◆三章 ネメアの獅子
朝の会見室は、照明の白さが皮膚を一段と薄く見せた。演台に立った捜査一課長の喉仏が、硬い水を飲み込むたびに上下する。
「現在、捜査は——」
言葉の途中で、記者席から手が林立した。「次の予告が出てから何日経ったとお考えですか」「九件目も未然に防げなかった理由は」「犯人は挑発をやめません。責任の所在は」フラッシュの音が断続的に脳を刺し、金属の匂いが薄く漂った。
会見後、廊下の空気はカメラの熱で蒸されていた。壁際の椅子に腰かけた若手刑事が、小声で毒を吐く。「“鋭意捜査中です”って、もう限界っすよ」
武田は通りざま、短く言った。「顔に出すな」
「……はい」返事はしたが、若手の目は沈んでいた。
昼、捜査本部のテレビには街頭インタビューが流れている。マスク越しに歪んだ市民の口の形が、字幕の辛辣さを上塗りしていた。
——なんで守れないの?
——声明まで出てるのに、何してるの?
——ネットの探偵さんのほうが早いんじゃない?
音は消してあるのに、言葉だけが耳にこびりついた。
机に散らばる印刷物。匿名掲示板《alt2600》のスクリーンショット、犯行声明の詩、予告写真の比較。武田は紙の角を揃え、深く座り直した。椅子の背が微かに軋む。
「係長、来ました。新しい声明です」
若手が差し出すタブレットには、短い詩と一枚の写真が映っていた。
> 赤は月の血、白は氷の牙。
> 水の落ちる音の下、影は斜めに裂ける。
夕暮れの公園。半円形の浅い水場に、獅子の彫刻が施された吐水口。背後に伸びる街路樹と、遠くに見える送電鉄塔。
武田は一度目を閉じ、ひかりに電話をかけた。「来い。今すぐだ」
ひかりは、会議室の隅の予備机でノートPCを開いた。紙コップのコーヒーを両手で包み、画面の光を瞳に映す。
「まず形状。吐水口は獅子。国内だと輸入品が多いけど、このデザインは西ドイツ製の70年代型。自治体がまとめ買いしたやつ。都内だと現存するのは十数カ所」
トラックパッドの上で指が短く跳ねる。「タイルの目地、幅が広いまま。補修がほぼ入ってない。老朽化の放置が前提」
別ウィンドウで地図を呼び出す。「送電鉄塔が背後に見える公園……この位置関係。鉄塔の電線が写ってないのは角度が浅いから。つまり——」
画面が滑る。
「江東区の旧給水公園、仮説1。別角度から検証」
画面がもう一度滑る。
「代替候補、荒川沿いの区民緑地。鉄塔のフレーム形状が違う。却下」
息継ぎを忘れたように、彼女の指だけが動き続ける。
「影。冬の午後四時半前後の長さ。獅子の口に藻が薄く付着。通水は最近まであった証拠。……旧給水公園、ここで確定」
「スコアは?」と武田が聞く。
ひかりは口角をほんの少し上げた。「4,999。満点まで、あと1メートル」
「機動隊、五分で出る。現場は包囲、ただし静かにやれ」武田が立ち上がると、椅子が床を擦って短く鳴いた。
風の冷たい午後、公園の入口にパトカーが二台。制服警官が、通行人を別の道へと誘導している。寒さのせいか、子どもの姿はない。
石張りの広場に靴音が吸い取られ、吐水口の前で武田は足を止めた。水は落ちていない。代わりに、獅子の顎の影がタイルの上に濃く落ちていた。
「見て」ひかりが軽く指す。「吐水口の下。黒い布」
隊員がしゃがみ、布をめくる。中から、薄い金属板が現れた。前に港で見たものと似た、奇妙な加工が施されている。表面には刻印のような細い傷。板の端に取り付けられた錆びた鉄片が、微かにカチリと音を立てて止まった。
「南東」ひかりが即座に言う。
「また方角か」武田が吐く息で白い霧を作る。「南東に何がある」
「半径一キロで絞り込み。古規格のフェンス、鉄塔の見え方、道路の線形……」
彼女の声が細くなり、代わりに指の速度が上がる。
「……路地。ここだ」
「警戒線をずらせ。音を立てるな」武田は無線で全部隊に指示を出し、自ら路地へと向かった。
日暮れの路地は、夜に飲み込まれる手前の色をしていた。外灯は壊れて久しいらしく、角を曲がるごとに影が深くなる。飲食店の裏口から流れる油の匂いと、生ゴミに混じった酸味が鼻の奥に刺さった。
「係長、こちら側、異常なし」
「向こうも——」
