9.最初の応答者
この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。
自分ですら、言葉にできなかった、心の奥のもやもや。
もし、誰かが、それを、まるで自分のことのように、的確な言葉で言い当ててくれたとしたら。
あなたは、どんな気持ちになるでしょう。
それは、驚きでしょうか。それとも、安堵でしょうか。
あるいは、自分の心を、初めて他人に見つけられてしまった、という、
少しの戸惑いかもしれません。
彼女の孤独に、初めて「名前」が与えられた瞬間。
そして、一人の先輩が、彼女の中で、他の誰とも違う、
特別な存在になった、その始まりの瞬間を。
どうか、見届けてください。
時間が、その粘性を失っていく。
展示室を支配していた熱気と喧騒が、水底に沈んでいく音のように、その輪郭を失い、遠ざかっていく。 私の世界は急速に収縮し、彼の背中と、彼が見つめる一枚の写真だけが、スポットライトを浴びる、小さな舞台と化していた。
彼は、動かない。
ただ、真摯に、私の写真と向き合っている。誰に見せるでもなく、誰に聞かせるでもなく、まるで、そこに写る暗い電話ボックスの中にいる、見えない誰かと、無言の対話でもしているかのように。
その沈黙は、私にとって、これまでの人生で経験した、どんな雄弁な言葉よりも、意味のあるものに感じられた。彼は、私の孤独の断片を、ただ、そこに「在る」ものとして、受け入れてくれている。その事実だけで、私の胸は、張り裂けそうだった。
やがて。
本当に、長い時間が経ったように感じられた後。
彼の唇が、わずかに動いた。心の底から、ようやく絞り出した、というような、ごく小さな声だった。
「……ただ寂しいだけの写真じゃない」
その声は、私の存在の核を、直接、指で弾いた。
彼は、続ける。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「これは、かかってくるはずのない電話を、それでも待ち続けている人間の写真だ。この、どうしようもない孤独の味は、俺にはわかるよ」
――彼の言葉が、現像液のように、私の魂に、染み渡っていく。
違う。そんな、陳腐な比喩ではない。
それは、もっと静かで、そして、決定的な破壊だった。
彼の言葉という名の現像液が、私の身体の隅々まで染み渡り、それまでただの真っ黒な感光面でしかなかった私の魂に、初めて、像を結ばせる。
誰にも、見えなかった。
いいや、私自身でさえ、そこに何が写っているのか知らなかった、この感情の風景。
なぜ、雨の夜の、誰もいない公衆電話ボックスに、こんなにも心を惹かれたのか。なぜ、わざとピントを外し、光を滲ませなければならなかったのか。その答えの全てが、彼の、たった数十秒の独白の中に、完璧な形で、存在していた。
かかってくるはずのない電話を、待ち続ける、孤独。
そうだ。私は、ずっと、待っていたのだ。この、色のない、意味のない世界で、誰かが、私の魂に、電話をかけてきてくれるのを。そして、その電話が、決して鳴ることはないということも、心のどこかで、ずっと、知っていた。
この、どうしようもない孤独の味。
それを、この人は、知っている。私と、同じ味を知っている。
その瞬間、三上亮という人間は、私の中で、一度、死んだ。
サークルのOBでも、少し年上の男の人でも、そういう社会的な記号が全て剥がれ落ち、彼は、全く新しい存在として、私の世界に再臨した。
彼は、救世主でも、理解者でもない。
もっと、ずっと、根源的な存在だ。
私という名の、暗く、ざらついた一枚の写真。
その、誰にも届かなかった「不在着信」に、
初めて、応答してくれた。
たった一人の、最初の応答者だった。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
「不在着信」に、初めて、応答があった。
たった一度、自分の気持ちを、誰よりも正確に言葉にしてもらえた。
その記憶が、忘れられない、大切なお守りになる。
そんな経験は、誰にでもあることなのかもしれません。
――そして、物語は、再び、現在へと戻ります。
あの日の記憶を、大切に胸にしまったまま、彼女は、今、あのバーのカウンターに座っている。
過去に一度だけ通じた、その相手。
もし、その人が、本当に、目の前に現れたとしたら……?
次回、第二章『君はジントニック』 運命のベル(仮)
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