◆第九章 新しい風
靖国通り沿いに、その廃ホテルは亡霊のように建っていた。
突入班が7階のドアを蹴破った時、そこにいたのは神野猛ではなかった。
部屋の中央に置かれた、一台のノートPC。その画面だけが、暗闇の中で青白い光を放っている。
『……罠だ』
インカムから響くひかりの声は、焦りよりも、敵への賞賛に近い響きを帯びていた。
『PCの画面、見て。都庁前のライブ映像。——奴の本当の舞台は、そっち』
PCの横には、一枚の金属プレート。そこには、ただ一言だけが刻まれていた。
“The final performance begins at dawn.”
——最後の公演は、夜明けに始まる。
武田は、奥歯を噛み締めた。
「全部隊、転進!都庁前広場へ急行しろ!」
甲州街道を抜け、新宿駅南口のネオンがパトカーのフロントガラスを滑っていく。
眠らない街はまだ息をしていた。タクシーのドアが何度も開閉し、酔った男女が笑いながら肩を組み、ビルの谷間から水蒸気のような白い息が立ちのぼる。
この雑踏に紛れれば、誰だって輪郭を消せる。
『ひかりです。映像、入りました。奴の言う「夜明け」は、天文薄明。空が白み始める、まさに今この時間』
耳元のインカムから届く声は、低く研ぎ澄まされていた。
『円形広場に熱源が二つ。大きい方は座ってる……人質。小さい方が、神野』
武田は頷き、助手席の岸本と視線を交わす。
「路地側に三人、階段側に二人。俺と岸本は中に入る」
広場は外の喧騒より一段静かだった。
水の抜かれた噴水、石畳、ベンチ。武田はその一つ一つを観察する。刑事の勘が、この空気のどこかに「死」の匂いが混じっていると警鐘を鳴らしていた。
そして、彼は見つけた。
中央の赤いライトアップの中で、椅子に縛り付けられた男。その背後には、神野が静かに佇んでいた。手には、即席のクロスボウ。矢尻は包丁を研ぎ直した鋭い金属片。足元には、時限信管へ繋がれた消火器改造のIED。赤いLEDが、冷たく秒を刻んでいる。
「遅かったな、警部」
神野の声は低く、氷のように冷ややかだった。
その目だけが、戦場で磨かれた捕食者の光を宿している。
武田は一歩、踏み出した。
「岸本を殺した……お前はもう、どこにも逃げられない」
「逃げる? 俺はここで証明する。お前たちが守るこの偽りの平穏なんて、紙より薄いってな」
『右の壁!非常灯の影が、奴の正確な位置を教えてる。そこから半歩踏み込めば、奴の死角に入れる!』
ひかりの声が、鋭く鼓膜を打った。
非常灯が作る、淡い影の輪郭——
武田は全身の筋肉を一点に集め、床を蹴った。
神野の右腕を捻り上げ、クロスボウの方向を逸らした瞬間、弦が鳴り、矢は明後日の方向の壁に突き刺さる。
同時に武田の肩が神野を床へ縫い付け、もつれ合った腕が、時限爆弾の導線を引き千切った。
火薬の匂いが、一瞬だけ空気を焦がす。
息が白く上がり、耳の奥で血流が轟いていた。
武田は、押さえ込んだ神野の耳元で、短く呟く。
「……これで5k、だな」
無線越しに、ひかりの、安堵ともとれる小さな笑い声が転がった。
「パーフェクトスコア、おめでとう」
神野は無言で手錠をかけられ、外へと連行された。
冬の風が都庁前の広場を抜け、夜明けの空に、パトカーのサイレンが幾重にも重なっていった。
エピローグ
数日後の午後。
喫茶店の隅で、武田はカウンターで受け取ったコーヒーを、ひかりの前に置いた。
「お前がいなきゃ、人質も、俺も危なかった」
「また写真が来たら?」
「……その時も頼む」
ひかりは小さく微笑み、カップを持ち上げた。窓の外、冬の空は、事件が嘘だったかのように透き通る青さを湛えている。
同日の深夜。
ダークウェブの《alt2600》に、新しいスレッドが立つ。
「南から、新しい風が吹く。次は、誰の番だ?」
投稿者のハンドルネームは、《Cardinal》ではなかった。




