第1話:『断罪されなかった日』
「……また、か」
何度目かの死を迎え、意識が覚醒する寸前、エルヴィーナ=シュヴァルツは嘆息した。
冷たい床、凍えるような空気、そして胸を締め付ける絶望感。ああ、いつものことだ。99回目の転生も、やはり“断罪”という名の終焉を迎えたらしい。婚約破棄、社交界からの追放、そして最後は、いつも変わらぬ「死」の宣告。
彼女は悪役令嬢だった。
生まれ落ちるたび、その役割は決まっていた。公爵令嬢として、侯爵令嬢として、あるいは騎士団長の娘として。どんな身分であろうと、彼女は常に物語の“悪”を演じ、最終的には主人公たる聖女やヒロインによって、その罪を暴かれ、断罪される運命にあった。
その繰り返し、実に99回。
魂に刻まれた記憶は、もはや膨大な図書館のようだった。剣と魔法の世界、錬金術が栄える世界、蒸気機関が支配する世界……あらゆる異世界で、彼女は「エルヴィーナ」として生まれ、そして「断罪」された。
だが、今回は、何か、違う。
肌を撫でる風が、やけに生温かい。耳に届く音は、馬車の蹄の音でも、城の喧騒でもない。遠くで響く機械音、そして無数の人々のざわめき。
目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ天井だった。白く、平坦で、何の装飾もない。そして、身体の下にあるのは、ふかふかの、柔らかな布地。
ベッド。
エルヴィーナはゆっくりと上体を起こした。そこは、簡素ながらも清潔な部屋だった。窓の外には、高層の建造物が林立し、見たこともない金属の箱が、轟音を立てて道を往来している。
――異世界ではない。
瞬時に、そう理解した。99回の転生で培われた、環境適応能力と情報処理能力が、この光景を「未知」と認識しながらも、「既知の異世界ではない」と断定する。
そして、何よりも。
断罪されていない。
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「く、くく……あはははは!」
腹を抱えて笑った。涙が、目尻に滲む。それは、歓喜でも悲哀でもない、ただ純粋な「滑稽さ」に対する反応だった。
99回も断罪され、死を繰り返した挙句、100回目でようやく辿り着いた場所が、まさかの「地球」とは。
「……面白いじゃない、この世界」
笑い終え、エルヴィーナはベッドから降りた。足元に広がるのは、ひんやりとしたフローリング。
この世界に、魔力は存在しない。そう、過去の転生で得た知識が告げている。だが、エルヴィーナの身体には、明らかに“それ”が宿っていた。
99の異世界で吸収した、膨大な魔力。
それは、彼女の魂に深く刻み込まれ、100回目の転生を経てもなお、失われることなく、むしろ凝縮されて、彼女の内に存在していた。まるで、ゲームのバグのように、全てのデータが引き継がれてしまったかのように。
エルヴィーナは、指先を掲げた。
意識を集中する。すると、指の先に、漆黒の渦が生まれた。それは瞬く間に広がり、部屋の空気を震わせ、窓の外の景色を歪ませる。
「――『終焉の黒炎』」
呟きと共に、渦は巨大な炎の塊と化し、部屋の壁を焦がす寸前で、ぴたりと止まった。エルヴィーナは、その炎を、まるで掌中の小鳥のように操る。
この世界に、魔法はない。だが、彼女には、全世界の魔力が集中している。現代の物理法則など、彼女の魔力の前では、塵芥に等しい。
最強。
その言葉が、脳裏に浮かんだ。
「今度は私が、断罪する側よ」
かつて、自分を追い詰めた者たちへの、静かな宣戦布告。そして、この新しい世界への、悪役令嬢としての、新たな矜持。
数日後、エルヴィーナ=シュヴァルツは、都内有数の進学校、私立星見学園の生徒となっていた。
制服という、見慣れぬ服に身を包み、彼女は教室の扉を開けた。一瞬、クラスの視線が集中する。その視線は、好奇、警戒、あるいは畏怖。しかし、エルヴィーナは、それらを一瞥し、与えられた席へと向かった。
窓際、一番後ろの席。悪役令嬢の定位置だ。
