ようこそ、陰画の世界へ
世界が、眩しすぎる陽画だとしたら。
魂が、その光に焼き尽くされそうになった時、逃げ込める陰画の世界が、どこかに必要だと思いませんか?
そこは、あなたを慰めてはくれないかもしれない。
ただ、あなたの全てを、値踏みするように、静かに見つめるだけかもしれない。
それでも、あなたはその扉に、手をかけますか?
もし、あなたが、沈黙だけがくれる救いを知っているなら。
澄んだ鈴の音と共に、この結界の内側へ、ようこそ。
鉄のドアノブは、私の熱を奪っていくように、ひどく冷たかった。一瞬、このまま踵を返すべきではないかという、臆病な理性が鎌首をもたげる。けれど、ドアの向こう側から漏れ聞こえてくる、この世界という眩しすぎる陽画を、完璧な陰画へと反転させてくれる気配への渇望が、私の指に、私の意志とは無関係に力を込めていた。
息を吸い、覚悟を決め、ゆっくりとドアを引く。
カラン、と。
あまりにも澄んだ、鈴の音が鼓膜を震わせた。まるで、この世の全ての騒音を濾過した後に残る、たった一つの純粋な響き。その音を最後に、世界は沈黙した。
路地裏の湿った腐臭は、ドアを閉じた瞬間に、世界の向こう側へと追放された。店内は、古い木と、芳醇なアルコール、そして、微かなレコードの埃が混じり合った、知的で、禁欲的な香りで満たされている。外の喧騒は、分厚いドア一枚で完璧に遮断されている。そこは、まるで深海の底に作られた、秘密の書斎のような空間だった。
客は、誰もいない。照明は最低限にまで落とされ、磨き上げられた分厚い一枚板のカウンターだけが、温かい光の帯をまとっている。背後の壁に並んだ無数の洋酒のボトルが、まるで博物館のガラスケースに収められた、古代の工芸品のように、静かな光を放っていた。
そのカウンターの奥に、男が一人、立っていた。
糊のきいた白いシャツに、黒いベスト。白髪混じりの髪を短く整え、年齢は、私の父よりも少し上だろうか。彼は、私の存在など意にも介さないように、ただ黙々と、乾いた布で薄いグラスを磨き続けている。その、儀式めいた、一分の隙もない動き。彼こそが、この世界の支配者なのだと、私は直感した。
やがて、彼の動きが止まる。磨き上げたグラスを、光にかざして、傷一つないことを確認すると、彼は、その視線を、ゆっくりと私に向けた。
射抜かれる、と思った。
それは、怒りや不審といった、ありふれた感情の色を帯びていない。もっと根源的な、まるでレントゲン写真のように、私の内面の骨格までを透過し、その歪み一つひとつを記録しようとする、執刀医のような、冷徹で客観的な視線だった。着古したワンピース、こわばった表情、ポケットの中でカメラを握る指先の震え。その全てが、彼の双眸によって分解され、値踏みされ、分類されていく。圧倒的な場の空気と、彼の視線に呑まれ、私は、声も出せずに、入り口で立ち尽くしていた。
「……いらっしゃい」
店内に流れるレコードの、音の隙間を埋めるように、彼の低い声が、水面に落ちたインクのように、静かに広がった。それは歓迎の響きではなく、ただ、私の存在を「観測した」という、事実の通告のような声だった。
その声に促され、私の喉から、ようやく、か細い息が漏れた。
「あ、あの……一人でも、大丈夫、ですか……?」
自分の声が、まるで知らない子供の声のように、情けなく、そして場違いに響く。ここにいていいのか、という存在そのものへの許可を求めるような、卑屈な問い。
この世界の主人は、答えなかった。ただ、もう一度、私の頭の先から、履き古したスニーカーの爪先までを、ゆっくりと一瞥する。そして、ほんのわずかに、顎を引いた。
「……どうぞ」
彼はそれだけを言うと、カウンターの一番端の、入り口から最も遠い席を、指先で、静かに示した。
その許可に、私は、まるで追手から逃げ切った逃亡者のように、浅い息を漏らした。そして、彼の示す場所へと、逃げ込むように、吸い寄せられるように、向かう。
高い木製のスツールに腰を下ろし、冷たく、滑らかなカウンターに指先を置いた瞬間。私は、ようやく、この結界の内側に、自分のための席が一つ、用意されたような気がした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語、三歩目の足跡です。
自分の骨格までを見透かす、冷徹な視線。
それなのに、その視線に射抜かれた末に与えられた、たった一席の、安らぎ。
誰かに無条件で愛されるより、誰かに完璧に“観測”されることで、救われる魂だって、きっとある。
結界の内側で、ようやく息をつけた彼女。
けれど、この沈黙の支配者は、まだ彼女に問いかけてはいません。
「お前は、何者だ」と。
彼女が、その問いに差し出す、最初の答えとは――。
次回、第一章 第四話 「呪文の名は、カルアミルク」
深海の書斎に、レコードの針が落ちる音。
私たちの楽曲「カルアミルク」のメロディが、すぐそこまで近づいてきています。
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明日も、22:10に、次のグラスをご用意してお待ちしております。