5.陽画の傷
この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。
もし、あなたの人生という名の一枚の写真に、
神様の悪戯のような、ありえない偶然が写り込んでしまったとしたら。
あなたは、それを「運命」と名付けずにいられますか?
たとえ、その写真の隅に、ほんの僅かな、光の滲みや、像のズレがあったとしても。
人は、自分に都合の良い奇跡を、信じてしまう生き物なのかもしれません。
彼女にとっての、最初の奇跡。
そして、最初の真実から、目を逸らした瞬間を。
どうか、最後まで、見届けてください。
一口、また一口と、グラスの中の赦しを、ゆっくりと体に染み込ませていく。優しい甘さが、私の思考を支配していた、硬質な異音の音量を、少しずつ下げていくかのようだった。ささくれ立っていた神経の末端が、まろやかな液体に浸されて、丸くなっていく。自分を守るために常に鎧のように強張らせていた身体が、その芯から、ゆっくりと弛緩していく。ここに来るまでの、あの息苦しいほどの疎外感と自己嫌悪が、まるで遠い昔の出来事のように思えた。
その時だった。マスターが、ゆっくりとカウンターの奥へと歩を進めたのは。
彼は、壁一面を埋め尽くすレコード棚の前に立つと、まるで老練な司書のように、その背表紙を長い指先でなぞっていく。そして、無数のコレクションの中から、一枚のレコードを、静かに抜き出した。黒い円盤を、その薄紙のジャケットから滑り出させ、ターンテーブルの上に、まるで大切な幼な子を寝かしつけるように、そっと置く。
彼がアームを操作すると、繊細な針が、ゆっくりと盤面へと降りていった。
プチッ、という、温かいノイズ。
それに続いて、軽快なベースラインと、都会の夜景を思わせる、きらびやかなエレキギターの音色が流れ始めた。心地よいリズム。それなのに、その上に乗る男性ボーカルの声は、どうしようもなく切なく、甘く、そしてどこか孤独の影を滲ませていた。
その音楽は、この店の空気そのものだった。都会的で、どこかノスタルジックで、そして、一人きりで身を委ねていると、魂のいちばん柔らかい場所を、そっと指でなぞられるような。
その甘い痛みに、ほんの少しだけ、背中を押されていた。
「あの……この曲、すごく、素敵ですね。なんていう曲なんですか?」
私の問いかけに、マスターは、レコードジャケットへと視線を落とす。そして、その視線を、ゆっくりと、私の方へと戻した。彼は、私の顔を、じっと見つめていた。まるで、この質問をした私の真意を、その奥にある魂の渇きを、値踏みするように。その、数秒間の濃密な沈黙。
「……カルアミルク、ですよ」
彼は、そう答えた。
その瞬間、私は、確かに見たのだ。彼の、常に不動だったはずのその表情に、ほんの一瞬、薄いガラスに鋭い何かが当たった時のような、微細なひび割れが走るのを。その瞳の奥に、痛みの色が、ごく僅かに、しかし、確かに宿ったのを。
――え?
私の心の、完璧な陽画の上に、一瞬だけ、焼き付けられてしまった、像のズレ。
だが、その違和感は、次の瞬間には、押し寄せた幸福感という名の、あまりに強い光によって、白く、飛ばされてしまった。
カルアミルク。私が、今、こうして救われている、この魔法の飲み物と、同じ名前の曲。そんな奇跡が、この世界にはあるというのか。
気のせいだ。きっと、照明の加減か、何かの見間違いだ。こんなにも素敵な、私のために用意されたとしか思えないような、この場所で。そんな、不吉なことがあるはずがない。
私は、運命の訪れを確信し、グラスの中でカラン、と音を立てる氷のように、一人静かに、そして、深く、微笑んだ。
彼女はまだ知らない。
自ら、最初の真実から目を逸らしたことを。
――第一章・了――
第一章、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
自分のためだけに用意されたとしか思えない、世界。
自分のためだけに流されたとしか思えない、音楽。
人は、そんな幸福な偶然を前にすると、真実から目を逸らしてしまうほど、
愚かで、そして、どうしようもなく、ロマンチックな生き物なのですね。
甘いカルアミルクと、同じ名前の音楽。
彼女の「運命」の片割れは、もう見つかった。
けれど、物語には、まだ、もう片方の主役が登場していません。
彼が飲むのは、甘いミルクか、それとも――
突き刺すように、苦い酒か。
次回から、第二章『君はジントニック』が始まります。お楽しみに。
私たちの楽曲「カルアミルク」が、二人の運命のテーマソングになります。
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第二章以降は、、、モチベ次第と言う事で。