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カルアミルク  作者: GL!TCHTiara
第一章 いつものおまじない
4/13

4.呪文の名は、カルアミルク

この作品は私たちの楽曲「カルアミルク」(2025年9月以降リリース予定)から生まれた、無数の解釈の一つ。


もし、あなたの目の前に、あなた自身の価値を問う一冊の辞書が差し出されたとしたら。

あなたは、どんな言葉(呪文)を選び取りますか?


背伸びをして、知らない言葉を紡いでみますか。

それとも、子供の頃に読んだ物語の片隅にだけあった、懐かしい響きに、そっと指を伸ばしますか。


彼女が、自分を赦すために、そして、この世界にいることを許されるために、最初に唱えた呪文の名前を。

どうか、あなたも、静かに耳を澄ませてみてください。

 カウンターの向こう側で、世界の主は、値踏みするように私を見ている。

 彼が無言で差し出したメニューは、重く、使い込まれた本革の匂いがした。私の価値を問うための、分厚い辞書。震える指で表紙を開くと、知らない世界の言語が、美しい活字で整然と並んでいた。


 マティーニ。ギムレット。マンハッタン。サイドカー。

 まるで、異国の神々を召喚するための、秘密の呪文のようだった。その名前の響きだけで、私は圧倒されていた。きっと、そのどれもが、苦くて、強くて、一口飲んだだけで、私のような未熟な人間の中身を全て暴いてしまうような、そんな飲み物に違いなかった。メニューのページをめくる指先に、じわりと汗が滲む。早く、何かを決めなければ。この静寂は、私の答えを待っている。答えられない者は、この神聖な空間から追放される。そんな、声なき圧力が、カウンターの向こう側から、そして、私自身の内側から、ひしひしと伝わってくる。


 どうしよう。何を選べば、私は、ここにいることを許されるのだろう。

 焦燥に駆られた視線が、呪文の羅列の上を滑っていく。その、最後のページ。デザートカクテル、と書かれた小さな一角に、私の目は釘付けになった。


 ――カルアミルク


 その、どこか間の抜けた、懐かしい響き。記憶の暗室に、一枚の古い写真が、像を結ぶように、ゆっくりと浮かび上がってきた。 子供の頃に読んだ、外国の小説。主人公の少女が、少しだけ大人の世界に背伸びをする夜に、父親が作ってくれたのが、確か、この名前の飲み物だった。『大人のための、甘い秘密のコーヒー牛乳さ』。そんな台詞と共に、私の脳裏に、インクの匂いと、黄ばんだ紙の感触が、ありありと蘇る。

 あれなら。あの、物語の中にだけ存在した、優しい飲み物なら。今の私でも、許されるかもしれない。


「……お決まりで?」


 沈黙を破ったマスターの声に、私の肩が小さく跳ねる。

 私は、もはや彼の顔を見ることさえできず、ただ、メニューのその一点を、救いを求めるように指さした。喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど、震えていた。


「か、カルアミルクを……ください」


 マスターは、私の指さす先を一瞥し、そして、私の顔を見た。その目に、軽蔑や、嘲笑の色はなかった。ただ、事実を確認するように、静かに、そして深く、一度だけ頷いた。

 彼は、重厚なロックグラスを一つ取り出すと、大きな氷を一つ、静かに入れる。カラン、と澄んだ音が響く。黒く、とろりとしたリキュールが、夜の闇の一滴のように、グラスに注がれる。そして、その上から、真っ白なミルクが、夜明けの光の筋のように、ゆっくりと注がれていく。黒と白が混じり合う、その美しいグラデーションを、彼は、長いバースプーンで、三度、静かにかき混ぜた。

 一連の所作は、まるで祈りのように、静かで、美しかった。

 差し出されたグラスを、私は、おそるおそる両手で受け取る。ひんやりとしたガラスの感触。コーヒーと、ミルクの、甘い香り。

 意を決して、一口、飲む。


 その瞬間、優しい甘さが、乾ききっていた喉を、そして心を、赦しのように潤していく。

 張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける。胃のあたりで硬く結ばれていた何かが、ゆっくりと解けていく。腹の底から、その日初めての、穏やかで、温かい息を、そっと吐き出した。無数の棘が、一本、また一本と、痛みもなく抜き去られていくような、そんな感覚。


「……おいしい」


 私の唇から、無意識に、そんな言葉が漏れていた。

 それは、その日、私が初めて、心の底から発した、本当の言葉だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この物語、四歩目の足跡です。


乾ききった心に、赦しのように染み渡る、優しい甘さ。

自分のためだけに唱えた、ささやかな呪文。

その一杯が、その日、世界でいちばん、美味しいものだった。

そんな記憶が、あなたにも、ありませんか。


けれど、もし、そのささやかな奇跡が、ただの偶然ではなかったとしたら?

もし、この世界の支配者が、あなたのための「運命」という名のレコードに、

静かに針を落とそうとしていたとしたら――。


次回、第一章 第五話 「陽画の傷」


物語のタイトルが、ついに本当の「音」になる瞬間。

私たちの楽曲「カルアミルク」が、この物語の心臓になります。お聴き逃しなく。


よろしければ、ページ下から★★★★★評価や、ブックマーク登録で応援していただけると、私たちの創作の何よりの力になります。

明日も、22:10に、次のグラスをご用意してお待ちしております。

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