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カルアミルク  作者: GL!TCHTiara
第二章 君はジントニック
6/13

6.埃のレンズ、記憶の粒子

この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。


あなたの心の中にも、ありませんか。

普段は鍵をかけて、決して開けることのない、記憶の小部屋が。

その扉を開ける、たった一つの「合言葉」を、あなたは、まだ覚えていますか?


それは、誰かが何気なく口にした、ありふれた単語かもしれない。

けれど、その響きが鼓膜に触れた瞬間、埃まみれの日常は、閃光と共に、

最も鮮烈な、あの日の景色へと反転する。


彼女の心の扉を、不意にノックした、その言葉の響き。

そして、そこから溢れ出す、光と、影と、忘れようのない声の記憶を。

どうか、ご一緒に。

 神保町の午後は、いつも眠たげな顔をしている。

 私のアルバイト先である古書店の中も、例外ではなかった。大通りに面したガラス窓から差し込む西日が、床から天井までを埋め尽くす書架の迷路に、いくつもの光の筋を落としている。その光の中を、無数の埃が、まるで時を失った魂のように、静かに、そしてあてもなく舞っていた。


 店内を満たすのは、古紙と乾いたインクが放つ、甘い追憶の香り。誰かがページをめくる乾いた音だけが、紙と埃で編まれた沈黙を、優しく解きほぐしていく。私はカウンターの奥で、返本された文庫本のカバーに残る、見知らぬ誰かの指の跡を、柔らかい布で拭っていた。一つの物語から、前の持ち主の痕跡を消し去り、もう一度、まっさらな状態で、次の誰かへと手渡すための準備。その誰にも気づかれない営みだけが、今の私が、かろうじて世界と関わることを許された、儀式だった。


 カウベルが、乾いた音を立てる。

 入ってきたのは、初老の男性客だった。彼は、店内を一巡りすると、美術書のコーナーで足を止め、一冊の、ひどく分厚い写真集を抜き出した。そして、それを大事そうに抱えて、私のいるカウンターへとやってくる。

 黒い表紙。ざらついた、モノクロームの粒子。森山大道。


「森山大道は、やっぱりいいな」

 彼は、独り言のように呟くと、不意に、私に顔を向けた。穏やかな、しかし、どこか人の内側を見透かすような目をしていた。


「君は、写真は撮るのかい?」


 ――写真。


 その二文字が鼓膜に触れた瞬間、世界の回転が、軋むような音を立てて停止した。

 文庫本を拭いていた指先が、凍りつく。目の前で、陽光の中を舞っていた金色の埃が、その輪郭を失い、粗いモノクロームの粒子へと、その質感を、変えていく。


 店の外から聞こえていた、遠い車の走行音。店内の、客がページをめくる音。古書の匂いが遠のき、代わりに、あの日の、汗と熱気の匂いが蘇る。乾いた紙の音は消え去り、代わりに、無数の足音と、ざわめきと、そして、たった一つの、忘れようのない声が、鼓膜の内側で、直接、響き始める。

 そう。あの、展示室の、ひやりとした壁の感触。

 あの、スポットライトの、焦げるような熱。


第二章『君はジントニック』、最初のページをお読みいただき、ありがとうございます。


古書のインクの匂い。陽光の中を舞う、金色の埃。

そんな、穏やかな午後の全てを、たった一言が、過去へと攫っていく。

記憶とは、なんて、暴力的で、美しい閃光なのでしょう。


彼女を、現在から引き剥がした、あの日の記憶。

それは、彼女の人生で、最も屈辱的だった一日か。

それとも――

世界でただ一人、自分の魂の輪郭を、見つけてもらえた、奇跡の一日か。


次回、第二章『君はジントニック』誰にも見えない場所【回想】(仮)


ここから始まる追憶のメロディ。

私たちの楽曲「カルアミルク」が、過去と現在を繋ぐ、一本の糸になります。


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