撫で声に耐えた。ようやく外の空気を吸った時には気分が高揚した。帰り道、 山崎はあの子のここが良かっただのきっと自分のことが好きに違いないだの抜かしていた。私は適当に相槌を打ちながら外套の衣嚢に手を入れ煙草を取り出そうとした。しかし、出てきたのはマッチ箱だけであった。小さく溜息をつき忘れ物をしたと山崎に告げ、先ほどのカフェーに戻った。何故だかその足取りは重くなく、むしろ軽い。駆け足気味に通りを進んでいく。カフェーに着くと店の横の路地から細い白煙が此方に流れてきた。その匂いは私のものであったのがすぐに分かった。先ほどまでの不思議と軽やかな気持ちがどんどんと失われて、煙草泥棒を懲らしめてやろうという気持ちがぐんぐんと湧いてきた。路地に入って見てみると、白煙の向こうには先ほどの女給が座り込んで煙草を吸っていた。先ほどまでと打って変わってその顔には女性らしさの欠片もない。それを見た瞬間、私はあの時、銀座で感じた何かをまた感じた。あの恋の高鳴りに似たような強く胸を打つ何かを。派手な着物はヨレてだらしなくなっている。その座り方にもどこか野趣を感じる。私を舐めるように見ていたその瞳は何処か遠くを見つめているようで、奥深くに小さな絶望を見出す。猫撫で声が出ていたその喉には今は汚い白煙が出入りしている。しかし、煙草を持ったその白い手だけが美しさを強く持っていた。

 彼女は私に気づいていないようだった。私は深い満足感をもって、その場を離れた。それ以来そのカフェーには赴いていない。勿論あれ以来、歌舞伎も見ていない。やはり私は幼い時分の記憶がない。あるのは強い光景だけである。

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