8.音叉の響き
この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。
世界の全ての音が、意味を失った雑音の洪水となって、あなたを飲み込もうとする夜。
諦め、沈んでいこうとした、その、最後の瞬間に。
たった一つの声が、あなたの魂と、同じ周波数で響いたとしたら。
あなたは、それを、幻聴だと笑い飛ばせますか?
それは、救いの言葉ではないかもしれない。
ただ、あなたの孤独の、すぐ隣で、同じものを見つめている、という、静かな事実の証明。
彼女が、自分の存在を諦めた、その背中に、不意に投げかけられた、音叉のような声。
どうか、耳を澄まして。
世界の解色像度が、変わる音がします。
――もう、帰ろう。
その、たった五文字の諦念が、私の心の中で、まるで判決のように、静かに言い渡された。
もう、いい。これ以上、この場所にいる意味はない。私の魂の欠片は、誰の目にも留まることなく、ただ、この喧騒の中で、ゆっくりと風化していくだけだ。私は、壁に貼られた自分の写真から、そっと目を逸らした。それは、自分の子供の亡骸から目を背けるような、痛みを伴う行為だった。
人々の楽しそうな笑い声が、遠い国の言葉のように、意味を失って耳を通り過ぎていく。私は、この熱狂という名の巨大な生き物の胃袋から、消化される前に、静かに抜け出そうとしていた。踵を返し、出口へと、最初の一歩を踏み出そうとした、その、瞬間。
「――これ、だな」
背後から、不意に、声がした。
それは、大声ではなかった。むしろ、ひどく静かな、呟きに近い声。
しかし、その声は、飽和した音の洪水の中に落とされた、一滴の澄んだインクのように、全ての雑音を飲み込みながら、私の鼓膜へと、静かに、そして真っ直ぐに届いた。よく通る、不思議な響きを持った、男の声。
靴底から、見えない根が生えたかのように、私の足が床に縫い止められる。
まさか。そんなはずはない。きっと、隣の、華やかな風景写真に向けられた言葉だ。私には、何の関係もない。そう、頭では分かっているのに、私の体は、意思に反して、ゆっくりと、本当にゆっくりと、振り返っていた。まるで、錆びついたブリキの人形のように、ぎこちなく。
そこに、男が一人、立っていた。
私の写真の、真正面に。
腕を組み、少しだけ首を傾げ、まるで難解な数式を解くかのように、あるいは、遠い星の光を観測するかのように、真剣な眼差しで、ただ、食い入るように、私の「不在着信」を見つめていた。
サークルのOB。何度か集まりで見かけたことがある、遠い存在。彼の着ている、少しだけくたびれたカーディガンが、この場の誰よりも大人びて見えた。
名前は、確か――三上、亮。
記憶の隅で、埃をかぶっていた名前が、不意に、像を結んだ。
彼は、気づいていない。
ほんの数メートル後ろに、この写真の撮影者が、存在の気配そのものを消し去って、立っていることになど。
彼は、気づいていない。
この、忘れ去られた壁の前で、一人の少女の肋骨の内側で、一羽の鳥が、狂ったように羽ばたいていることになど。
彼の世界には、今、ただ、あの、雨に濡れた公衆電話ボックスの写真だけが存在している。
その、あまりにも真摯で、純粋な横顔を前に、私と彼以外の、世界の全ての解像度が、急速に、落ちていった。
お読みいただき、ありがとうございます。
誰にも見つけてもらえないと思っていた、自分の魂のありか。
その、忘れ去られた場所に、ただ一人、まっすぐに向けられる、真摯な眼差し。
その視線だけが、今、彼女にとっての世界そのものでした。
彼は、まだ気づかない。
そして、まだ、何も語ってはいない。
けれど、もし、彼が口を開いたなら。
その唇から紡がれる言葉は、彼女の孤独を、完璧に理解する「福音」か。
それとも、美しい誤解から生まれる、もっと残酷な「神託」か。
次回、第二章『君は-ジントニック』 孤独という名の共犯者(仮)
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