授業は、彼女にとって退屈極まりないものだった。歴史、数学、科学……どの知識も、彼女が99回の転生で得た膨大な情報量に比べれば、あまりにも稚拙で、限定的だ。
(この世界は、あまりにも脆い。そして、愚かだわ)
そう、内心で毒づく。魔力という概念すら持たぬ彼らが、どれほど脆弱であるか。もし、異界の存在がこの世界に現れたならば、ひとたまりもないだろう。
その時、視界の端に、ある少女の姿が映った。
南雲まどか。
クラスの隅で、いつも俯きがちに本を読んでいる少女だ。地味な髪、控えめな仕草、そして、誰とも目を合わせようとしない内向的な性格。まるで、かつての物語で、主人公に虐げられるモブキャラのようだった。
昼休み。
エルヴィーナは、屋上へと向かった。そこは、誰もおらず、静寂が支配していた。風が、彼女の黒髪を揺らす。
(この世界の人間は、皆、弱い。だが、それが悪いことだとは限らない)
99回の転生で、彼女は様々な人間を見てきた。強欲な貴族、狡猾な聖職者、偽善的な勇者。そして、純粋な悪意を持つ者たち。
その中で、南雲まどかは、異質な存在だった。彼女の瞳の奥には、恐怖と諦めが宿っている。しかし、同時に、微かな光も揺らめいていた。それは、エルヴィーナ自身が、かつて見失いかけた、純粋な「善意」の輝きだった。
その日の放課後。
エルヴィーナは、下駄箱で、まどかが何人かの女子生徒に囲まれているのを目撃した。
「ねぇ、南雲さん。美術部のコンクール、あんたの絵が選ばれたんでしょ? ずるいよ、私の方が頑張ったのに」
「そうだよ、どうせ先生に媚びたんでしょ?」
陰湿な言葉が、まどかに降り注ぐ。まどかは、ただ俯き、震えている。反論もせず、ただ耐えている。
(ああ、愚かしい。まるで、かつての私を見ているようだわ)
エルヴィーナは、ゆっくりと、その輪に近づいた。彼女の一歩一歩が、まるで地響きのように、周囲の空気を震わせる。
「――何をしているの、貴様ら」
エルヴィーナの声は、氷のように冷たく、しかし、その奥には、抑えきれない魔力の波動が宿っていた。彼女の言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が、一瞬にして凝固した。
女子生徒たちは、エルヴィーナの姿を見て、息を呑んだ。彼女たちの顔に、恐怖の色が浮かぶ。
「あ、悪役令嬢……じゃなくて、エルヴィーナさん……」
その場のリーダー格らしき女子生徒が、震える声で呟いた。エルヴィーナは、彼女を一瞥する。その視線は、まるで深淵を覗き込むかのように、相手の魂を凍てつかせた。
「貴様らの醜い嫉妬は、この程度の空間では、あまりにも狭すぎるわ。もっと広い場所で、存分に醜態を晒すがいい。ただし――」
エルヴィーナは、一歩踏み出し、まどかの前に立った。その背中は、まるで巨大な城壁のように、まどかを守る。
「――私の獲物に、手出しはさせない」
その言葉と共に、エルヴィーナの指先から、微かな魔力の奔流が放たれた。それは、目に見えない圧力となって、女子生徒たちを押し潰す。彼女たちは、悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
静寂が戻った下駄箱で、まどかは、震える身体で顔を上げた。その瞳が、エルヴィーナを捉える。
「あ……あの……」
怯えと、困惑と、そして、微かな希望が入り混じった、複雑な表情。
エルヴィーナは、まどかの顔を覗き込んだ。その瞳は、まるで深紅の宝石のように輝き、まどかの心を射抜く。
「貴女は、南雲まどか、だったかしら?」
エルヴィーナの声は、先ほどとは打って変わり、どこか優しげな響きを帯びていた。
「……はい」
まどかは、か細い声で答える。
「そう。ならば、覚えなさい。この世界で、貴女を断罪できるのは、私だけよ」
エルヴィーナは、そう告げると、悪役令嬢らしい、不敵な笑みを浮かべた。その笑みは、まどかの心に、強烈な印象を残した。
これは、最強の悪役令嬢が、現代日本で、初めて「断罪」以外の選択をした日。
そして、彼女の新たな物語が、静かに、しかし確実に、幕を開けた日であった。