◆序章 バスラの残響
乾いた風が、瓦礫の間に溜まった砂を巻き上げ、ひび割れた壁の影を斜めに引き伸ばしていた。
ここはバスラ南部の住宅区。かつては商店と小学校が並ぶ通りだったが、今は壁の穴から鉄筋が剥き出しになり、空はどこまでも白く濁っている。
神野猛はM4カービンを胸の前に吊るし、背後のサイドアームの位置を確認した。
前を行くのはカナダ人の傭兵と米海兵隊の兵士。
無線には時折、子供の泣き声のような遠雷の残響が混じり、次の瞬間には聞き慣れた英語の命令と短い罵声が割り込む。
路地の角を曲がると、車体が黒焦げになったトヨタのピックアップが道を塞いでいた。
その荷台からは、錆びた釘の詰まったペットボトルが転げ落ち、砂に半分埋もれている。
それを見た瞬間、神野はわずかに息を止めた。
IED——即席爆発装置。
だが隊長格の米兵は肩越しに「クリアだ」と言い、先へ進む。
その言葉が終わるより早く、世界が裏返った。
白い閃光が網膜を焼き、爆風が胃の奥をえぐる。
耳の奥で何かが破れ、音が消える。
遅れて土と金属と焦げた肉の匂いが混じった空気が肺を押し潰し、喉が熱で塞がった。
視界の端で、さっきまで冗談を言っていたカナダ人が上半身と下半身に分かれ、地面に叩きつけられる。
首の皮一枚で繋がった顔がこちらを向き、口が何かを言おうと動くが、声はない。
代わりに、血と脳漿が石畳に広がっていく音だけが耳に残った。
足元には米兵の手首が転がり、まだM4のグリップを握ったままだった。
その隣で、壁に貼りついた影のような黒いシルエットが、陽炎のように揺れた。
「……ッ、クソ……」
舌に鉄の味が広がる。
反射的にカービンを構えたが、路地の先には誰の姿もない。
代わりに、屋根の上から幼い子供がこちらを見下ろしていた。
その手には、遠隔起爆装置のアンテナが突き出ている。
視線が一瞬絡み、次の瞬間には姿が消えた。
呼吸を整えようとしても、胸の奥で破れた風船のように息が漏れる。
神野はそのまま膝をつき、無線の呼びかけに応えないまま、遠くで鳴る犬の吠え声だけを聞いていた。
——目を開けたとき、そこは東京の狭いワンルームだった。
机の上には翻訳途中の古い軍事戦術書、隅に置かれた灰皿には吸い殻の山。
壁には砂塵に包まれた戦地の写真が押しピンで留められ、机の端には拾った海鳥の羽根が並んでいる。
ノートPCの電源を入れると、ファンの乾いた音が室内に満ちた。
黒い画面に《alt2600》のロゴが浮かび、カーソルが点滅する。
神野はキーボードに指を置き、静かに打ち込んだ。
> 潮が血を運び、冬の空は息を殺す。
白き牙は月を喰らい、骨は冷たい水底に沈む。
文章に港湾クレーンと外向きカーブの古いフェンス、遠くに赤い煙突が霞む写真を添付し、送信。
羽根にライターの火を近づけると、焦げた匂いがゆっくりと立ち上る。
東京の夜は静かすぎる——彼はそう思った。