6.埃のレンズ、記憶の粒子
この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。
あなたの心の中にも、ありませんか。
普段は鍵をかけて、決して開けることのない、記憶の小部屋が。
その扉を開ける、たった一つの「合言葉」を、あなたは、まだ覚えていますか?
それは、誰かが何気なく口にした、ありふれた単語かもしれない。
けれど、その響きが鼓膜に触れた瞬間、埃まみれの日常は、閃光と共に、
最も鮮烈な、あの日の景色へと反転する。
彼女の心の扉を、不意にノックした、その言葉の響き。
そして、そこから溢れ出す、光と、影と、忘れようのない声の記憶を。
どうか、ご一緒に。
神保町の午後は、いつも眠たげな顔をしている。
私のアルバイト先である古書店の中も、例外ではなかった。大通りに面したガラス窓から差し込む西日が、床から天井までを埋め尽くす書架の迷路に、いくつもの光の筋を落としている。その光の中を、無数の埃が、まるで時を失った魂のように、静かに、そしてあてもなく舞っていた。
店内を満たすのは、古紙と乾いたインクが放つ、甘い追憶の香り。誰かがページをめくる乾いた音だけが、紙と埃で編まれた沈黙を、優しく解きほぐしていく。私はカウンターの奥で、返本された文庫本のカバーに残る、見知らぬ誰かの指の跡を、柔らかい布で拭っていた。一つの物語から、前の持ち主の痕跡を消し去り、もう一度、まっさらな状態で、次の誰かへと手渡すための準備。その誰にも気づかれない営みだけが、今の私が、かろうじて世界と関わることを許された、儀式だった。
カウベルが、乾いた音を立てる。
入ってきたのは、初老の男性客だった。彼は、店内を一巡りすると、美術書のコーナーで足を止め、一冊の、ひどく分厚い写真集を抜き出した。そして、それを大事そうに抱えて、私のいるカウンターへとやってくる。
黒い表紙。ざらついた、モノクロームの粒子。森山大道。
「森山大道は、やっぱりいいな」
彼は、独り言のように呟くと、不意に、私に顔を向けた。穏やかな、しかし、どこか人の内側を見透かすような目をしていた。
「君は、写真は撮るのかい?」
――写真。
その二文字が鼓膜に触れた瞬間、世界の回転が、軋むような音を立てて停止した。
文庫本を拭いていた指先が、凍りつく。目の前で、陽光の中を舞っていた金色の埃が、その輪郭を失い、粗いモノクロームの粒子へと、その質感を、変えていく。
店の外から聞こえていた、遠い車の走行音。店内の、客がページをめくる音。古書の匂いが遠のき、代わりに、あの日の、汗と熱気の匂いが蘇る。乾いた紙の音は消え去り、代わりに、無数の足音と、ざわめきと、そして、たった一つの、忘れようのない声が、鼓膜の内側で、直接、響き始める。
そう。あの、展示室の、ひやりとした壁の感触。
あの、スポットライトの、焦げるような熱。
第二章『君はジントニック』、最初のページをお読みいただき、ありがとうございます。
古書のインクの匂い。陽光の中を舞う、金色の埃。
そんな、穏やかな午後の全てを、たった一言が、過去へと攫っていく。
記憶とは、なんて、暴力的で、美しい閃光なのでしょう。
彼女を、現在から引き剥がした、あの日の記憶。
それは、彼女の人生で、最も屈辱的だった一日か。
それとも――
世界でただ一人、自分の魂の輪郭を、見つけてもらえた、奇跡の一日か。
次回、第二章『君はジントニック』誰にも見えない場所【回想】(仮)
ここから始まる追憶のメロディ。
私たちの楽曲「カルアミルク」が、過去と現在を繋ぐ、一本の糸になります。
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