報告が重なる中、遠くで子どもの笑い声が一度だけ混ざる。季節外れの風鈴の音のように、不意打ちで。
武田は路地の突き当たりを覗き込み、そこで足を止めた。
壁際に、男が座らせるように倒れていた。
神話の「ネメアの獅子」を模したのだろうか、その喉は、獣の爪で抉られたかのように引き裂かれ、乾いた血が黒く変色している。着ているコートの隙間から覗く肩のラインに、武田は既視感を覚えた。
彼は三歩手前で止まった。
「身元確認……」若手の声が背後から届く。
武田は手のひらを上に向けて、一度だけ押さえた。「待て」
呼吸の音が耳の内側で大きくなる。自分の鼓動が、路地の奥の暗がりに響いて戻ってくる。
近づけば、全てが現実になる。
それでも、近づかないわけにはいかなかった。
手袋をした指で、男のジャケットの襟をそっと持ち上げる。
見慣れた縫製の癖。淡いタバコの匂い。
武田はゆっくり目を閉じて、開いた。
「……捜査一課の、宮田だ」
声は出た。出て、それから遅れて胃の底が冷える。
若手が息を飲む音が聞こえる。担架が路地に滑り込む金属の脚の音が、今日はやけに遠かった。
そのとき、吐水口の前にいた隊員から無線が入る。
「係長!金属板の裏、もう一枚ありました。取り外すと——」
「触るな」武田の声に、鋼の硬さが混ざった。
ひかりが駆け戻り、しゃがみ込んで板を両手で支える。
「固定が甘い。トラップじゃない。単に二層構造になってる」
裏から現れたのは、さらに小さな薄板。そこには微細な打刻で、方位を示す記号と、一連の数字が並んでいた。
「暗号鍵…?」
「違う。これはパスワードじゃなくて、道筋」ひかりは声を低くした。「この数字の並び、古い下水道の管理番号の法則と一致する。この方角から、指定された管理番号のマンホールだけを通って進むと、一本の線になる」
武田は地図を広げ、部下に指示を飛ばす。
「地下道の出口を特定しろ。急げ!」
下水道の出口は、古びた飲食ビルの地下駐車場にあった。
錆びた鉄格子の扉。その内側に、指先ほどの黒い樹脂が接着剤で留められている。
隊員がナイフで縁を起こすと、小さなUSBメモリが出てきた。
本部に戻って解析班に渡す。
「暗号化されてます。鍵は……」
「吐水口の獅子の製造番号」ひかりが即答する。「たぶん加算方式。試して」
数分の後、モニターに文字列が現れた。
——“塔の影が交わる場所。赤い水場。白い円”
そして、一枚の写真。地面に描かれた白い円環。夜のライトアップで、浅い水が赤く見える。
「都庁前広場」ひかりが言う。「ただし『影が交わる』のは正面じゃない。二つの塔の影が、特定の自然条件でだけ重なる一点。ビル風の抜ける通路に一度入って、広場へ戻る。——退路を封じるための線の引き方」
武田はうなずいた。「包囲網の配置、練り直す」
本部の別室。課長が腕を組み、武田を見た。「仲間が殺された。民衆は苛立っている。お前は規律を破った。だが、もう戻れん」
「戻るつもりは、ありません」
課長は短く息を吐き、目だけでうなずいた。「やれ」
ひかりは白板の前で、これまでの犯行現場に一本ずつピンを打ちながら、独り言のように実況を続ける。
「方角は、北西、南東、そして東——交点。ラインの誤差は一%以内。…これで5k、取れる」
武田が横から口を挟む。「5k、ね。……それを、一回で決めろ」
「一回で決めるよ」ひかりは目だけで笑い、ノートPCを閉じた。
夜の空気は乾いて尖っていた。都庁前に向かう車内で、武田はミラー越しに部下たちの顔を見た。頬が青白い。視線は前を向いているが、焦点はどこか遠い場所にある。
「集中しろ」武田が言うと、車内の空気がわずかに締まった。「無駄撃ちはするな。声は短く、速く。照明の指示は俺から出す」
「了解」
都庁前の舗道にタイヤが静かに止まる。
足を地面に降ろすと、石の冷たさが靴底を通して脛に上がってきた。
広場の遠く、白い円がぼんやりと浮かび、周囲のポールには誰かの私物が小さく揺れている。
風が一度だけ息を吸い込み、吐くみたいに通り抜けた。
武田は無線のボタンに指を置く。
「始める」
——この夜が、図形の最後の線を引く夜になる。
その確信だけが、冷たい空気の中で、息よりも先に白く見えた。