表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カルアミルク  作者: GL!TCHTiara
第一章 いつものおまじない
3/13

ようこそ、陰画の世界へ

世界が、眩しすぎる陽画ポジだとしたら。

魂が、その光に焼き尽くされそうになった時、逃げ込める陰画ネガの世界が、どこかに必要だと思いませんか?


そこは、あなたを慰めてはくれないかもしれない。

ただ、あなたの全てを、値踏みするように、静かに見つめるだけかもしれない。


それでも、あなたはその扉に、手をかけますか?


もし、あなたが、沈黙だけがくれる救いを知っているなら。

澄んだ鈴の音と共に、この結界の内側へ、ようこそ。

 鉄のドアノブは、私の熱を奪っていくように、ひどく冷たかった。一瞬、このまま踵を返すべきではないかという、臆病な理性が鎌首をもたげる。けれど、ドアの向こう側から漏れ聞こえてくる、この世界という眩しすぎる陽画(ポジ)を、完璧な陰画(ネガ)へと反転させてくれる気配への渇望が、私の指に、私の意志とは無関係に力を込めていた。

 息を吸い、覚悟を決め、ゆっくりとドアを引く。


 カラン、と。


 あまりにも澄んだ、鈴の音が鼓膜を震わせた。まるで、この世の全ての騒音を濾過した後に残る、たった一つの純粋な響き。その音を最後に、世界は沈黙した。

 路地裏の湿った腐臭は、ドアを閉じた瞬間に、世界の向こう側へと追放された。店内は、古い木と、芳醇なアルコール、そして、微かなレコードの埃が混じり合った、知的で、禁欲的な香りで満たされている。外の喧騒は、分厚いドア一枚で完璧に遮断されている。そこは、まるで深海の底に作られた、秘密の書斎のような空間だった。

 客は、誰もいない。照明は最低限にまで落とされ、磨き上げられた分厚い一枚板のカウンターだけが、温かい光の帯をまとっている。背後の壁に並んだ無数の洋酒のボトルが、まるで博物館のガラスケースに収められた、古代の工芸品のように、静かな光を放っていた。


 そのカウンターの奥に、男が一人、立っていた。

 糊のきいた白いシャツに、黒いベスト。白髪混じりの髪を短く整え、年齢は、私の父よりも少し上だろうか。彼は、私の存在など意にも介さないように、ただ黙々と、乾いた布で薄いグラスを磨き続けている。その、儀式めいた、一分の隙もない動き。彼こそが、この世界の支配者なのだと、私は直感した。

 やがて、彼の動きが止まる。磨き上げたグラスを、光にかざして、傷一つないことを確認すると、彼は、その視線を、ゆっくりと私に向けた。

 射抜かれる、と思った。

 それは、怒りや不審といった、ありふれた感情の色を帯びていない。もっと根源的な、まるでレントゲン写真のように、私の内面の骨格までを透過し、その歪み一つひとつを記録しようとする、執刀医のような、冷徹で客観的な視線だった。着古したワンピース、こわばった表情、ポケットの中でカメラを握る指先の震え。その全てが、彼の双眸によって分解され、値踏みされ、分類されていく。圧倒的な場の空気と、彼の視線に呑まれ、私は、声も出せずに、入り口で立ち尽くしていた。


「……いらっしゃい」

 店内に流れるレコードの、音の隙間を埋めるように、彼の低い声が、水面に落ちたインクのように、静かに広がった。それは歓迎の響きではなく、ただ、私の存在を「観測した」という、事実の通告のような声だった。


 その声に促され、私の喉から、ようやく、か細い息が漏れた。

「あ、あの……一人でも、大丈夫、ですか……?」

 自分の声が、まるで知らない子供の声のように、情けなく、そして場違いに響く。ここにいていいのか、という存在そのものへの許可を求めるような、卑屈な問い。

 この世界の主人は、答えなかった。ただ、もう一度、私の頭の先から、履き古したスニーカーの爪先までを、ゆっくりと一瞥する。そして、ほんのわずかに、顎を引いた。


「……どうぞ」


 彼はそれだけを言うと、カウンターの一番端の、入り口から最も遠い席を、指先で、静かに示した。

 その許可に、私は、まるで追手から逃げ切った逃亡者のように、浅い息を漏らした。そして、彼の示す場所へと、逃げ込むように、吸い寄せられるように、向かう。

 高い木製のスツールに腰を下ろし、冷たく、滑らかなカウンターに指先を置いた瞬間。私は、ようやく、この結界の内側に、自分のための席が一つ、用意されたような気がした。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この物語、三歩目の足跡です。


自分の骨格までを見透かす、冷徹な視線。

それなのに、その視線に射抜かれた末に与えられた、たった一席の、安らぎ。

誰かに無条件で愛されるより、誰かに完璧に“観測”されることで、救われる魂だって、きっとある。


結界の内側で、ようやく息をつけた彼女。

けれど、この沈黙の支配者は、まだ彼女に問いかけてはいません。

「お前は、何者だ」と。


彼女が、その問いに差し出す、最初の答えとは――。


次回、第一章 第四話 「呪文の名は、カルアミルク」


深海の書斎に、レコードの針が落ちる音。

私たちの楽曲「カルアミルク」のメロディが、すぐそこまで近づいてきています。


よろしければ、ページ下から評価や、ブックマーク登録で応援していただけると、私たちの創作の何よりの力になります。

明日も、22:10に、次のグラスをご用意してお待ちしております。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