◆第七章 5kの座標
無線が甲高く鳴り、「南端の路地へ逃走、黒フード!」という武田の声が、包囲網の隅々まで響き渡った。
新宿の夜はまだその密度を保ったまま、群衆が街に吐き出され、吸い込まれていく。
武田は広場を飛び出すと同時に、数本に分かれる細い路地に直面した。街灯のオレンジ色が濡れたアスファルトに映り、夜の冷気が頬を突き刺す。
「武田さん、右じゃない。左!」
インカムから、ひかりの冷静な声が割り込む。
「理由を教えろ!」
「右の道は20メートル先でT字路。そこから大通りに抜けられるけど、この時間、あそこはタクシーの待機列ができてる。奴が逃げるなら、より人混みに紛れられる南方向。——左です」
武田は一瞬の迷いの後、左の路地へ飛び込んだ。
足元は古いアスファルト。舗装の継ぎ目から雑草が伸び、壁際には自転車や空のビールケースが雑然と並んでいる。
前方、黒い影が一瞬だけ振り返った。顔は見えない。だが、その動きに一切の無駄はなかった。
——神野は走りながら、後方から迫る複数の足音を計算していた。
この路地は、一本裏にある飲食ビルの厨房に抜けられる。出口の先には、さらに別の裏口。彼はPMC時代に叩き込まれた市街戦の動線をなぞるように、腰の高さにある鉄扉を蹴り開けた。油の匂い、焼けた鉄板の熱気、深夜の厨房。
武田が飛び込むと同時に、床に何かが砕け散った。
ガラス瓶——中身は廃油だ。靴底が滑り、体勢が崩れる。反射的に壁に手をついた。
「クソッ……!」
この狭さと物量、完全に即席のトラップだ。
「ひかり! 奴はビルを抜けたらどう動く!」
「裏口の先、南と西に分岐します。南は人が多すぎる…リスクが高い。西です。非常階段を上って屋上に出るはず!」
武田は全力で西側の扉を蹴破り、錆びた金属階段を駆け上がる。
一段一段が、足に鈍い衝撃を響かせ、息が荒くなる。
屋上に出ると、眠らない街のネオンが眼下に広がった。
神野は隣のビルの端で一瞬だけ姿を見せ、躊躇なく次の建物へと跳躍する。
体の重心移動、着地の角度——間違いなく、レンジャーの動きだ。
——神野は跳躍の着地と同時に、ポケットから銀色の球体を取り出し、安全ピンを抜いて背後へと投げた。
強烈な閃光と、鼓膜を突き破るような高音。スタングレネード。
PMC時代の記憶が脳裏をよぎる。爆風、砂埃、倒れる人影。
彼はその残像を振り切るように、さらに奥の屋上へと消えていった。
武田は視界を焼かれ、咄嗟に体を伏せる。
激しい耳鳴りの中、インカムが再びノイズ混じりの声を拾った。
「……位置ロスト。でも、次は読めます」
ひかりの声は、変わらず落ち着き、むしろ鋭さを増していた。
「カーディナルは必ず、出口と逃げ道をセットで選びます。このパターンだと、あと一手で5k——パーフェクトスコアが完成する」
武田は立ち上がり、屋上の縁から夜の街を見下ろした。
ビル群のどこかで、あの幽霊はまだ息をしている。
「……分かった。次で、決める」
その声は、彼自身に言い聞かせる誓いだった。