◆第六章 新宿追跡
甲州街道を抜け、新宿駅南口のネオンがパトカーのフロントガラスを滑っていく。
眠らない街はまだ息をしていた。タクシーのドアが何度も開閉し、酔った男女が笑いながら肩を組み、ビルの谷間から水蒸気のような白い息が立ちのぼる。
この雑踏に紛れれば、誰だって輪郭を消せる。
「……ひかりです。都庁前広場のライブカメラ映像、入りました」
耳元のインカムから届く声は、低く研ぎ澄まされていた。
「この時間帯、まだ人の流れが止まりません。もし奴が儀式をやるなら、視線を遮る構造が必要です。……円形広場。ビルで囲われていて、入口は二つだけ。ここが、奴の言う『舞台』です」
武田は頷き、助手席の岸本と視線を交わす。
「路地側に三人、階段側に二人。俺と岸本は中に入る」
広場は外の喧騒より一段静かだった。
水の抜かれた噴水、石畳、ベンチ。腰掛ける数人の男女。眠そうな若者、笑い合う二人組、スマートフォンをいじる影。
武田はその一つ一つを観察する。何が怪しいのか、説明はつかない。ただ、刑事の勘が、この空気のどこかに「異物」が混じっていると警鐘を鳴らしていた。
その時、南端のベンチに座っていた黒いフードの男が、すっと立ち上がった。
ほんの一瞬、空気の流れが変わる。理由は分からない。だが、その動きには、この場に似つかわしくない、訓練された者の無駄のなさががあった。
男はポケットから何かを取り出し、足元に置く。カチリ、と金属質の短い音。
「全員、動くな!」武田は叫び、駆け寄ろうとするが、男はすでに人混みに紛れ、路地へと消えていた。
残されたのは、小さな紙片と、短いコード付きの電池パック。
爆発物ではない。紙片には、焼きごてで刻まれたようなモールス信号。
「……ひかり、読めるか」
武田の問いに、インカムの向こうでひかりが静かに答える。
「……読めるよ。——‘Too late’(手遅れだ)」
——同じ時刻、路地の闇。
神野は、群衆のざわめきを背に、黒フードを深く被ったまま足を運ぶ。
今も耳の奥で、甲高い爆音が反響している。中東の街路、日干し煉瓦の壁、路地に置かれたジャリ缶。
部隊の先頭でそれを見た瞬間、指が勝手に引き金にかかっていた。
IED(即席爆発装置)の炸裂音、仲間の絶叫。
その感覚は、帰国した今も、この平和な国で、決して彼を離さない。
彼は、最後の儀式として、電池パックを置いた。
あの日の爆薬とは比べ物にならない、子供騙しのおもちゃ。
それは、彼が焦がれた「戦場」と、彼が生きる「現実」との、埋めようのない距離そのものだった。
笑えるほど些細で、そして、絶望的な挑発。
神野は、闇に溶けながら、口元だけで笑った。
これで、舞台は整った。最後の『星』は、すでに別の場所に輝いている。